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柘榴と二本の電波塔  作者: これ
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【第1話】Taimen at Tower Mansion


 西から吹く微風が、若葉をさざめかせている。無情から切り離された暖かな情動が、頬に触れる。世界が一瞬で切り替わる心地がした。チャコールグレーのアスファルトも、黄緑がくすんだ雑草も、底の見通せない濁った川も、目に飛び込んでくる全ての事象が、今は愛おしい。


 心の奥から爪の先まで、想像もできないほど充足していき、自立することができなくなる。日盛りの惜しみない太陽光に、溶かされていくアイスクリームみたいだ。静かに、着実に崩れ、原形を留めなくなっていく。蜃気楼に隠されていく。崩壊を食い止めるかのように、ヒロトは私の背中に大きな両手を回して、強く抱き寄せてくれた。


 ヒロトのにべもない優しさに包まれると、呼吸をするという当たり前が、当たり前ではなくなる。頼りがいがあるとは言えない細やかな腕と、華奢な胸板が波打つのに呼応して、私の心臓も弛緩して、鼓動を緩める。粒子のようにひらりとした髪が、顔に当たってくすぐったい。吸い上げるように私の形は元に戻り、感情の結束はより確固たるものになった。


 私は生まれ変わる。きっとこの先、ヒロトが抱擁してくれる度に。何度でも。


 私たちは、唇を重ね合わせた。



      *



 天井にキーボードの音が、シャボン玉のように弾けて消える。入り口の隣にある本棚には、水色の背表紙が凸凹に浮き出ている。広い窓からは、プリズムに濾過された日光が、ふんだんに取り入れられていて、室内には空気清浄機が慎ましく稼働する。スーツはクリーニングから帰ってきたばかり。飄々とした開放感があり、私は自分の職場を、入社したときから、密かに気に入っていた。


 タイムカードは、今日も一日を起動する。青い背もたれの椅子に座り、コンピューターを立ち上げる。メールソフトを起動すると、深夜三時に一件のメールが届いていた。添付されたファイルを開くと、画面に映し出されたのは、産声を上げたばかりの文字の羅列。作家が苦心して、眠気に負けそうになりながらも、何とか書き上げであろう原稿。目が潤う。一文字一文字に乗り移った作家の魂を、最良の状態で感じられるこの時間のために、会社に来ているようなものだ。


 画面からいったん目を離して、紙パックのミルクティーを一口飲み、体に活力を巡らせる。一息つくと、図ったかのように低い声が、意識に割り込んできた。


 顔を上げると、立っていたのは、一八〇センチはある長身に、たっぷりと蓄えられた口髭が威圧的な男。文芸雑誌『柘榴』の編集長、道岡大剛だ。その眼光の鋭さに、自分が何かしでかしてしまったのかと慄いてしまう。


「関、今話できるか」


「は、はい。大丈夫です」


 編集長の畏怖的な雰囲気に圧されて、どうということはない口調も、怖く感じられてしまう。思わず立ち上がる。手を軽く机にぶつけてしまった。


「来月、中美が『ヤングペンギン』編集部に異動することになったのは知ってるな」


「もちろん、知っています。ムードメーカーの中美先輩がいなくなると、編集部も寂しくなっちゃいますよね」


 せめてもの抵抗で、無理やりにでも笑顔を作ろうとする。しかし、表情筋が上手く動いてくれず、彫刻の失敗作のような顔になってしまう。編集長は当然のことながら笑っていない。緊張で私を支配しようとしている。


「それで、中美の担当の引き継ぎをしなければならないんだが、お前には三澤諒先生を担当してほしいんだ」


「三澤先生、ですか」


 一瞬、信じることができなかった。三澤諒といえば、瑞々しい文体と感傷的なストーリーで、幅広い世代から人気を博している若手作家だ。年齢も私と一歳ぐらいしか、変わらないはず。同年代の人物の中で、最も尊敬している存在と言ってもいい。そんな三澤先生と一緒に仕事ができるなんて。


 心の中で密かにガッツポーズを作った。だが、そのガッツポーズも、すぐに言いしれない不安に消されてしまう。私に三澤先生の担当が務まるのだろうか。しばし、視線が定まらなかった。少し落ち着いてから視線を戻すと、編集長は毅然とした態度で、腕を組んで立っていた。


「編集長……。ありがとうございます……」


 意図しているわけではないだろうが、編集長の眼差しは、私を睨んでいるように感じられた。この緊張感では、浮いた言葉は許されないだろう。脳裏に浮かんだ言葉を、かき消し続ける。


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫だと思います。多分……」


 流石の編集長もこれにはやや戸惑った様子で、私には見えない言葉を、一つ二つ吐き出していた。もしかしたら、なかったことにされるかもしれない。それはあまりに嫌なので、強圧な意思に逆らうように顔を上げて、編集長を見つめる。三秒も目を合わせることができない。


 編集長は一つ頷いた。どうやら納得してくれたらしい。


「ただ、三澤先生はちょっと特殊でな。他の先生方とは、少し事情が異なっているんだ。初対面だとおそらく驚くと思うが、それでも大丈夫か」


「それは、会ってみないと、分からないです」


「それもそうだな。まあお前なら何とかなるだろ。期待してるぞ」


 私にさりげなくプレッシャーをかけ、編集長は向こうへと声を飛ばした。低い声は墜落することなく、壁まで届いていく。


「おい、中美。三澤先生と連絡取れてるか」


「取れてますよー。ていうか先月伝えたじゃないですか。明後日の十四時だって」


 ひどく軽薄な声だ。紙を捲る音の方が、まだ質量が感じられる。だけれど、中身先輩の竹を割ったような性格に、部内の危機が何度救われたか分からない。編集長の口角が、この日初めて緩んだのを、私は見逃さなかった。


「そういうことだから、よろしく頼むな」


「はい……頑張りたいと思います……」


 絞り出した声のあまりの頼りなさに、不安が活発になる。覚悟を決めなければならない。今度の仕事は、私にとって大きなターニングポイントになる。なぜだか確信めいた予感がしていた。


 窓枠の間に掲げられている時計を眺める。秒針の動きが、いつもより綽然と感じられた。





 三澤先生の待つ部屋へは、エレベーターを二つ乗り継いで行かなければならなかった。エレベータから初めて目にした内廊下は、亜麻色のカーペットが敷かれていて、そこらのビジネスホテルよりも上等だった。不思議な浮遊感に戸惑いながらも、内廊下を奥に向かって歩いていく。照明もどことなく抑えられている気がする。中美先輩は地に足をつけて、ズンズン進んでいく。私があのように我が物顔で歩けるようになるには、きっと一年や二年では足りない。


 ロビーで三澤先生の了承は得ていたので、中美先輩が木目調のドアの前に立つと、すぐにドアは開いた。横にスライドする自動ドアが、私たちに世界を広げる。こんなところにまでお金をかけるなんて、新築は違う。知らないうちに羨望の眼差しを向けていて、中美先輩にやんわりと注意される。


 ドアが開くと、玄関には三澤先生が立っていた。


「こんにちは。中美さん。いつもご足労ありがとうございます」


「ういーす。三澤先生。今日もよろしくっす」


 雑誌のインタビューでも、写真がページの四分の三ほどを占める三澤先生は、雑誌やテレビで見る以上に格好よかった。背は高いが優しい雰囲気を醸し出していて、圧迫感は感じない。足も長く、黄金比という言葉が脳裏に浮かぶ。スタイルがいいばかりか、鼻筋は高く通っているし、大きな目の主張は凄まじく、薄い唇の下にある泣き黒子がセクシーだ。爛々とした目で見つめる私にふっと笑いかける。笑顔も爽やかで、ファッション雑誌に写っていても、他のモデルと遜色はないだろう。


 それを、この先輩は。百回頭を下げたい気分になる。


「よろしくおねがいします。あ、中美さん、もしかしてそちらの方が、先月おっしゃっていた新しい担当さんですか」


「そうそう、コイツがウチの関。まだ、三年目なんで色々教えてやってくださいや」


「よ、よろしくお願いしまっ」


 緊張で語尾を言い終わる前に、舌を噛んでしまった。一瞬感じた羞恥を、床に押し付けるかのように頭を下げる。ファーストコンタクトに失敗し、心は喚きだしそうだった。


 しかし、顔を上げると、三澤先生はもう一度、微笑んでくれていた。許されたという気持ちになったのと同時に、何かをそっと隠されたような感じもした。


「関さん、こちらこそよろしくお願いしますね。さあ、詳しい話は中でしましょう。どうぞ上がってください」


 よかった。三澤先生は私の失態を、心配していないようだ。気を取り直して、よろしくお願いしますと言おうとしたが、今度は「が」のところで噛んでしまう。「さっきより早いとこで噛んでんじゃねーか」と、中美先輩が乾いた笑いを漏らしていた。



 一歩、部屋の中に入ると、まるで台本もなく舞台に放り出されてしまったみたいに、自分がひどく場違いに感じられた。どこもかしこも洒脱で、高級感が私の胸をチクチク刺す。リビングに置いてあるソファはシックなブラウンで、いかにも座り心地がよさそうだ。私はまだソファに選ばれていない。中美先輩は当然のように、三澤先生に案内される前に腰かけて、両手を組んでいたけれど。


「関さんも、どうぞおかけになってください」


 包み込むような笑顔が、私の壁を取り払う。三澤先生に促されるがままゆっくりと座ってみると、ソファは私の体重の分だけ凹み、私の存在を許してくれた。少しごわごわとした布地が気持ちいい。


「今、お飲み物を用意しますね。中美さんはいつもの通りコーヒーでいいですか。関さんは……」


「あ、こいつはカレーでいいっすよ。この前も五日連続で食べたって言ってましたし」


「み、三澤先生、そんなわけないじゃないですか。あの、私もコーヒーでお願いします」


 中美先輩の笑えない冗談に、体温が一度上がる。背中に汗が滲みだすように感じた。




 三澤先生が大仰なコーヒーメーカーで淹れてくれたコーヒーは、苦すぎず、酸味がいいアクセントになっていて、美味しかった。喉から少しずつ緊張が和らいでいく。三人とも全く同じタイミングで、コーヒーカップから口を離したのが、妙に可笑しかった。


 だけれど、三澤先生が持ってきてくれたトレーの上には、コーヒーカップが四つあった。そのうち一つはミルクを入れたのか、色が少し薄い。三澤先生は甘党なのかなと思ったけれど、三澤先生が飲んだのは、何も入れていない方のコーヒーだった。では、もう一杯のコーヒーは誰に?


 そんな私の疑念をよそに、中美先輩は、自らが『ヤングペンギン』編集部に異動になることを、改めて三澤先生に伝える。三澤先生は気丈に振る舞っていたが、抑えきれない不安が、黒髪の上で渦を巻いていた。どうやら三澤先生にとっては、初めての担当交代らしい。私も心許ないし、三澤先生も心許ない。二人の心許なさが両輪となって、混乱の底なし沼に沈んでいかないように、気合いを入れ直さなければ。


 三澤先生には他にも三社の担当がついていること、打ち合わせは、角を曲がったところにある喫茶店で行うことが多いこと、連絡は午後の方が繋がりやすいこと。一つの連絡事項も聞き逃すまいと、私は逐一メモを取った。三澤先生にも読めるように最低限の綺麗さで、けれど、なるべく素早く。


 メモ帳の三ページ目を捲ろうとしたとき、背後からドアが開く音がした。



(続く)



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