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第一話 歓喜(悪魔)

「人の数ほど人生がある。人の数ほど想いがある。」


かつて出会った老婆が書き遺した本の一文。


悪魔である私にとっては、とるに足らない言葉であり


興味こそあるものの、意味を感じないもの。本来ならば。



この地球(ほし)に生きとし生けるもの。そして、かつて生きていたもの。


彼らが紡ぐ微かな灯火は、時に美しく、次の世代へ繋がれ、


時に誰にも知られぬままパチンと音を立てて潰える。


あれから、約150年の歳月が流れた。


人間にとっての「一世紀半」は、文明を様変わりさせるに十分な時間だ。


馬車は鉄の塊へと変わり、夜闇は電気の光で駆逐された。


しかし、どれほど世界が便利になろうとも、人間が老い、衰え、


やがて死に向かうというシステムだけは、何一つ変わっていなかった。


「……お待たせいたしました、我が主。残り94年、契約の続きを始めましょう」


私は現代の雑踏の中に立っていた。


悪魔の力で編み上げた衣服は、今の時代に合わせて仕立てのいい黒いスーツ姿。


かつての主の「魂」は、2回ほどの輪廻の果てに、再びこの地上へと生を受けていた。



-戦争で亡くなった……勇敢に祖国を守り、世界が良くなることを信じて散った壮絶な人生。


-人に恵まれ、子どもや孫たちに囲まれて全うした人生。



悪魔の契約は魂の刻印だ。どれほど姿形が変わり、前世の記憶を失っていようとも、私には一目でわかる。


だが、主の魂は強く逞しく、いずれの人生も、彼らの灯火は彼ら自身の力で、


あるいは周りの人間たちの手によって美しく紡がれ、次の世代へと繋がれていった。



-悪魔の契約の期限は、残り94年。



魂がどれほど形を変えようとも、主がどこにいるのかは確認できる。


しかし、彼らが自らの足で力強く人生を歩む姿は、私の介入を拒んでいるように見えた。


ただ眺めるだけの日々は、悪魔である私に、奇妙な退屈と、それ以上の「焦燥」をもたらしていた。


「私の出番など、もうないのではないか」


格式高き上位の悪魔が、人間の生き様を前にして、己の存在意義を見失いかけている。


上位の悪魔がネガティブになるとは、またまたとんだお笑い種だ。


あの最初の老婆が書き遺した言葉が、皮肉にも私の胸をちりちりと焦がしていた。


そして、三度目の転生。


現代の、このめまぐるしく流れる時代の中で、私の魂の刻印が激しく脈打った。


これまでにないほど、弱く、微かで、今にも消え入りそうな灯火。


誰にも知られぬまま、パチンと音を立てて潰えようとしている、そんな悲鳴のような魂の揺らめきだった。


「……見つけましたよ、我が主」


私は引き寄せられるように、きらびやかな都会の喧騒から外れた、薄暗い路地裏へと足を向けた。


そこにいたのは、冷たいコンクリートの床に座り込み、膝を抱えて震えている、ひとりの人間だった。


その身体から完全に生気が失われ、ただぼんやりと、夜空の星すら見えないビルの隙間を見つめていた。


社会の荒波に揉まれ、孤独に押しつぶされ、自らの人生を諦めてしまったような人間の縮図がそこにあった。


周りを行き交う人々は、誰もその存在に視線をくれない。気づきもしない。


その想いは、ここで誰にも繋がれず、潰えようとしていた。


ゆっくりと、私はその前に歩み寄る。


と、この場で直接手を差し伸べるのは、悪魔の美学に反するというもの。


契約はすでに完了している。


魂の奥底に刻まれたあの黒い光は、150年の時を経てもなお、この人間の内に確かに息づいている。


主がその生涯を全うするまで仕えるのが私の義務であり、契約の絶対条件だ。


しかし、今の主はあまりにも脆く、今にも潰えそうなほどに追い詰められている。


悪魔の力で無理やり金銭や地位を与えて救い出すなど、とんだ興醒めだ。この話も終わってしまう。


それでは人間の「生きる想い」を観察することなどできはしない。


この現代という歪な社会のシステムの中で、主が自らの意志で再び灯火を燃やすように仕向けなければ。


私は差し伸べかけた手をすっと引き、気配を消した。


ここで急に現れた不審なスーツの男として警戒されては元も子もない。


上位の悪魔たるもの、直接手を下さずとも、運命の糸を少し手繰って主を「あるべき場所」へ追い込むくらいは造作もないことだ。


「……まずは、その冷え切った心を揺さぶるとしましょう」


私は闇に溶けるようにその場を去った。去ったふりをして、影から観察を始める。


数日経った。


やはりおかしい。私の主の生まれ変わりは、この現代社会というシステムに完全に弾き飛ばされ、


文字通り袋小路に立たされていた。


家賃の払えないボロアパートの一室で、主は来る日も来る日も、


何十件もの不採用通知が並ぶスマートフォンの画面を眺めてはため息をついていた。


求人サイトの一覧。どれを見ても「自分には無理だ」「誰も自分を必要としていない」と心をすり減らし、灯火はさらに小さくなっていく。


貯金も底を突き、明日食べるものにも困るほど、精神的にも肉体的にも限界まで追い詰められていく主。


見かねた私は、ほんの少し「運命の風」を吹かせることにした。


主が絶望に暮れて街をふらふらと歩いている時、私の放った微かな風が、掲示板に貼られた一枚のチラシを目の前に落とした。


あるいは、スマートフォンの画面に映る広告枠を、私の力ですべてある特定の情報へと書き換えた。


『未経験歓迎。年齢・性別・経歴不問。

あなたの“手”を、必要としている人がいます。

介護付き有料ホーム【アステール 明星】 スタッフ募集』


「……アステール……明星……?」


主の指が、画面を止めた。


それは、絶望に身を委ねかけていた主の心に、小さな、しかし熱い火を灯したようだった。


「このまま終わりたくない」「もう一度、自分の力で生きてみたい」


――どん底に追い詰められたからこそ湧き上がる、人間特有の強固な生存本能。


主は震える手でスマートフォンの画面を強く握り締め、自らの人生を取り戻すための、


最初の一歩を踏み出す決意を固めたようだった。


その無謀とも言える挑戦への熱量を感じ取り、私は暗闇の中でニヤリと口元を歪める。


生きるために、もう一度チャレンジする。


その力強い想いに導かれるように、主は施設へと面接の手続きを取った。



あの路地裏で膝を抱えて震えていた頼りない姿は、一時的な絶望が見せた幻影に過ぎなかったらしい。


本来の主は、決して環境に屈するような柔なタマではないのだ。


湧き上がる熱量と、物怖じしない不敵な光を宿し始めたその瞳。


これこそが私のよく知る、そして本来の主の魂の輝きに違いなかった。



緑豊かな郊外に建つ、大きな介護施設。


本来の物怖じしない性格らしく、毅然と前を向いて門をくぐる主。


だが、やはり全くの未経験の業界。


その背中には、どこか初々しい緊張感が張り詰めているのを、私は施設の窓から見下ろしながら感じ取っていた。


強がってはいても、未知の世界へ飛び込む不安に、かすかに肩が強張っている。


実に人間らしい。



-すでに手回しは済んでいる。


悪魔の力でこの時代に適した身分を用意し、一足先にこの施設の「ベテラン介護職員」として潜り込んでおいたのだ。


もちろん、名前は「阿久間あくま」とでもしておこう。


面接室のドアが開き、凛とした佇まいの奥に微かな緊張を滲ませながら入ってきた主を、私は仕立ての良い現代の介護ウェアに身を包み、極上の笑みで迎え入れた。


「お待ちしておりましたよ、我があ……おっと、失礼。今回担当する阿久間です。さあ始めましょうか。あなたの面接を」


思わず笑みを浮かべる悪魔。その心は躍っていた。


ここが、人間の「生」と「老い」が交錯する最前線であり、かつて自分が経験した道の続きであることを。


そして何より――


悪魔は歓喜した。


主との150年ぶりの再会を。


「フフフ……さあ、残り94年。


まずはこの現代の介護施設で、あなたの灯火をもう一度、大きく燃やしてみせなさい。」



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