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第三話 誇りは、下から積み直す

二日目の朝。


町役場の職員は、セドリックを見た瞬間に扉を閉めようとした。


セドリックは、その前に深く頭を下げた。


「昨日は、失礼なことを言った」


扉が途中で止まる。


職員は、疑うように目を細めた。


「何だって?」


「帳簿の管理について、君たちの事情も知らずに侮辱した」


セドリックの顔は真っ赤だった。


公爵家の嫡男として生きてきた彼にとって、謝罪は裸で広場を歩くより恥ずかしいのだろう。


「鼠のほうがましだ、と言ったな」


「言った」


「俺たちは三人で、税の記録も、配給の記録も、出生と死亡の届け出も管理してる。紙を買う金すらない」


「聞いた」


セドリックは、自分の上着から小さな布包みを取り出した。


中には、数本のペンと新しい紙が入っていた。


持っていた最後の私物を売って買ったらしい。


「一日だけでいい。中を見せてくれ。今度は、勝手に判断しない」


職員は長いあいだ黙っていた。


やがて扉を開ける。


「一日だけだ」


「十分だ」


セドリックは役場に入り、それから十時間、一度も外へ出なかった。


床に座り。


埃にまみれ。


鼠の糞を払い。


破れた紙を一枚ずつつなぎ合わせた。


昼を過ぎた頃。


彼は一冊の古い土地台帳から、第四坑道へ続く保守用通路を見つけた。


さらに、その通路の上に建てられた倉庫が、事故の三年前に公爵家の関連商会へ譲渡されていたことも。


「僕の家だ」


セドリックは、記録を見つめた。


「保守用の通路を塞いで、倉庫を建てた。銀鉱石を一時保管するために」


職員は何も言わない。


「事故のあと、この倉庫を解体すれば救助が早まった可能性がある」


「だが、公爵家から許可が出なかった」


セドリックの指が震えた。


「父は、知らなかったはずだ」


「そうかもしれない」


職員が答える。


「でも、知らないで済んだのは、知る必要がなかったからだろ」


セドリックは唇を噛んだ。


やがて台帳を閉じる。


「倉庫を壊す」


「今は町の共同倉庫だ。勝手には――」


「だから、許可を取る」


セドリックは立ち上がった。


「所有者全員を集めてくれ。僕が説明する。拒否されたら、別の方法を探す」


命令ではなかった。


初めて、相手の判断を待つ言葉だった。


◇


カイルは、昨日帰った作業員たちのもとを一軒ずつ回った。


「昨日は悪かった」


一軒目では、扉を閉められた。


二軒目では、塩を撒かれた。


三軒目では、犬に追われた。


四軒目でようやく、話を聞いてもらえた。


「俺は、あんたたちを弱いと思っていた」


カイルは正直に言った。


「今も?」


「いや」


彼は、昨日一人で運ぼうとして動かせなかった岩を指した。


「俺一人では、あれを動かせなかった」


住民たちが黙る。


「どう運べばいい?」


「騎士様が俺たちに聞くのか?」


「今は騎士ではない」


カイルは腰から何かを外そうとした。


しかし、そこには剣も鞘もない。


自嘲するように笑う。


「だから、教えてくれ」


年老いた石工が立ち上がった。


「丸太を敷く」


「丸太?」


「石の下に何本も入れて転がすんだ。力任せに持ち上げるんじゃねえ」


「そんな方法が」


「騎士団じゃ習わんだろうな」


「習わなかった」


カイルは老人の隣にしゃがんだ。


「頼む。俺にも教えてくれ」


一時間後。


瓦礫の前には、十二人の作業員が集まっていた。


カイルは、誰よりも重い石を持った。


けれど、誰にも急げとは言わなかった。


水を飲む時間を決め、交代の順番を組み、腰を痛めた者を別の作業へ回した。


そのやり方は、騎士団を率いていた頃よりもずっと丁寧だった。


「右、ゆっくりだ!」


カイルが声を上げる。


「急ぐな。手を挟むなよ!」


「昨日と言ってることが違うじゃねえか!」


作業員の一人が笑った。


カイルも笑い返す。


「昨日の俺は馬鹿だった!」


「今日もだろ!」


「否定はできん!」


太い笑い声が、崩れた通路に響いた。


◇


ノアは、三等魔石を前に半日うなっていた。


「できないの?」


私が尋ねると、彼は机に突っ伏したまま答えた。


「できる」


「では、どうして進んでないの?」


「できるけど、気に入らない」


「何が?」


「美しくない」


机の上には、何十枚もの術式が描かれていた。


どれも複雑すぎて、私には模様にしか見えない。


「三等魔石に合わせると、術式を簡略化しなければならない。出力も低い。持続時間も短い。こんなのは僕の魔法じゃない」


「では、誰の魔法ならいいの?」


「え?」


「必要なのは、あなたの才能を証明する魔法じゃない。坑道に入る人が、息をできる魔法よ」


ノアが黙る。


「綺麗でなくても、弱くても、使えればいいんじゃない?」


「……君は魔術師じゃないから、そんなことが言える」


「そうね」


私はあっさり認めた。


「だから、使う側として言ってるの。爆発しない魔法がいい」


「まだ薪のことを言うの?」


「一生言うわ」


ノアは不満そうに頬を膨らませた。


けれど、その後。


彼は複雑な術式をすべて捨てた。


代わりに、町の鍛冶屋から薄い鉄板を借り、小さな風車を作り始める。


「魔石だけで空気を動かすから、負荷がかかる」


ノアは、見物に来た子供たちへ説明した。


「風車を回す力を少しだけ補助すれば、三等魔石でも長く使える」


「それ、僕にも描ける?」


少年が術式を指差した。


「無理」


即答した。


少年の肩が落ちる。


ノアは少し考え、紙を裏返した。


「……今のままでは、ね」


彼は複雑な線を消し、三つの記号だけで構成された術式を描く。


「これなら?」


少年が真似をする。


歪んだ術式が淡く光り、小さな風が起きた。


「できた!」


「線が雑だ。魔力の流れも不安定。五点」


「百点満点?」


「十点満点」


少年が笑う。


ノアは顔を逸らした。


耳が少し赤かった。


「次は七点を目指して」


それは、天才魔術師が初めて誰かに魔法を教えた瞬間だった。


◇


エリオットは、鉱山事故で亡くなった三十二人の家を訪ねていた。


名前の読み方を間違えないため。


どんな人だったのかを知るため。


紙に書かれた文字を読むだけでは、死者を悼んだことにはならないと考えたのだ。


「ルドルフは、歌が下手だったよ」


ある老婆が言った。


「でも、酔うと必ず歌った。近所中が迷惑してね」


「では、歌が好きだったのですね」


「下手だったけどね」


老婆は、泣きながら笑った。


別の家では、亡くなった男の娘が高熱を出していた。


エリオットは少女の額に触れ、すぐに私を呼んだ。


「井戸水が原因かもしれません」


治癒魔法で熱を下げながら、私は家の周囲を見る。


井戸のすぐ隣に、壊れた排水溝があった。


エリオットは家々を回り、水を煮沸するよう伝えた。


昨日は相手にされなかった。


だが今度は、自分の手で汚れた井戸をさらい、病人の世話をし、排水溝の詰まりを取りながら頼んだ。


「教会の命令ではありません」


彼は何度も言った。


「私個人からのお願いです。水が戻るまで、子供と老人には必ず煮沸した水を」


やがて、町の女性たちが大鍋を持ち出した。


広場に火が焚かれ、水を煮る作業が始まる。


エリオットはその中央で、便所の移設場所を相談していた。


ゲームの美麗な立ち絵では、決して描かれない姿だった。


泥まみれ。


汗まみれ。


袖には、子供が吐いた跡までついている。


けれど、私はそのとき初めて。


彼が本当に聖職者らしく見えた。


◇


そしてレオンは、広場へ戻った。


昨日と同じ場所。


昨日と同じ住民たち。


けれど、今日は高い台へ上らなかった。


人々と同じ地面に立った。


「話を聞いてほしい」


誰も返事をしない。


それでもレオンは続けた。


「七年前の鉱山事故について、王家は十分な救済を行わなかった。補償を先延ばしにし、この町を見捨てた」


ざわめきが起きる。


「私は当時、王太子だった。知らなかったでは済まされない」


「今さら何を言う!」


男の怒声が飛ぶ。


レオンは逃げなかった。


「そのとおりだ」


「謝って水が出るのか!」


「出ない」


「では、何の意味がある!」


「私が責任から逃げないためだ」


レオンは深く頭を下げた。


「許してほしいとは言わない。だが、力を貸してほしい。第四坑道の主弁を開けば、水が戻る可能性がある」


「また俺たちを坑道に入れるのか!」


「危険な場所には、私が先に入る」


「元王子が入ったところで何になる!」


「何にもならないかもしれない」


レオンは顔を上げた。


王太子だった頃の完璧な笑みはない。


不安も、恥も、恐れも、すべて晒していた。


「それでも、頼む」


一人の男が前へ出た。


昨日、カブを投げた女性の夫だった。


「主弁までの道を知ってる」


もう一人。


「昔、鉱山で支柱を組んでた」


さらに一人。


「倉庫を壊すなら道具を出す」


レオンは、今度は何度も頭を下げた。


そのたびに、光の糸が増えていく。


彼と住民たち。


カイルと作業員たち。


ノアと子供たち。


エリオットと病人の家族。


セドリックと役場の職員。


一本一本は細い。


けれど、町全体を覆うようにつながっていた。


「リリアナ」


ユリウスが、私の隣で呟く。


「あの光は、君から出ている」


「私から?」


よく見ると、私の胸元からも淡い光が伸びていた。


直接すべての人につながっているわけではない。


光と光が出会う場所を、支えるように広がっている。


「聖女の能力か」


「分からない」


ゲームのヒロインは、治癒魔法を使えた。


終盤になると、強大な浄化の力にも目覚める。


けれど、こんな能力は設定資料にもなかった。


「人同士の関係を魔力回路として接続している可能性がある」


ユリウスの目が輝く。


「複数人の魔力、身体能力、認知情報を共有できるなら――」


「待って」


「何だ」


「これを大量生産しようとしてない?」


「再現できるなら、行政組織に導入できる」


「人の絆を業務システムにしないで!」


「連携効率は大幅に上がる」


「絶対に嫌!」


「なぜだ。会議時間を半分にできる」


この男に奇跡を見せてはいけなかった。


◇


二日目の夜。


保守用通路を塞いでいた倉庫は解体された。


町の人々も所有者も、セドリックの説明を聞いて同意したのだ。


瓦礫も片づいた。


通風装置も完成した。


坑道へ入る人員も集まった。


残る問題は、主弁だった。


「弁は鉄製だ」


バルトが図面を指す。


「七年も動かしていない。錆びついているだろう」


「魔法で切断できる」


ノアが言う。


「切断したら水量を調節できない」


ユリウスが却下する。


「では、溶かす」


「水圧で弁が破裂する」


「凍らせる」


「開けたいのか閉じたいのか、どちらだ」


ノアが舌打ちした。


「注文が多い」


「君の案が雑なんだ」


カイルが図面を覗き込む。


「全員で回せばいいだろう」


「弁室は狭い。入れるのは四人が限界だ」


「俺一人で回す」


「昨日、岩一つ動かせなかった男が?」


「あれは持ち方が悪かった!」


レオンが、図面の端を指差した。


「これは何だ?」


主弁の横に、小さな四角が描かれている。


バルトが目を細めた。


「固定具だ。弁を開けたあと、逆流しないよう留め金を差し込む」


「誰が差し込む?」


「弁の向こう側からだ」


静寂が落ちた。


主弁を開けば、大量の水が流れ込む。


向こう側にいる人間は、逃げる時間がないかもしれない。


「固定具を使わない場合は?」


ユリウスが尋ねる。


「誰かが弁を押さえ続けるしかない」


「押さえる者は?」


「水路の中だ」


誰も口を開かなかった。


ユリウスはすぐに計算を始めた。


「水圧、流量、弁室の広さを考えれば、生存確率は――」


「言わなくていい」


私は遮った。


「だが必要な情報だ」


「人を置いてくる前提で考えないで」


「町全体と一人を比較すれば、判断は明確だ」


「ユリウス!」


「俺は犠牲を望んでいるわけではない」


彼の声は、冷静だった。


冷静すぎた。


「だが、選択しなければならないときはある」


「なら、俺が残る」


カイルが言った。


「駄目だ」


レオンが即座に否定する。


「なぜだ」


「危険すぎる」


「俺は騎士だ。誰かを守って死ぬのが――」


「お前はもう騎士ではない!」


レオンの声が響いた。


カイルの顔が強張る。


レオン自身も、言ってから息を呑んだ。


「……違う」


彼は首を振った。


「そういう意味ではない」


「では、どういう意味だ」


「死ぬ理由に、昔の肩書を使うな」


カイルが黙る。


「王子だから責任を取る。騎士だから命を捨てる。聖職者だから苦しみに耐える」


レオンは、ゆっくり仲間を見回した。


「私たちは、ずっと肩書を理由に生きてきた。今度は、それを理由に死ぬつもりか?」


「なら、どうする」


「全員で帰る方法を考える」


「時間がない」


ユリウスが言う。


レオンは彼を見る。


「お前は効率が悪いと思うだろう」


「ああ」


「それでもだ」


二人の視線がぶつかる。


ユリウスが先に目を逸らした。


図面へ視線を戻す。


「固定具に代わる機構を、地上から操作できればいい」


ノアが鼻を鳴らす。


「そんな仕組み、今から作れるわけがない」


「新しく作る必要はない」


それまで黙っていたセドリックが、一枚の書類を差し出した。


「保守用通路の資材記録に、釣り合い錘と鉄鎖の記載がある。主弁は、元々一人で開けるものではなかったんだ」


バルトが書類を奪うように読む。


「旧式の遠隔開閉装置か」


「事故前に故障し、部品だけ倉庫へ移されたらしい」


「倉庫は解体した」


カイルが立ち上がる。


「部品を探す!」


「待て」


ユリウスが手を上げた。


「鉄鎖が残っていても、組み直すには時間がかかる」


「残りは?」


私が尋ねる。


彼は時計を見る。


「十七時間」


誰も諦めなかった。


◇


三日目の朝。


町の貯水槽は、ほとんど空になっていた。


最後の水は、病人と子供のために残された。


広場には、坑道へ入る者と、それを見送る者が集まっている。


坑道の扉の前に、マルタが立っていた。


五十歳ほどの痩せた女性だった。


手には、大きな鉄の鍵が握られている。


エリオットが、一枚の紙を開いた。


「これより、七年前の鉱山事故で亡くなられた方々の名前を読み上げます」


一人目。


二人目。


三人目。


一人の名前が呼ばれるたび、群衆の中で誰かが泣いた。


誰かが目を閉じた。


誰かが胸元で手を組んだ。


三十二人目。


最後まで読み終えると、エリオットは紙を畳んだ。


「私たちは、皆様の死を利用して美談を作りません」


彼は言った。


「事故を忘れず、同じことを繰り返さないために、この坑道へ入ります」


マルタはレオンの前に立った。


「約束して」


「何を?」


「生きて帰ると」


レオンは答えに詰まった。


安易な約束はできないと考えたのだろう。


マルタの目が険しくなる。


「うちの人も言った。危なくなったら逃げるって。王都から救援が来るまで耐えるって」


「救援は来なかった」


「そうだよ」


レオンは、しばらく彼女を見つめた。


やがて、両手で鍵を受け取る。


「必ず帰る」


今度は、はっきり言った。


「私一人では約束できない。だが、ここにいる全員と約束する」


マルタの目から、一筋の涙が落ちた。


「鍵を返して」


「ああ」


坑道へ入るのは、レオン、カイル、ノア、ユリウス、そして私。


セドリックは地上で遠隔装置を組み立てる。


エリオットは負傷者の手当てと、町への連絡を担当する。


本当は私も地上に残るよう言われた。


全員に。


「危険だ」


「君は治癒術師だ。外で待て」


「聖女を坑道に入れるなんてあり得ない」


「足手まといだよ」


四方向から言われた。


私は笑顔で答えた。


「では、怪我をしても治さないわね」


全員が黙った。


交渉成立である。


◇


第四坑道の中は、冷たく湿っていた。


ノアが作った通風装置が、低い音を立てて回っている。


見た目は不格好だった。


木と鉄板を無理やり組み合わせ、魔石を縄で固定してある。


けれど、確かに空気は流れていた。


「美しくない」


ノアは歩きながら何度も呟いた。


「でも動いてる」


「美しくない」


「役に立ってる」


「それとこれとは別だよ」


足元の水が、少しずつ深くなる。


膝の高さまで来たところで、崩落箇所が見えた。


太い梁が斜めに倒れ、その下に岩が詰まっている。


「図面では、この先が弁室だ」


ユリウスが言う。


カイルが梁に手をかける。


「持ち上げる」


「一人で?」


私が尋ねる。


カイルは少しだけ考えた。


そして後ろを振り向く。


「レオン。反対側を頼む」


レオンが頷く。


「分かった」


「ユリウスは岩の位置を見てくれ。ノアは支柱が崩れそうなら言え」


以前のカイルなら、すべて自分でやろうとしただろう。


二人が同時に梁を持ち上げる。


ユリウスが岩を抜く順番を指示する。


ノアが、小さな補強魔法を梁へかけた。


「今だ!」


岩が転がる。


通路が開いた。


その直後、天井から砂が落ちてきた。


「走れ!」


全員で弁室へ滑り込む。


背後で大きな音がして、通路の一部が崩れた。


「帰り道が塞がった」


ノアが青ざめる。


「完全には塞がっていない」


ユリウスが即座に確認する。


「人一人が通れる隙間はある」


「それを先に言って!」


「確認してからでなければ言えない」


こんなときでも平常運転だった。


弁室の中央には、巨大な鉄の車輪があった。


表面は赤黒く錆びついている。


車輪から伸びた鉄鎖は、天井の穴を通って地上へ続いていた。


「地上側、聞こえるか!」


レオンが伝声管へ叫ぶ。


しばらくして、セドリックの声が返る。


『聞こえている。鉄鎖は遠隔装置につないだ』


「動かせそうか?」


『正直に言えば、信用できない』


「正直すぎるな」


『君にだけは言われたくない』


かすかに、全員が笑った。


ユリウスが車輪を調べる。


「最初の一回転は、坑道側から補助する必要がある」


「俺が回す」


カイルが車輪を掴んだ。


レオンも隣に立つ。


「私も」


「邪魔をするなよ」


「お前こそ」


二人が力を込める。


車輪は動かない。


「ノア」


レオンが呼ぶ。


「何」


「錆だけを剥がせるか?」


「簡単に言わないでくれる?」


「できないのか?」


ノアの眉が跳ね上がる。


「できるよ!」


「挑発しないで!」


私が止めたときには、ノアは杖を構えていた。


「熱を加える。膨張差で錆を割る」


ユリウスが即座に計算する。


「温度は百二十度以下。急激に加熱すると車輪が歪む」


「分かってる」


「過去の実績から、君は加減が――」


「分かってる!」


ノアの杖先に、青い光が灯った。


ゆっくり。


本当にゆっくりと、鉄の表面が熱を帯びる。


今までの彼なら、一瞬で真っ赤にしていたはずだ。


小さな音がした。


錆が割れ、床へ落ちる。


「今だ!」


カイルとレオンが押す。


車輪が、わずかに動いた。


「もう一度!」


少しずつ。


一寸ずつ。


鉄の車輪が回り始める。


けれど、半回転したところで止まった。


奥から、低い音が響く。


水だ。


主弁の向こうで、行き場を失った水が唸っている。


「圧力が高すぎる」


ユリウスが言った。


「地上側の装置を動かせ!」


レオンが伝声管へ叫ぶ。


『動かす!』


セドリックの声。


遠くで、大勢の掛け声が聞こえた。


地上で町の人々が、鉄鎖を引いている。


車輪が軋む。


動く。


また止まる。


「鎖が引っかかっている!」


カイルが叫んだ。


地上からも怒声が聞こえた。


『倉庫の梁が歪んだ! 一度戻す!』


「戻したら弁が閉まる!」


ユリウスが伝声管を掴む。


『分かっている!』


セドリックの声が返る。


いつもの冷静さがない。


『だが、このまま引けば装置ごと壊れる! 三十秒だけ持たせろ!』


「三十秒だと?」


カイルが車輪に肩を押しつけた。


「やるしかない!」


レオンも並ぶ。


二人の腕が震える。


私は背中に手を当て、治癒魔法を流した。


筋肉の損傷を治しながら、力を維持する。


「ノア!」


ユリウスが叫ぶ。


「車輪の摩擦を減らせ!」


「術式がない!」


「作れ!」


「無茶を言うな!」


「君は天才だろう!」


ノアが一瞬、目を見開く。


それから、苦しそうに笑った。


「そういう使い方、ずるいよ」


彼は杖を床へ突き立てた。


複雑な術式ではない。


三等魔石に合わせて簡略化した、あの小さな風の術式。


風が車輪と軸の隙間に入り込み、水と錆を吹き飛ばす。


「あと十五秒!」


ユリウスが数える。


カイルの膝が沈む。


レオンの手から血が流れた。


「手を離せ」


カイルが言った。


「断る」


「お前は王だったんだ。ここで死ぬべきじゃない」


「お前も騎士だった。だから死んでいい理由にはならない」


「馬鹿が!」


「知っている!」


光が見えた。


レオンとカイルの間。


ノアと車輪。


私と三人。


そして、伝声管の向こうにいるセドリックや町の人々まで。


無数の光が一本の太い流れになる。


その瞬間。


彼らがどこに力を入れ、どこで息を合わせようとしているのか。


言葉にしなくても、私には分かった。


「今、みんなで押して!」


私が叫ぶ。


カイルとレオンが同時に踏み込む。


ノアの風が強まる。


ユリウスが鉄棒を軸の下へ差し込む。


地上から、セドリックの声が響く。


『引けえええっ!』


町中の人々の掛け声が、鉄鎖を通じて坑道へ届いた。


車輪が回った。


一回転。


二回転。


大きな音とともに、主弁が開いていく。


「開いた!」


その瞬間。


水が噴き出した。


弁室の床を一気に覆い、私たちの腰まで押し寄せる。


「固定具!」


ユリウスが叫ぶ。


だが、固定具は弁の向こう側にある。


カイルが水路へ足を向けた。


レオンが腕を掴む。


「行くな!」


「このままでは閉じる!」


「遠隔装置を信じろ!」


「壊れかけている!」


車輪が逆回転を始める。


水圧に押し戻されているのだ。


四人で押さえる。


それでも、少しずつ戻っていく。


『レオン!』


伝声管からセドリックの声。


『固定具の代わりに、鉄鎖を支柱へ巻く! だが長さが足りない!』


「どれだけだ!」


『二メートル!』


二メートル。


ほんの少し。


けれど、その少しが届かない。


ユリウスが周囲を見回した。


「使えるものを出せ!」


カイルが革の帯を外す。


レオンも上着を脱いだ。


ノアが杖に巻いていた紐をほどく。


それでも足りない。


私は自分の腰に結んでいた、治癒道具の袋を外した。


ユリウスは、首元に手をやった。


そこには、小さな銀色の鎖があった。


初めて見るものだった。


「それは?」


「前世の記憶を取り戻したときから持っていた」


鎖の先には、古い懐中時計がついている。


この世界の品ではない。


おそらく、彼が唯一大切にしていた物。


ユリウスは迷わず鎖を引きちぎった。


「使え」


「でも」


「今使わずに、いつ使う」


鎖をつなぐ。


長さは、ぎりぎり届いた。


『固定する!』


地上で金属音が響く。


鉄鎖が張る。


車輪の逆回転が止まった。


一秒。


二秒。


三秒。


主弁は開いたままだ。


「成功だ」


ユリウスが呟いた。


直後。


大きな振動が坑道を揺らした。


「何!?」


「水路に溜まっていた空気が抜けた!」


バルトから聞いていた。


最初に流れる水は、泥と空気を大量に含んでいる。


その衝撃で、天井から岩が落ちた。


「リリアナ!」


誰かに突き飛ばされる。


私が水の中へ倒れ込むのと、巨大な岩が落ちるのは同時だった。


顔を上げる。


ユリウスが、岩の下にいた。


正確には。


カイルとレオンが岩を支え、ユリウスがその下に倒れていた。


「ユリウス!」


駆け寄る。


額から血が流れている。


意識はある。


「肋骨が二本。右脚に亀裂」


本人が冷静に報告した。


「どうして分かるのよ!」


「感覚で」


「黙ってて!」


治癒魔法を流す。


けれど、水位は上がり続けている。


「岩をどけるぞ!」


カイルが叫ぶ。


「一、二――」


「待て」


ユリウスが息を荒らしながら言った。


「急に持ち上げれば、上の梁が崩れる」


「ではどうする!」


「右へずらせ。三十センチ。ノア、左上の梁を補強」


「魔力がほとんど残ってない!」


「三秒でいい」


「また無茶を……!」


ノアが杖を掲げる。


光が梁を包む。


カイルとレオンが岩をずらす。


私がユリウスを引き出す。


「今だ、走れ!」


狭い隙間を、一人ずつくぐる。


最後にカイルが通った直後、弁室の天井が崩れた。


轟音。


泥水。


闇。


それでも、通風装置の小さな魔石だけは消えなかった。


ノアの不格好な術式が。


私たちの帰り道を、淡く照らしていた。


◇


坑道の外へ出た瞬間。


大きな歓声が上がった。


全員、泥だらけだった。


レオンは手から血を流している。


カイルは肩を痛めている。


ノアは魔力切れで、まともに歩けない。


ユリウスは私とレオンに支えられていた。


マルタが駆け寄ってくる。


「鍵は?」


レオンは、一瞬きょとんとした。


それから、泥まみれの服の内側を探る。


鉄の鍵を取り出した。


「返す」


マルタは鍵を受け取った。


その手が震える。


「馬鹿だね」


「ああ」


「本当に帰ってきた」


「ああ」


レオンは、疲れ切った顔で笑った。


「約束したからな」


そのとき。


町の中央から、鐘の音が鳴った。


一度。


二度。


三度。


水路開通の合図だった。


全員が広場へ走る。


私たちも、互いを支えながら歩いた。


噴水の前には、町中の人々が集まっている。


最初に出てきたのは、黒い泥だった。


排水口から、ごぼりと濁った塊が吐き出される。


期待に満ちていた人々の顔が曇った。


「失敗したのか?」


誰かが呟く。


ユリウスが首を振る。


「七年分の堆積物だ。流し切れば――」


ごうっ、と音がした。


泥のあとから、水が噴き出した。


茶色い水。


灰色の水。


そして。


少しずつ、透明になっていく。


朝の光を反射して。


噴水の中央から、澄んだ水が高く上がった。


歓声が爆発した。


泣く者。


笑う者。


抱き合う者。


帽子を投げる者。


水の中へ飛び込む子供たち。


「出た!」


「水だ!」


「水が戻ったぞ!」


レオンは、その光景を呆然と見ていた。


一人の少女が、木の器に水を汲み、彼の前へ差し出す。


「飲む?」


レオンは器を受け取ろうとした。


けれど途中で手を止めた。


「君が先に」


「いいの?」


「ああ」


少女が一口飲む。


それから、同じ器をレオンへ渡した。


元王太子は、少女が飲んだあとの器から水を飲んだ。


王宮なら、決して許されなかった行為だろう。


「うまい」


彼は言った。


たった一言。


それだけで、周囲の人々が笑った。


カイルは、作業員たちに背中を叩かれていた。


「痛い! 肩はやめろ!」


「騎士様なら耐えろ!」


「もう騎士ではない!」


「じゃあカイル、耐えろ!」


「扱いが悪化しているぞ!」


ノアは、魔法を教えた少年に抱きつかれていた。


「先生、やったね!」


「先生ではない。僕は宮廷魔術師候補で――」


言いかけて、止まる。


「……元、宮廷魔術師候補だ」


「じゃあ、今は?」


ノアは少し考えた。


「水道用通風装置の設計者」


「長い!」


「では、魔術師でいい」


少年が笑う。


ノアも、ほんの少しだけ笑った。


エリオットは、噴水のそばで祈っていた。


けれど、神に感謝を捧げているのではなかった。


亡くなった三十二人の名前を、もう一度読み上げていた。


水が戻った喜びの中で。


彼らの死が、なかったことにされないように。


セドリックは、役場の職員と一緒に水量を記録していた。


「三分ごとに数値を取る」


「細かすぎるだろ」


「今後の保守に必要だ」


「また鼠よりましとか言うなよ」


「言わない」


「本当に?」


セドリックは一瞬、視線を逸らした。


「……昨日は悪かった」


職員が笑う。


「二度も謝ると、公爵様が死ぬんじゃないか?」


「もう公爵様ではない」


「じゃあ、セドリック」


呼び捨てにされ、彼は驚いた顔をした。


けれど訂正しなかった。


噴水のそばでは、ユリウスが帳簿を開いていた。


片脚を治療したばかりなのに、もう仕事へ戻っている。


「休みなさい」


「水質検査が残っている」


「エリオットと役場の人がやってる」


「水量の安定も確認する必要がある」


「セドリックがやってる」


「今後の維持費を――」


私は帳簿を取り上げた。


「今だけは、見なさい」


「何を」


「あなたが助けた町を」


ユリウスは、広場を見た。


笑う人々。


水を浴びる子供たち。


肩を叩き合う元攻略対象たち。


彼らを結ぶ、無数の光。


「俺だけが助けたわけではない」


「そうね」


「計画どおりでもなかった」


「全然ね」


「予定より人員を三倍使った。資材費は二割超過。倉庫も一棟失った」


「そうね」


「効率的とは言えない」


「でも、水は出た」


ユリウスは噴水を見つめた。


水しぶきが風に乗り、彼の頬へ落ちる。


「……ああ」


ほんの一瞬。


彼は、笑ったように見えた。


「水は出た」


頭の奥で、また鐘の音がした。


今までよりも強く、鮮やかな音。


視界の中で、金色の光が広がる。


レオン。


セドリック。


カイル。


ノア。


エリオット。


五人から伸びた光が、町の人々へつながっている。


ゲームの攻略画面なら、誰か一人を選ぶところだ。


王子ルート。


公爵令息ルート。


騎士ルート。


魔術師ルート。


聖職者ルート。


けれど、ここにはもう、選択肢はなかった。


誰か一人が幸福になり、残りが舞台から消える物語ではない。


誰もが誰かに支えられ。


誰かを支え。


一度失った人生を、少しずつ積み直していく。


これは恋愛攻略ではない。


人間関係の再建だ。


「リリアナ」


ユリウスが帳簿を取り返した。


「次の作業を説明する」


「もう?」


「水道が復旧した以上、排水量が増える」


嫌な予感がした。


ユリウスは町の地図を広げる。


「下水設備を整備する」


五人の元攻略対象が、一斉に振り返った。


「断る!」


「絶対に嫌だ!」


「俺はもう便所掃除はしないぞ!」


「僕に汚水用の魔法を作れっていうの?」


「神よ、これは新たな試練なのでしょうか」


ユリウスは淡々と答えた。


「水道だけ通して下水を放置すれば、町中が汚物まみれになる」


全員が黙った。


正論だった。


最低の未来を伴う正論だった。


私は、噴水の水を一杯だけ飲んだ。


冷たくて、少し鉄の味がした。


「……明日からにしましょう」


「今日の午後から始める」


「明日から」


「工期を考えると今日からだ」


「ユリウス」


「何だ」


「今すぐ噴水に落とされたくなければ、明日から」


彼は私と、背後に並んだ五人を見比べた。


戦力差を計算したらしい。


「……明朝から開始する」


効率厨が、初めて多数決に負けた瞬間だった。


こうしてルーネの町に、水が戻った。


元王太子は、人に頼ることを覚えた。


元公爵令息は、謝罪と相談を覚えた。


元騎士は、自分一人で背負わないことを覚えた。


元天才魔術師は、完璧でなくても役に立つ魔法があると知った。


元次期教皇は、祈るより先に泥へ手を入れた。


彼らはまだ、立ち直ってはいない。


過去の責任も消えない。


失った地位も戻らない。


けれど。


噴水の前で、町の人々と同じ水を飲む彼らを見て、私は思った。


人生は、元どおりにならなくてもいい。


壊れる前とは違う形で。


前より少しだけ、誰かに近い場所で。


もう一度、作り直すことができるのだから。

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