プロローグ・悪魔、星を見上げる。
「○×▽◇*※≠AδKжυMШ∀よ、ΔΣÅ我のΞДЮЁ願いをБπ聞きζ届け給へγΩ!!」
雷が鳴り響く嵐の夜、夫を亡くし、
寂しさと悲しみに暮れたある老婆が唱えた呪文。
図らずも彼女の目の前にある夫の亡骸が供物となり、
召喚された怪しく光る魂は宿った。
肉体は原子レベルで改変され、
一瞬繭のようなものに包まれた後、激しく四散し解けた。
そしてその魂が望んだのであろう容姿へと変貌する。
解けた繭はもう一度集まり彼の翼を形作る。
「フフフ・・・人間よ!私を呼び出すとは命知らずにも程がありますよ。
さあ、願いを言いなさい。この供物と引き換えに叶えて差し上げましょう」
黒い光に包まれ出現した若い男は、老婆を真っ直ぐ見つめ言い放つ。
「はぁ?なぁに?あらあら、あなたはどちら様かねぇ?」
老婆の言葉に度肝を抜かれた若い男は、
受肉して30秒の間に30回程の瞬きをし、
翼もいつのまにかどこかへ消えた。
「フフフ・・・冗談がお上手ですねぇ。悪魔を呼び出して惚けるとは・・」
気を取り直して言葉を発した悪魔を遮るように老婆は言う。
「アグマさんと仰るのねぇ、それじゃあお夕食のお手伝いをお願いしようかしらねぇ」
「(・・・。まぁそれくらいは構わないでしょう)わかりました、お任せください。」
悪魔は料理の腕に自信があった。
1000年生きた悪魔にとって、食事は数少ない楽しみの一つなのだ。
「アグマさん料理がお上手ねぇ。明日の朝食分も一緒にお願いしようかしら」
「(・・・まぁそれくらいは構わないでしょう)ええ、構いませんよ。」
悪魔は少々心を躍らせた。
気が付くと、悪魔の力で出現させたピンクのエプロンに身を包んでいた。
「あらあら大変、洗濯物が干しっ放しだわ、取り込まないと」
「(私がやった方が早いですね)それくらいは私が致しましょう」
悪魔は上機嫌のようだ。
「ありがとねアグマさん。今日は遅くなったし
泊まっていきなさいね」
睡眠の必要がない悪魔は頭を抱えた。
「た、楽しい・・・なんなんだこの
懐かしく心躍る感覚は・・・?」
私は比較的格式の高い悪魔である。
なし崩し的に家事を手伝う上位の悪魔など
とんだお笑い種だ。
この部屋は老婆の夫、つまり私が受肉した人間の部屋。
肉体に残された記憶がそう言っている。
しかしそうそう思い出の詰まった夫の部屋を簡単に貸すだろうか。
人間とはよく解らない生き物だが、
記憶を大事にすることだけは随分昔に見たので理解している。
「ふむ、よく解りませんが、とりあえずは朝を待つことにしましょう」
朝を迎えた。
そろそろかと部屋を出る。
大きな台所へ向かうと、
老婆は既に起床し、朝食の準備をしていた。
おかしい。昨晩のうちに朝食の準備はしたはずだ。
「あら?こんなに朝早くから珍しいわねぇ、主人のお客さんかしら?」
予想から大きく外れた老婆の言葉に、目を見開き言葉を失う悪魔。老婆は続ける。
「この立派なお料理、もしかしてあなたからのお土産?
まあまあありがとねぇ」
悪魔は話を合わせて様子を見ることにした。
「え、ええ、ご主人に頼まれましてね、本日はお手伝いに参りました」
「でもおかしいのよねぇ、主人が起きてこないのよ。今起こしてきますからね、お待ちくださいね」
老婆はエプロンで手を拭きその場を出ると、
何故かそのまま玄関から表に出て
自宅の裏にある家庭菜園へ向かっていった。
思わず老婆を追いかける悪魔。
「どうしました?ご主人はこちらにいらっしゃるのでしょうか?」
すると、手で顔を覆い声を震わせて泣き出す老婆。
「主人は先日、亡くなりました」
「(この人間は何を言っているのだ?私を馬鹿にしているのか?)
そうですか、それは残念ですね。お元気なうちにお会いしてみたかったですね。
おっと、今日のところは失礼しますね、それでは・・・」
疑念を抱いた悪魔は、去った振りをして隠れて様子を見ることにした。
数日経った。
やはりおかしい。どうも行動に一貫性が無い。
一貫性が無いというより、多くの行動に目的を感じられない。
しかしこの状況を理解するには情報が足りない。
家中には、腐った食材が溢れている。
見兼ねた悪魔は、近所の青年を装い片付けをした。
「あら、お兄さん偉いわねぇ。
私のような年寄りはあなたみたいに頼りになる人がいると心強いのよ。
本当に助かるわ。よければたまに顔だけでも見せにきて頂戴ね。
まあそうね、またお手伝いなんかしてくれたら嬉しいわねぇ」
悪魔はハッとした。
そうだ、何をしているのだ私は。
この人間の行く末を見る
手っ取り早くて確実な最善策。
『契約』だ。
「それは、、願いですか?」
目を輝かせて真っ直ぐ老婆を見つめる悪魔。
「そうね、こんなお若い方に年寄りの願いなんて図々しいかしらねぇ」
「いえいえ・・・承知いたしました。供物は既に頂いているので
あなたは十分に主としての資格があります。
願いの期限は100年、あなた様にお仕えすることをお許しください」
契約を実行・・・ここで問題が起きた。老婆に残された時間が残り僅かのようだ。
人間など長くても100年。主となる老婆は90歳近い。
願いの期限は100年と決まっているが、契約は子孫へと引き継がれる。
しかしこの方には実子が居ない。
悪魔は考えた。
悪魔は考えた。
悪魔はもう少し考えた。
悪魔は思いついた。
悪魔はもう一度考えた。
悪魔は閃いた。
契約を魂そのものにしてみようと考えた。
人間はなぜ老いて死ぬのか。
今、目の前で起こっているこの状況は何なのか。
知りたい。
どうしても。
どうしても契約したくなったのだ。
悪魔の気まぐれというやつだ。
夫を失ったという現実を受け入れられずにいるのかも知れないが、
夫を失った現実すら忘れているようにも見える。
これは実におもしろい。
人間に興味を持った悪魔は「老いる」という現象を知りたくなった。
ゆっくり老婆の前に立ち、ひざまづく。
誓いを立てるように胸に手を当てた悪魔から放たれる怪しく黒い光が、
老婆の身体へ溶け込み、消えていく。
・・・契約に成功したようだ。
翌日。
主からの依頼で、家庭菜園の手入れしていると、
背が高くて目立つ、怪しげな花を見つけた。
「これは綺麗な花ですね。何と言う名の花でしょうか?」
「あらあら、咲いていたのねぇ。これは紫苑といって咳止めの薬になるのよ。」
「なるほど、紫苑というのですね。覚えておきましょう。」
会話が成立することもある。
それも強く記憶に刻まれたであろう物事が絡むと、
途端にハッキリとする印象だ。
料理の手際も妙に良い。
演じているとも思えない。
悪魔は観察日記を付けてみることにした。
1年後。
はじめこそ私を「アグマ」と呼ぶこともあったが、
名前を呼ばれることはなくなった。
ここまでの経緯を養子の長男に伝えると
医者を連れてきた。
3つの物を見せて、世間話などの別の話をする。
その後、先ほど見せた3つの物は何だったのかを思い出せるかどうか。
3つとも言えると異常なし、言えなければ『認知症』の疑いがあるとの事だ。
予想通りではあったが3つとも言えず、見た事すら曖昧になっていた。
その他様々な検査の結果、『アルツハイマー型認知症』とのこと。
かなり進行しているようだ。
更に時が過ぎ、3年ほど経った。
何度も何度も同じ動作を繰り返す。
服を畳んでは広げて袖を通してはまた畳む。
瘦せ細り、次第に出来ることが減っていく。
4年後。
とうとう自分では食事を摂ることも
起き上がることも出来なくなった。
養子である3人の老年の男女が、年に1度ほど様子を見に来る。
かなり遠方に住んでいるらしく、
ここまで来るのに数日かかるそうだ。
老婆は息子達へ笑顔を向けているが、
初対面のような丁寧な話し方をしている。
後悔を思わせるような表情で帰宅する息子たちへ
悪魔は事務的な微笑みを向け、頭を下げる。
やがて
生活の全てに、悪魔の力が必要な状態になった。
ゆっくりと、「死」へ向かう我が主。
不思議だ。それでも私には笑顔を向けるのだ。
契約してから5年半が過ぎた。
もう、ベッド上で3日ほど目を開けていない。
何も口にしていない状況だ。
医者の指示もあり、
悪魔の力による手紙を瞬時に届ける。
2日後、養子たちが駆けつけてきた。
必死に老婆へ声を掛けている。
「おかあさん!帰ってきたよ!」
「おふくろ!わかるかい!?俺だよ!」
「かあさん!返事してよぉ!」
呼吸の回数が少なくなってきた。
2分近く呼吸をしていない。
子供たちの声が聞こえたのか、
口元が少し綻んだ様に見えた。
3人が到着するのを待っていたのであろう。
そしてその直後に心臓が止まった。
医者がいくつかの確認をし、亡くなったことを告げる。
人間の最期とはこうも呆気ないものなのか。
いや違う。約90年という時間を駆け抜けた命。
千年以上生きている悪魔から見ると、
人間の言う花のように、美しく儚く思えた。
「あらアグマさん、ずっと傍にいてくれたのね、
ありがとね。
それじゃあ、また逢いましょうね」
肉体から離れた魂は、若かりし頃の美しい女性の姿となり、
霧が晴れるように夜空へと溶けていった。
月明かりに照らされた悪魔がニヤリと笑う。
「ええ、またお逢いしましょう。
残り94年。
またあなたとの時間を刻み始めるその時まで。
お待ちしております。我が主よ。フフフ・・・」
幸せだったであろう人生の終わりを見た悪魔は、
悪魔とは思えないくらいの優しい表情で
澄んだ星空を見上げていた。
百数十年後へ続く。




