第十一話:逆鱗 -The Fury-
「み、水も持っていますし、時間がかかっているのでは…」
バデロンは顔を青ざめさせ、狼狽した様子で呟いた。
「それでも、ものの数分で帰って来られる距離じゃ!我が様子を見てくる!」
イヴリスはそう言うと、シエナの向かった方向へ走り出した。
「俺も…!」
ヴェルトールは痛む脚を押さえ、立ち上がろうとした。だが、激痛に阻まれ膝から崩れ落ちる。
「君は無理をするな」
「でも…!!」
レックスはヴェルトールの肩にそっと手を置き、
「確かに、この状況で子供だけでは心配だ。代わりに俺が見てこよう」
そう言って、彼はイヴリスの後を追うように走り出した。
「くそ、こんな時に…!!」
ヴェルトールは地面を拳で叩きつけながら、悔しさに顔を歪めた。誰よりも早く動きたかったのに、体が言うことを聞かない。
彼は何もできず、駆け出したレックスの背中を見送ることしかできなかった。
「シエナ…!頼む…無事でいてくれ!」
彼の声は、届くはずのない遠い空へ消えていった…。
「シエナッ!!」
川辺に着いたイヴリスは、叫ぶように声を上げてシエナの名を呼んだ。だが、返事はない。
彼女は必死に目を凝らし辺りを見渡す。
すると川から少し離れた草むらに、シエナが持って行った桶が不自然に転がっているのを見つけた。
「あれは……!」
彼女の心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。
「くっ、やはり杞憂ではなかったか!」
イヴリスは冷たい汗が頬を伝うのを感じた。
――ちっ、魔力を消耗するが、今はそんな事を言っておる場合ではない!
彼女は自らの制約を破るように心で呟くと、その体が淡く黒く光り出した。
―バサッ!
なんとイヴリスの背中からまるで闇そのものが具現化したかのように、漆黒の竜の翼が生え出した。
彼女は翼を大きく広げると、そのまま空へと舞い上がった。
真紅の瞳は淡い光を放ち、その輝きは暗闇を切り裂くかのようだった。
「シエナの魔力は……」
イヴリスは、魔力の流れを読み取るように集中した。
「くっ、流石に子供の微弱な魔力は感知しにくい…!」
そう言って目を凝らすイヴリス。
「…まさか…!」
その時、脳裏によぎった最悪の結果…。しかし彼女は頭を振って振り払う。
「いいや、認めぬぞ……!その様な事は!」
そこに遅れて到着したレックスは、息を弾ませながら辺りを見渡す。だが、誰もいない。
その時レックスの目に、イヴリスが投げ捨てた桶が転がっているのが映った。
「あれは!…だが、二人は一体どこへ…」
彼は、嫌な予感に胸騒ぎを覚えながら呟いた。そして周辺を探す為、夜の闇へと消えて行った。
一方上空では……
「……っ!」
イヴリスの瞳が微弱な魔力を捉え、大きく見開かれた。
「見つけたぞ!恐らくあれじゃ!!」
彼女は夜空を切り裂くように、凄まじい速さでシエナの魔力を感知した方向へと空を翔けて行った。
その頃、薄暗い廃墟に作られた盗賊のアジトには、酒を片手に男たちが下卑た笑い声で騒いでいた。
「頭ぁ、上手くいきやしたねぇ!」
盗賊の一人が、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべながら言った。
「でも、こんなガキ一匹攫ってどうするんですかい?」
彼は、気を失い縄で縛られ、地面に転がされたままのシエナに視線を向け、嘲るように続けた。
「奴隷商に売るにしても、こんな貧弱なガキ、大した金にならんでしょ?」
その言葉に他の盗賊達も疑問の声を上げ、共感を示した。
「はっ!だからテメェらはバカなんだよ!」
盗賊の頭目らしき男は、手下を鼻で笑いながら言った。
「いいか?よぉ~くこのガキのツラを見てみろ…。こいつぁあと5、6年もすりゃあ、なかなかいい女になると思わねぇか?」
得意気に続ける頭目。
「へぇ…それが何かあるんですかい?」
盗賊の一人が間の抜けた顔で答える。
「察しの悪ぃヤツだな…つまりだ!こいつをどっかのバカなお貴族様か娼館にでも売りつけりゃあ、いい金になるってこった!」
頭目は、舌なめずりをしながら下卑た笑みを浮かべた。
「すぐに売っ払ってもいいし…へっへっへ、その頃まで俺らが飼い慣らして、好きに楽しんでから売り渡したっていい!」
「なるほど!そりゃあいい!」
手下の盗賊たちは、頭目の言葉に感心したように声を張り上げた。
「さすが頭!俺らとはデキが違うってなもんだ!」
その時、
場違いなほど静かな足音が、部屋の向こうの暗闇から響いてきた。
―コツ…コツ…コツ…
「なんだぁ?」
盗賊の一人が、怪訝な様子で暗闇に目を凝らす。
―コツ…コツ…コツ…
すると足音と共に、暗闇に妖しく光る二つの紅い光が浮かび上がった。
「ひぃっ!!」
盗賊はまるで蛇に睨まれた蛙のように、その紅い光に驚き腰を抜かした。
「はっ!なぁにビビッてやがる?」
頭目は、男を馬鹿にするように言った。
「あぁん?ヤベェお客さんでも来たかぁ?」
彼が暗闇に視線を向けながらそう言うと、その言葉に呼応するように、暗闇から一人の少女が現れた。
そして、少女は静かに口を開く。
「…うぬらか…シエナを攫ったのは…」
「はっ!何が出てくるかと思えば!ただのガキじゃねぇか!!」
そう言って頭目は椅子にふんぞり返ったまま、鼻で笑いながら続けた。
「ほぅ…よく見りゃこいつも上玉になりそうな嬢ちゃんじゃねぇか!今日はガキどものお陰でとんでもなくツイてやがるぜ!」
イヴリスを眺めながらそう言うと、彼は笑い声を上げながら、手に持った酒を豪快に仰いだ。
「おいテメェら!そのガキも縛って繋いどけ!!」
頭目はイヴリスを一瞥し、命令するように声を上げる。
すると盗賊の一人が下品な笑みを浮かべながら、彼女にゆっくりと近づいて行った。
「お嬢ちゃ~ん。おとなしくしてりゃ痛い目に合わずにすむぜぇ~」
その時、
―ザンッ!
イヴリスに伸ばされた盗賊の腕が、一閃の閃光と共に宙を舞う。
「薄汚れた手で我に触れるな、下郎」
彼女は、氷のように冷たい声で言い放った。
宙を舞った腕が、鈍い音を立てて地面に落ちる。
―ボトッ
その瞬間、それまで騒がしかった場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「あああああああああああああ!!!!」
腕を失った男が、この世のものとは思えない悲鳴を上げる。
「て、テメェ!!何しやがったぁ!!!」
頭目は驚愕の表情で目を見開き、叫ぶように声を上げた。
「何をした…じゃと?」
紅い瞳が頭目を捉える。
「うぬらこそ何をしてくれた…」
力の余波なのか、イヴリスの美しい白銀の髪が揺れる。
「…ヴェルトールに続き、幼いシエナをも手にかけ、傷つけたか」
その言葉に呼応するように、脇に立っていた盗賊が、突如として漆黒の炎に包まれた。
「ぎゃああああああああああああああああ!!!」
尋常ではない断末魔を上げながら、彼は灰も残らず燃え尽きた。
目の前の焦げ付いた地面と、イヴリスの冷たい瞳を交互に見つめ、震える声で頭目が叫んだ。
「て、テメェら!何してやがる!そんなガキ、一斉にやっちまえぇ!!!」
盗賊達は恐怖に顔を歪ませながらも、堰を切ったように一斉にイヴリスに飛びかかる!
だが、彼女はただ静かにそこに立っていた。
その瞳には、彼らの姿など映っていないかのようだった。
「閃光の如き生しか持たぬ分際で、無為な死を選ぶか」
彼女はまるで独り言を言うかのように、ただ静かにそう呟いた。
その言葉と同時に、イヴリスの背中から先ほどよりもさらに濃く、黒い光が溢れ出し、漆黒の翼が生えだした。
「な、なんだよ、あれ…!」
「ばば、バケモンだ…!」
盗賊たちの顔は、恐怖で凍りつき血の気が引いていく。
だが、時すでに遅し。彼らが逃げ出す暇はなかった。
イヴリスはその場から一歩も動かず、ただ、両手を静かに掲げた。
彼女の掌から、漆黒の炎が迸る。それは、見る者の魂を凍らせるような絶望の色だった。
黒炎はまるで獲物を貪るかのように、うねりながら盗賊たちに襲いかかった。
触れた者を灰すら残さず、一瞬で燃やし尽くしていく。
「ぎゃあああああああああ!!」
「熱い!熱いぃぃぃ!」
悲鳴が響き渡る。だが、それも一瞬だ。
二十人はいたであろう盗賊たちは、闇に溶けるように次々と黒い靄と化し、まるで最初から存在しなかったかのように霧散していった。
最後に残った盗賊が、震えながらイヴリスに飛びかかった。
しかし、彼女はそれを冷ややかに見つめ、手刀を水平に一閃する。
―スッ
男の身体は腰から上下に断ち切られ、上半身が地面に転がった。
手刀から流れる鮮血を無造作に振り落とし、イヴリスはまるで足元の塵を見るかのような目で、男の死体を一瞥した。
「ふん、他愛のない」
そう冷ややかに呟くと、コツ…コツ…と静かな足音を立てながら、イヴリスはゆっくりと頭目に近づいていった。
「ひ、ひぃぃ!ま、待ってくれ!おおおお、俺が悪かった!!」
頭目は泣きながら腰を抜かし、後ずさりする。
「そ、そのガキは返す!だから命だけは許してくれよ!!な?な?」
シエナを指差し、彼は這いつくばるようにイヴリスに懇願した。
するとイヴリスは、頭目の哀れな懇願を無視し、冷たく、そして静かに言った。
「我の逆鱗に触れたのだ…。苦痛と共に魂ごと滅せよ」
「そ、そん…」
夜を引き裂くような断末魔が空に響き渡った。
その悲鳴は一瞬の光のように、そして不気味なほどの静寂を残して消えていった…。
「……ん…」
微睡みから覚めたばかりのぼんやりとした意識で、シエナは静かに目を開く。
何故か体がゆらゆらと揺れている。
「起きたか…」
イヴリスは、安堵を含んだ優しい声でシエナに話しかけた。
「こんな時間に寝ると、この後しっかり眠れぬぞ」
少し重そうにシエナを背負いながら彼女は言った。
「あれ…?イヴちゃん?どうして…」
まだ状況が飲み込めず、ぼーっとした表情で彼女が問いかける。
「なに、おぬしが迷子になって眠っておったから迎えに来ただけじゃ」
イヴリスはそっけない口調でそう言いながら、シエナをそっと地面に降ろした。
「ん~、流石に疲れたわ。ほれ、ここからは自分の足で歩け」
「……っ!そうだ!」
シエナは自分の頬を触った。
「私、知らないおじさんにぶたれて…それで…」
彼女の表情は、今にも大粒の涙がこぼれそうなほど歪んでいった。
すると、イヴリスは震えるシエナを優しく抱きしめた。
「大丈夫、もう大丈夫じゃ…」
「あやつは我が懲らしめておいた。もう安心するとよい」
そう言ってシエナの涙をそっと拭い、またゆっくりと歩き出した。
「…そうなの?…なんだかよくわからないけど…」
シエナはイヴリスの言葉に不思議そうな顔をし、
「ありがとう、イヴちゃん!」
そう笑顔で言って、彼女はイヴリスの隣に駆けつけ、手を取った。
イヴリスは、少し戸惑いながらもシエナの手を優しく握り返す。
そうしてそのまま手を繋いで、二人はヴェルトールたちの元へと歩いて行った…。