【第9話】 Sissou for Sincerely Words
会議が終わって、最初にオフィスに姿を見せたのは、副編集長だった。続いて編集長が戻ってくる。いつもより小さい歩幅に、動揺と迷いが感じられた。
副編集長が私のところに来て、編集長のもとに行くように言う。椅子に深々と寄りかかり、ミネラルウォーターを飲む編集長の姿が見えた。いつもより会議が長引いて、疲れているようだ。私が前に立つと、ためらいがちに口を開いた。
「関、三澤の書いた小説のことなんだがな、再来月刊行される文庫に、収録されることが決まった」
想定外の言葉に心拍数が跳ね上がった。ぐっと堪えて、編集長に見えないように小さく拳を握る。三澤さんの悲しむ顔を見なくて済むことが、今は何とも言えず、嬉しい。
「それと、担当交代の件だが、とりあえずは年度末までお前が担当を続けろ。文庫が刊行される忙しい時期に、不要の担当交代で、作家に混乱を与えてはならないからな」
「了解しました。編集長、ありがとうございます。でも、どうして……」
「改めて考え直しただけだ。編集は誰のためにいるのかをな」
そう答える編集長の顔は、憑き物が落ちたかのように、晴れやかだった。突発的に編集長の手を握り、力を込める。ごつごつした手には、皴が浮かんでいて、私より体温が少し高い。数秒経ってから自分のしていることに気づいて、慌てて手を離す。
顔を上げると、編集長は今まで見たことのない、悔いも憂いも包容する笑顔を、私に向けていた。
「三澤諒の新刊の書き下ろし、マジつまんねー。これで金取るとか凄いわ」
「典型的な余命もので、ここまでスベってるの見たことない」
「今までの小説も別の人が書いてたなんてがっかり。もう三澤の本は読みたくない」
「全ての作家に土下座して謝るべき」
「さっき、古本屋に三澤の本売りに行ったら、本棚にめっちゃ三澤の本あったわ。皆考えることは同じなんだな」
画面は、受け取る人間を想像していない文字列が、ズラリと並んでいる。どれもこれも喉に容赦なくナイフを突き立てるような酷評だ。好意的な感想は、一〇〇件に一件もない。このまま見続けていると、精神が粉々になってしまいそうだ。スマートフォンを布団に放り投げ、炬燵に入って顔を伏せる。歯を食いしばる気力さえなく、口は情けなく半分だけ開いていた。
文庫本発売の日の午前〇時三〇分には、もう「三澤諒、偽りの人気作家。ゴーストライターを使っていたことを新刊で告白」といったネットニュースが数件あった。ニュースはSNSで瞬く間に拡散され、一時はトレンドにまで上っていた。朝、テレビをつけるとワイドショーでも、モニターに新聞が映っていて、コメンテーター、その日は運悪く有名作家だった、が激しく糾弾していた。チャンネルを切り替えても、同じニュースが扱われていて、気分が悪くなり、トイレに駆け込んで、吐いた。
再び寝ようとしたが、脳は考えることを放棄せず、眠ることはできなかった。重い頭と体を何とか起こして、着替えを済ませ、外に出る。今にも降り出しそうな空模様で、サングラス越しの雲は自重で、瞬きした後にでも落ちてきそうだった。
フラフラとした足取りで、近所の書店に向かう。三澤諒の文庫は、店に入って二番目の机に、平積みされていた。三〇分ほど雑誌を立ち読みしながら、横目で積み重なった本を見ていたけれど、本が手に取られる様子はない。少し前に、女子高生の二人組が来て、そのうち一人が買おうとはしたが、もう一人が「やめときなよ」と止めて、結局買われずじまいだった。彼女たちは、俺が〝三澤諒〟だったら買っていてくれていたのだろうか。
電車で二駅離れたカフェで昼食を済ませ、二時間ほど時間を潰してから、再び書店に戻る。売れていることを期待したが、三冊ほどしか減っていなかった。購入者が相次いで、補充された可能性もあるが、先程の様子を見るに、本当に売れていないと考える方が妥当だろう。〝三澤諒〟だった頃は、もう既に完売御礼のポップが、踊っていたというのに。〝三澤諒〟を手放したツケが鮮明に払わされていて、自分のしたことの重大さがようやく身に染みた。コートの袖を掴みながら帰る。頬に当たる風が、切ないくらい冷たかった。
着信音で目が覚める。長座布団に突っ伏し続けて、気がついたら、寝てしまっていた。のそのそと起き上がり、スマートフォンを手に取る。この一週間、関さん以外からの連絡は全て絶っていたし、今回も通話拒否するつもりだった。ただ、画面に映った名前を見て、思わず通話に切り替えてしまう。電話をかけてきたのは、木立さんだった。
「よう、三澤。元気か?って元気なわけないよな。今ごろ家で、凹んでるんだろ」
「木立さん、どうしてかけてきたんですか、今さら。嫌がらせですか」
「その通り。お前に文句を言ってやろうと思ってな。SNS見たぞ。お前のアカウント宛に、目も当てられないようなメッセージが、たくさん寄せられてるな。『もう二度と書くな』だの、『感動を返して』だの。『消えろ』『死ね』みたいな直球もあるな。お前、どう思う?」
「どう思う?って、消えたいし、死にたいですよ。作家として否定されるならまだしも、存在まで否定されるなんて」
「そうだな、まぁざまあみろだ。俺はこうした罵詈雑言を、今まで何度となく受けてきた。お前の分までな。表現する以上は、批判されて当然なんだよ。どうだ。書く身になってみて、少しは俺の辛さが分かったか」
「木立さんは、こんな大変な思いをしていたんですね。そうとは知らず、今まですみませんでした」
「今まで?今もだろ。今朝からマンションの受付に、記者やらリポーターやらが押しかけてきて、ピンポンピンポンうるせぇんだよ。外に出ようと思ったら、それ来たとばかりに、マイクを向けられて。鬱陶しいったらねぇぜ。おかげでろくに外出もできやしねぇ。他の入居者にも、迷惑かかってるしよ。お前、これどうしてくれんだよ」
「僕が、今から木立さんのマンションに向かって、取材に応じます。そうすれば報道陣も、いくらか気が晴れるでしょうし」
「お前、何も分かってねぇんだな。俺が言いたいのは、そういうことじゃねぇんだよ。第一、お前がマンションまで来たら、もっと報道陣が集まっちまうじゃねぇか。キリがねぇよ。頼むからこっち来んな。そのまま家にいてろ」
何も言えずに、黙ってしまう。スマートフォンを持つ手と、ちっぽけな脳みそだけが存在していて、後は壊れてしまったかのようだ。
「まぁいいや。いやよくねぇんだけどな。こうなることは分かってたからな。一週間は家から出なくても平気なように、準備はしてある。で、お前どうすんだ、これから」
「今は何も考えたくないし、何もする気になれません」
「まあそうだろうな。お前はそのまま家で、屍のようにくたばってろ。アヤカちゃんのせっかくの思いを、ドブに捨てながらな」
「関さんがどうかしたんですか?」
「何、お前知らないの?俺も中美さんから聞いた話だけどさ、アヤカちゃん、お前の小説を世に出すために、色々頑張ったらしいぞ。毎日、誰かに頭を下げてたらしくてさ。最後には自分が担当を外れるのと引き換えに、編集長を納得させたんだってな。普通、作家のためにそこまでするかね」
「え、関さん担当を外れるんですか?」
「今年度限りって話だぞ」
関さんが、担当を外れる。その事実は、世界のどんな事象よりも深刻で、頭の片隅で何かが砕ける音がした。俺は一体何をしているんだ。今すべきことは、長座布団に突っ伏すことじゃないはずだ。
「木立さん、もう切っていいですか」
「そうだな。これで本当にさよならだ。まぁ元気でやろうぜ。俺もお前も」
「木立さん、今まで本当に、本当にありがとうございました」
「ああ」
木立さんからの返答があると、すぐに電話を切った。スマートフォンをポケットに入れ、財布と鍵だけを持って、使い古したスニーカーを履く。勢いよくドアを開けて、脇目も振らずに駅へ急ぐ。
二月の風はいつもより強く、氷柱のように体を刺すが、今は大して気にならなかった。信号待ちの間も、衝動は膨らんでいく。身体の発熱が、苦しくなる呼吸を凌駕する。一刻も早く、辿り着かなければならない。会って、伝えなければならない。心臓の中心で、質量を増す存在の正体を。脳髄を打ち抜く激情を。
駅の看板が見えたのをきっかけに、俺はさらにスピードを上げた。確信的な一心が俺の体を、突き動かしていた。
(続く)