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柘榴と二本の電波塔  作者: これ
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【最終話】 Jonetsu over the Tower



会社へのクレームの電話は、止むことがなかった。むしろ六時を過ぎて、仕事を終えた人が出始めた分、コールがひっきりなしに鳴っている。電話を取って、申し訳ございませんと謝ることの繰り返しに嫌気が差し、天井を見やる。いくつもの四角がこちらを見返してきて、かえって気分を悪くした。


「関さん、大丈夫ですか。ここ数日、ずっと残業してるじゃないですか」


 隣の席の福原が、心配そうに話しかけてきた。大丈夫と、無理やり笑顔を作って返す。再び電話に手を伸ばそうとしたとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。三澤さんから、メッセージが届いている。


「これから少し会えませんか。今、会社の前にいます」


 スマートフォンを見つめて、束の間動かなかった私に、福原が「どうしたんですか」と心配してくれた。私は「ごめん」とだけ言って、編集長の机の前に向かった。電話は福原が代わって取ってくれた。編集長も同じように、苦情の対応に追われている。頭を下げる姿に、威厳は感じられない。自分のせいだと申し訳なく思いつつも、電話が終わったタイミングを狙って、話しかけた。


「編集長、たった今、三澤先生から連絡が入って、『これから会えないか』とのことなんですが」


「それは、今じゃなきゃいけないのか」


 三澤さんからのメッセージは、無味乾燥な文面だったけれど、切羽詰まったものを感じていた。


「はい、どうしても今でなければいけないと考えます」


「理由は」


「直感です」


 私と編集長は目を合わせる。編集長の瞳に気圧されそうになるが、目を逸らすわけにはいかなかった。しばらくすると、編集長は呆れたように、「分かった。でも、すぐ戻って来いよ」と笑った。


 編集部内に「少し抜けます」と聞こえるように報告し、鞄も持たずにオフィスを出た。革靴が廊下を蹴る音が速くなり、人にぶつかりそうになりながらも、エレベーターホールに急ぐ。エレベーターは一階を経由するので、少なくない時間がかかりそうだった。私は横のドアを開けて、非常階段を下った。体は焦っていたが、心の奥はなぜか、波もなく落ち着いていた。




 自動ドアをくぐると、ひんやりとした風が、私を刺激した。辺りはもう暗くなっており、街頭の灯りが、仄かに道を色づかせる。広場の真ん中に、三澤さんは立っていた。肩が揺れていて、吐き出される息は白い。手袋をしていない手はかじかんでいて、とても冷たそうだ。


「どうしたんですか、急に。大丈夫ですか」


 震えている三澤さんの近くにまで行って、尋ねる。三澤さんはこちらを真っすぐ見ていて、その瞳の中には私の姿があった。三澤さんは私を見て、訳もなく、微笑んだかのように見えた。


「関さん、行きましょう」


 三澤さんはそれだけ言うと、踵を返して歩き出し始めた。その後ろ姿には迷いがなく、冬の空気のように、からっとしたものを感じた。三澤さんの姿が遠くなっていく。私は三澤さんを離してしまわぬよう、後について歩いて行った。乾いたアスファルトの頼りない感触が、私をかろうじて地表に押しとどめている。


 歩いている間、三澤さんは何も言わなかった。私からも何を話しかければいいのかわからず、黙っていた。二人の距離は縮まらない。信号待ちでも隣にいるのが憚られ、一定の距離を取る。


 三澤さんは振り返ることもせず、ずっと何かを見ていた。そして、私も同じものを見ている。三澤さんがどこに行こうとしているか、私には何となく分かった。


 私達は上り坂を歩く。角を曲がっても上り続け、三澤さんは頂点に達すると、立ち止まった。小高い丘の頂上にあったのは、頼りなくも雄々しい、自立した電波塔だった。赤く塗られた金属が繊維となって、一つの組織を作り上げている。その姿がとても象徴的で、私は息を飲む。下から巨大なライトに照らされていて、今まで何度も見たはずなのに、新鮮さと懐かしさを覚えた。


 私には、その電波塔自身が光を放っているかのように見える。暖かな光が訪れた者たちを、優しく肯定してくれる。




 私は初めてこの街に来たときのことを思い出していた。


 今の会社に就職するにあたって、私は二十二年過ごした親元を遠く離れて、一人暮らしを始めた。四畳半の部屋は、今まで住んでいた家よりもずっと狭くて、どこを見てもすぐ壁に囲まれていて、心細かったのを覚えている。


 引っ越しの段ボールを片付けるのも嫌になって、部屋から出た。駅へと向かう道は、右も左も見慣れぬ景色で、私を歓迎してくれてはいなかった。下を向いて歩き続け、駅に着いた。交通系カードはまだ持っていなかったから、律義に切符を買って、地下鉄に乗った。電車は勝手に私を運んでいき、聞いたことのない駅へと辿り着く。


 地上に出ると、それはいきなり私の目に飛び込んできた。まだ日本一高い建造物だったそれは、私には、どこまでも蔦を伸ばす植物のように感じられた。おそらくは私の下までも。


 上り坂を、息を切らしながら歩いて、真ん前に立ってみる。精一杯見上げなければ、全容を視界に捉えることのできないそれは、今にも倒れてきそうで怖かったが、瞬けば、ちゃんと真っすぐ四本の足で立って、空を見上げていた。私もこんな風に、世界に根を張ることが出来たら、と思った。


 そのときからこの電波塔は、この街で暮らす私の、心の拠り所だ。より高い塔が立ち、電波塔としての役目を終えた今も変わらない。変わらずに象徴として、私の心に君臨し続けている。




 私の足は勝手に前へと動き、気がついた時には、彼の隣に立っていた。電波塔を見る彼を、私は見ている。彼の情念のこもった横顔を通して、かつての自分を見ている。そして、これからの彼も、私がいない将来も、おぼろげだが見える気がした。


 彼がこちらを向く。吸い込まれるような瞳の大きさに、不意に顔を逸らしてしまう。


「三澤さん、ごめんなさい」


「ごめんなさいって、何がですか」


「担当じゃなくなるのを黙っていたこともそうですし、こんな寒い日に来ていただいて。辛い思いをさせてしまって、すみません」


「いいですよ。道産子なので寒いのには慣れてます。それよりも、関さんは大丈夫でしたか。もうすぐ年度末ですし、忙しいでしょう」


「私は……まあ最近は、毎日遅くまで残業していましたけど、辛かったかと言われると……」


 困惑して、視線は下がってしまう。だけれど、電波塔から発せられる光が、足元にまで届いている。私が二本の足で立っているという事実を認め、再び顔を上げる。彼は変わらずに私を見ていた。


「僕もそうですよ。第一、これは自分が選んだことだから、辛いことも苦しいことも、全て受け入れなければいけない。きつい言葉もありますけど、言われているうちが、花ですからね」


「三澤さんは、自分で書いたことを後悔は」


「さっきまではしていましたけど、今はしていないです。むしろ、早く次が書きたいとさえ思いますよ。どうしてですかね」


 そう言うと、彼は少し鼻をすすり、小さく笑った。その笑顔が琴線に触れて、私もさりげなく笑顔を見せる。常緑樹みたいに立つ電波塔も、また微笑んでいるかのようだった。


 私がだらしなくぶら下げていた左手を、彼は右手で掴んだ。急な接触に動揺したが、すぐに落ち着いた。繋がれた手は二人の間に置かれている。私の左の手の甲が、彼の右の手のひらに合わさって、ほとぼりを交換しているようだった。指は交互に絡められてはおらず、私の人差し指と中指の間に、彼の乾いた中指と薬指が入っている。ぽっかり開いた隙間から体熱が逃げてしまいそうだったが、感情で蓋をして逃がさない。


 彼の一回り大きな手に、私は、私のこれまでを、全力で委ねる。


 手を繋いだまま、二人で電波塔を見ていると、鼻の先に当たるものがあった。感触でそれが雪だと分かる。一片ごとに、雪は少しずつ降る間隔を狭めていた。夜も深さを増し、寒さは厳しさを増す。私の体は、熱を生み出すために揺れ動く。唇は震え、身体は縮こまる。体に力が入っていく。


 震える私の右腕に、柔らかな感触が伝わる。彼は繋いでいた手を解いたかと思うと、右手を、私の右腕に回して掴んだ。彼が力を込めると、私は引力に惹かれて、彼の下へと落ちていく。私の左腕が、今度は彼の右脇腹に触れた。二人の間に距離はなくなっていて、私の体の震えも止まる。力が抜けていくのを感じて、彼の肩に頭を載せる。顔は斜めになっていたのに、目の前の電波塔は恥ずかしげもなく、ひたすら率直に立っている。


 降る雪が光に溶け出して、見えなくなる。私は、彼のこれからに私がいなくても、今この瞬間だけは、本物だと強く信じている。




 雪が降り始めて、彼女はとても寒そうにしていた。足が小刻みに震え、左手をオーバーコートのポケットに入れている。繋いだ手からも、巡る血液が冷やされていくのを、直に感じた。このままだと彼女が、砂糖菓子のように儚く壊れてしまいそうで、俺は右手で、彼女の右腕を掴んで自分の方に引き寄せた。彼女の体は思っていたよりも軽かったけれど、細胞が強固に結びついていて、鉱石のように自ら壊れることはないのだと知る。


 身体を接触させると、服の上からでも、彼女の体温が伝わってくる。俺の体温を差し出して、混ざり合い、三六度の熱が、二人を包み込む。彼女は俺の方に首を乗せて、瞼を閉じた。その穏やかな顔に、俺は自分のこれからを想像する。狭い部屋で書き続ける人生。書き始めては絶望し、書き上げては安堵し、ときには少し立ち止まって、振り返る。そこにいる人間を、また前を向かせてくれる存在を、俺は信じて疑わない。


 夜の暗い空に、白い雪の結晶が浮かび上がる光景に、思わず「綺麗」と呟いた。




     *



 

 照明を点ける。白熱灯は少し瞬いて、天井から部屋を明るく照らし、テレビを、本棚を、生活を浮き彫りにする。部屋の中は、外と変わらないくらい寒くて、エアコンのリモコンを手に取り、電源を入れる。早く部屋を暖めるために、温度は普段より二度高く設定する。機械的な温風が頬に当たって、寒気がした。


 窓の外は、まだ雪が降り続いている。見るからに大粒になっていて、夜が明けたら積もっているかもしれない。今年に入って、初めての雪掻きを想像し、少し気分が滅入った。


 脳内を巡るのは今日の出来事。信じられないほどの、ささやかな瞬間。それだけで動機には十分だった。


 まだ書かれていないこと。それがあるのかどうかは分からないし、発見は容易ではないだろう。それでも今は、盲目的に信じてみたい気もする。何かができるはずだと。何かを変えられるはずだと。信じることでしか、始まらないことだってある。


「よし」


 そう呟くと、コンピューターの画面を立ち上げ、電源を入れた。コンピューターはジーッという音を立てて、時間をかけて起動し、パスワードの入力画面を表示する。間髪入れずにパスワードを入力する。何百回としてきた行為が、羽化のような特別な瞬間に感じられた。


 ワープロソフトが、スタート画面を表示する。まだ何も書かれていない真っさらな白紙。これからどんな文字に染まるのか。不安もあるが期待の方が大きい。


 キーボードを叩いて、最初の文字を入力する。


 新たな始まりを告げる鐘の音が、鼓膜の奥で鳴り響いた。




      *


 


 ドアをくぐり、入ってきた人物は背が低かった。入念に磨かれた眼鏡の奥に、不安げな表情が覗く。耳元にまでかかった髪が、その童顔に不釣り合いで、初めて訪れるであろう、広さの割に物が少ない部屋に、黒目を忙しく動かしていた。俺が上がってと伝えると、動揺した様子を見せて、挙動が不自然になる。けれど、ちゃんと脱いだ革靴を丁寧に揃えていた。


 リビングの入り口で立ち止まっている彼に、ソファに座るように言う。彼は摺り足で歩き、遠慮がちにソファに腰を下ろした。ソファのあまりの柔らかさに、驚いて振り返っている。その姿に可愛気を感じ、かすかに口元が緩んだ。


「飲み物、何飲みたい?俺と同じコーヒーでいい?」


「はい、僕もコーヒーでお願いします」


「砂糖とか入れる?」


「僕は、大丈夫です」


「大人だね」


 コーヒーパックで淹れたコーヒーを、テーブルに持っていく。彼は緊張しているのか、なかなかコーヒーカップに、手を付けようとしない。俺が飲むように勧めると、俺とコーヒーカップを交互に見て、ようやく口に運んだ。思っていた以上に苦かったようだ。口元に皴が寄っている。


 コーヒーカップを置くと、彼は鞄の中に手を入れ、ごそごそとかき回し始めた。取り出した小さなケースから名刺を一枚抜き取り、ぎこちなく立ち上がる。


「私、この度、木立先生の担当をさせていただきます、福原宏正と申します。よ、よろしくお願いいたします」


「うん、よろしく」


 福原君から名刺を受け取り、その名前をじっと見る。二年前の出来事が、ふと脳裏に浮かんだ。ミルク色の記憶だ。俺は、それをかき消さない。記憶を名刺の上に載せて、一緒に机に置く。目の前の福原君は、笑ってしまうほど背筋が伸びていた。


「まあ、そんなに緊張せずに、気楽にやろうよ。俺も初めてだしさ、一緒に頑張ってこうぜ」


「は、はい」


 福原君の、背筋は伸びたままだ。そのいじらしい姿に、俺はある面影を見る。後ろ姿が、脳裏に蘇る。無理やり開けられたドアが、戸惑っていた。


 あれからコーヒーメーカーは一度も使っていない。今では、キッチンの棚の奥深くにしまわれて、もう出番が来ることはないだろう。


「福原君さ、好きな本ってある?」


 福原君は返答に困った様子で、手をもじもじと動かしていた。答えが返ってくるのには少し時間がかかりそうだ。俺の視線は、窓の外に向く。


 二本の電波塔が、混じり気のない純正な姿で、高く聳えていた。



(完)

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