【第2話】Sungeki on Meeting
背後からドアが開く音がした。裸足なのか張り付くような足音がする。
「おー、三澤おはよう」
「やっと起きたんですか、木立さん。今日の二時に中美さんが来るから、それまでには起きていてって言ったじゃないですか」
振り返って、声の主の全容を視野に入れる。木立と呼ばれたその人物は、鈍色のジャージを着ていて、背丈は三澤先生よりも一〇センチメートルほど低かった。目も鼻も口も、道行く百人の顔をコンピューターソフトで合成したら、こうなるのではないかというくらい平凡だ。それなのに、体つきは三澤先生よりもガッチリしていて、幾分横に長いので、その個性は埋没してはいなかった。アッシュブラウンに染められた髪の毛が、盛大に跳ねている。
「ああ、わりぃわりぃ。すっかり忘れてたわ。ごめんな。で、この中美さんの横に座ってるのが、新しい担当さん?女なんだ」
「そうですよ、こちらの関さんが新しい担当さんです」
〝木立さん〟なる人が何者なのか。三澤先生とはどういった関係なのか。事情が何一つ呑み込めなかったが、整頓されたリビングは、私に挨拶を強要している。慌ててバックから名刺ケースを取り出し、一枚抜き取った。
「はじめまして。陽燦社の関と申します。よろしくお願いいたします」
〝木立さん〟は、右手で私が差し出した名刺を、ポイントカードみたいにつまんだ。一見して名前を確認すると、名刺をズボンのポケットにしまい、私を観察する。黒猫のような鋭い眼で、顕微鏡でも覗くように。心の最深部まで見透かされていると、確かに感じた。
「ねぇ、アヤカちゃん。年いくつ?」
いきなり諸々を飛ばした「アヤカちゃん」呼びに、心身が動揺する。コーヒーを少し飲んでから答える。カップを持つ手はかすかに震えていた。
「二十五です」
「へぇ、二十五。若いね。リョウと一つしか違わない」
「ちょっと、木立さん。いきなり『アヤカちゃん』呼びは失礼じゃないんですか。関さん、驚いてるじゃないですか」
「いいじゃん別に。減るもんじゃあるまいし。文句あんの?」
「いや、特にないですけど……」
「まあまあ、皆一回座ろう。ほら、木立くんも。引き継ぎの続き、続き」
中美先輩が、そう場を宥めると〝木立さん〟は、三澤先生の横に座った。足を大っぴらに開けて座っているので、三澤先生が使えるスペースは狭くなり、窮屈そうだった。〝木立さん〟は、温くなったミルクコーヒーを口に運んで、満足そうな顔で小さく頷いた。私という人間の品定めはもう終わったのだろうか。
「関、改めて紹介するな。こちらが木立巧実くんだ」
「うっす。よろしく」
その挨拶に遠慮は感じられない。こちらに向けてはにかんできたけれど、平平凡凡たる笑顔だった。私の疑念はより密度を増し、胸の中で膨らんだ疑問が、吐き出される。
「あの、木立さんは三澤先生とどういった関係なんでしょうか。もしかしてお付き合いされてるんですか?」
「アヤカちゃん、何言ってんの。俺と三澤はそういう関係じゃないよ。大学からの友達」
〝木立さん〟が三澤先生に「な?」と同意を求める。三澤先生は糸で引っ張られたかのように頷き、切なく笑った。私はそれを、私だけに送られたメッセージとして受信する。
「木立さんは、僕の二つ上の先輩なんです。大学の頃から木立さんにはよくしてもらっていて」
三澤先生は、笑顔の仮面を崩さない。目の前の三澤先生と〝木立さん〟の関係は、単なる先輩後輩の関係ではないように感じた。主人と使用人に近いだろうか。三澤先生の命の綱は〝木立さん〟が握っている。直感よりも深い部分が、そう私に教えてくるのだ。
中美先輩が何の気なしに話を続ける。
「関、木立くんも小説を書いてるんだ。彼、結構上手いよ。大衆的なセンスがあって、それを過不足なく言葉にできる。『売れる』小説を書かせたら、彼に並ぶ人はあまりいないんじゃないかな」
「アヤカちゃんも、きっと俺の書いた小説、読んだことあると思うよ。だって、俺の書いた小説が好きそうな顔してるもん」
どんな顔だと感じながらも、思索を巡らせる。〝木立巧実〟という作家は、見たことも聞いたこともない。もしかしてペンネームを使っているのかもしれない。そうだとしたらお手上げだ。しかし、ふとジグザグした視線が、私に向けられていることに気づく。視線の発信源は他ならぬ三澤先生。
目が合う。縋るような瞳が寂しい。まさか。
「三澤先生は、書いていないんですか」
言葉が宙に浮く。誰かが強い力で、かき消してくれることを願う。
「そうだよ。〝三澤諒〟の正体は木立くんだ。木立くんが、三澤くん名義で小説を書いているんだ」
叶わなかった。
「三澤先生、本当なんですか。三澤先生が書いていない、なんてことないですよね」
「いや、関さん。申し訳ないけど本当です。〝三澤諒〟は僕じゃない。木立さんなんです」
三本の矢に、私の心臓は貫かれた。積み上げてきた虚像というレンガが、重機で容赦なく壊されていく。コーヒーの水面に、波紋が広がる。
「それって、つまりはゴーストライターってことですか」
「やだなー、アヤカちゃん、その言い方。『共著』って言ってくれよ。一応、リョウもアイデア出してくれるんだからさ。まあ、あんま参考にならないけど」
「今の僕があるのは、木立さんのお陰なんです。関さん、裏切ってすいません。でも、分かってください。これは、僕と木立さんに与えられた役目なんです。僕が望んでしていることなんです」
「いいか、関。編集を続けていれば、これからもこういった場面にぶち当たる。編集長はお前のことを見込んで、早いうちに慣れておいた方がいいと考えて、この二人の担当につかせたんだ。これはお前の将来のためなんだぞ」
そんなこと言われても、だ。世界が一瞬にして転覆し、本当は嘘で塗り替えられる。三人の言葉は耳朶を滑っていき、バクテリアに間もなく分解されてしまう。私が今まで読んできた言葉。何度も脳内で繰り返した表現。励まし。救い。そんなものは所詮、まやかしに過ぎなかった。感覚は夜に支配されていく。目の前のコーヒーを一気に飲み干す。神経は鈍麻していて、コーヒーの味は、殴りたくなるくらい透明だった。
窓の向こうにはタワーが二つ、背中を向けるように直立している。視界はぼやけ、景色はあやふやにしか見えない。だけれど、片方の電波塔だけははっきりと見えた。太陽の光を吸収して、自分より低いもの全てを優しく撫でる。
それは、相手が何を望んでも、決して有無を言わせない、不遜な姿だった。
壁掛けの振り子時計が、時刻を告げる。アクリル板のテーブルは使い込まれているが、白い筋が流れる雲のようで、不快な感じはしない。椅子もクッションが柔らかで、背中に触れるスプルースの感触がしっくりとくる。中と外では時間の流れが、まるで異なっているかのようだ。
私たちは、喫茶店にいた。先月に「柘榴」での連載を終えた〝三澤先生〟。今回の打ち合わせは、次回作の構想を練ることがメインだった。ふと丸窓に目をやると、窓に雨が打ち付けていた。一昨日の夜から、途切れ途切れに降っている雨が、未練がましく降り延ばしている。
三澤さんと私は向かい合って座った。目と目が合っても、恥ずかしく、すぐに逸らしてしまう。お互いの深淵を覗き込む勇気は、まだ私たちにはない。
三澤さんは慌ててメニューを手に取り、私に向けて見せた。私が、オリジナルコーヒーを頼むと伝えると、視線を泳がせ、ミルクティーにすると言う。どうも新しく担当になった私を、気遣っているらしかった。こういった擦れていない雰囲気も、三澤さんを作り上げているのだ。
待っている途中に、木立さんがドアをくぐって、店内に入ってきた。髪の毛は雨に濡れていても、やはり跳ねている。私たちを見つけて、席に着こうとしたのと同時に、三澤さんが頼んだミルクティーが供される。木立さんはやってきた店員さんに「いつもの」と言って、私の横に座った。
外での打ち合わせは、三澤さんのみを作家に見立てて、編集者が二人という体で、木立さんと私が並んで座るということは、中美先輩からの引き継ぎの時に伝えられた注意事項だ。あのときの私は心ここにあらずという有様だったが、いざ横に座られると、繊毛がそばだち、体を少しだけ離したくなる。満員電車にいるような心地だ。
「おはようございます。先生。本日もよろしくお願いします」
「いいえ、木立さん。こちらこそよろしくお願いします」
同じ部屋に住んでいた二人が、今は対面に座って行儀よく挨拶を交わしている。スクリーンの向こうの、俳優の演技かと見間違う。
「先生って、今朝の日本代表の試合見ました?」
「いや、見てないですけど」
「そうですか。眠い目をこすりながら見てましたけど、本当にもったいなかったんですよね。前半で相手が一人退場になって、少なくなって。後半はずっと有利に進められたのに、得点を奪えずドロー。これで次は勝つしかないですよ」
「次の相手は、強いんですか」
「そりゃあ日本よりも、遥かに格上ですからね。世界でもベスト一〇に入るくらい強くて、正直厳しいと思います。十回やって一回勝てるかどうかって感じですね」
「そうなんですか。あ、関さんってスポーツとか見ますか」
「いえ、私もそんなには見ないですね」
沈黙した。盛り上がっているとは言えない会話が、私の一言で終わってしまい、テーブルには気まずさが訪れる。店内には私たちの他に二人しかおらず、その二人も新聞を読み、スマートフォンを見ているので、喋っているのは私たちだけだった。唯一の音源がなくなり、代わりにサイフォンが鳴る音がした。蒸気機関車の汽笛が鳴っているみたいだ。
「さて、先生。次どうしましょう」
〝三澤先生〟が先月まで連載していた『ジェットコースター』は「柘榴」の中でも高い人気を誇っていた。単行本も、前作より五万部増で刷られるという話だ。空いた三澤先生を、他社も狙っているのは明らかで、早く次の連載をさせろという空気が、部内には行き渡っていた。
「あの、前作を書いている時に何となくは考えていたんですけど、『ジェットコースター』は山間地が舞台でしたよね。だから次は別のロケーションで、やりたいんですよね」
「それは都市部ということですか」
〝三澤先生〟の会話に私が入ると、木立さんは、不意にカメラを向けられたような嫌な顔をする。ガチガチに固められた脚本に、アドリブは不要ということなのか。中美先輩はこの二人を相手に、一体どうやって打ち合わせをしていたのだろう。引き継ぎの時に聞いておけばよかった。
「都市部ともまた違うんですよね。もっと地方の開放的で、閉鎖的な場所を書きたいんです」
「では、海辺の町なんてどうでしょう」
「それも考えたんですけど、イマイチ押しが弱いんですよね。閉塞感がもっと欲しいなと」
「それならもういっそのこと、離島にしてみてはどうでしょう。四方を海に囲まれていれば、閉塞感もバッチリですよ。自分の力ではどこにも行けないという無力感も出ますし」
三澤さんは少し考え、「それいいですね」と言って二回頷いた。この頷きは一体、脚本の何ページに書かれているのだろう。ト書きを三澤さんは、そのまま読むように表現している。
筋書きのない物語に三澤さんを連れ出したいけれど、私に何ができるかのは、今はまだ分からない。この店のオリジナルコーヒーは、私には苦すぎる。窓の外では、雨が再び強く降り出し、雨粒が跳ねる音が、サイフォンの声をかき消していた。
(続く)