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俺が考え込んでいる間に軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていた。
攻めて来た両国の大将がやられたのだ。しかも教国の方は、自らが主神と崇める神に皇子が討たれるという最悪な形で。
宗教国家にとって、神の怒りはそれは恐ろしかろう。その撤退は驚くほど早かった。
王国の方もどうやらあの呪術師が軍を起こした元凶だったようだ。
森の外で待機していた部隊はほとんど雇われた傭兵だったのか、森の異様な雰囲気を感じた時点で半数は逃げ出していたし、魔王が雷を落とした直後には数人の騎士を残して姿を消していた。
やはり傭兵の方が危機察知能力が高いな。俺も逃げるのが正解だと思うぞ。
エリンが珍しく青白い顔をして呆然と佇んでいた。ロノは何がなんだか分からない様子で心配そうに俺とエリンの周りを飛び回り、グランは亀裂の閉じた空や森の外の撤退する軍の方向に油断なく視線を配っている。
アナンシの子蜘蛛たちの多くが浅部に潜み、人間どもを皆殺しにするか、見逃すか、俺の命令を待っているようだ。
「一旦家に戻ろう。アナンシ、逃げる人間は放っておけ。森を荒そうとする人間は殺していい。」
その場にいるメンバーに声を掛け、近くにいた子蜘蛛にアナンシへの伝言を伝える。
ログハウスのリビングに転移した瞬間によろめいたエリンを支えながら、俺は焦土と化した森の環境をダンジョン機能を使って復帰させる。エリンやアナンシが手を加えた元通りの森という訳にはいかないが、ダンジョンが『森』と認識する状態にはなる。
む、元々の環境を極力維持した以前の森と違って、マナの満ち溢れた精霊の森になってしまった。
どうにも俺には魔境を造る才能がないようだ。俺が手を加えるとどうしたって清浄なマナが溢れてしまうのは、多分聖なる因子とやらが関係しているんだろうな。
「グラン、もう楽にしてくれていい。エリン、大丈夫か?」
ブラウニーがお茶を運んできたので皆をソファに促し一息つく。
まだぼんやりしたままのエリンの頬をペチペチと軽く叩くとようやく俺に視線を合わせ、眉を下げた。
「あるじ様…。すまないの。創造神様に創られた妾たちにとって、魔王は天敵なのじゃ。」
「ん?どういうことだ?地上の生き物の敵という訳ではないのか?」
「魔王は、地上の生き物が吐き出す瘴気から生まれるのじゃ。
神々が創造神様を真似て作った偽造物は不完全故、創造神様のお創りになった世界を穢さずには生きられぬ。その瘴気が集まり力と意思を持つことで魔王となった。
もちろん地上の生き物にとっても害なす存在であることは変わらぬが、それよりも神々への影響の方が強い。
世界樹は最も瘴気を嫌い、地上を作って偽造物を追い出したが、瘴気は地上を覆いつくして最初の魔王たる龍の魔王を生み出した。あれは妾ら創造神様の手ずから創っていただいた形代にとっては忌むべき存在であり、創造神様の世界を穢した罪の象徴でもある。」
「罪と言っても世界樹は偽造物を創ってはいないんだろう?それに世界樹やハイエルフは瘴気を浄化するんだよな?」
「世界のはじまりたる者として、世界樹は偽造物を破壊しなければならなかった。それなのに神々の懇願に負けて地上に追い出すだけで済ませた故世界は今もなお汚染され続けている。
それゆえハイエルフの王は瘴気を浄化するために地上に降りたのじゃ。それがハイエルフが自らに課した永遠の罰じゃ。」
うーん、それって兄弟の一番上だから弟妹の不始末の責任を取っている感じなのだろうか?
「しかし魔王は偽造物の生み出す瘴気だけでは飽き足らず、自ら瘴気を作り出すようになった。瘴気を浄化する世界樹を餌としてな。幾人ものハイエルフが放浪の間に魔王に喰われたのじゃ。
世界樹が地上から消えれば偽造物は生きられぬ。
さすがにそれは見過ごせぬと、神々が力を尽くして偽造物に龍の魔王を討たせたのじゃ。思えばその頃から人神は主神になるために暗躍していたの。」
聞けば龍の魔王は世界樹を求めてバッサバッサと飛び回っていたようだから、地上で生きる者はたまったものではなかっただろうな。
空飛ぶ災厄。ハイエルフが龍を見たら逃げるのも頷ける。
「そう言えば、魔素が減り始めたのも一万年前だったか。龍の魔王が倒された後なんだよな?」
「そうじゃ。魔人どもが急に北へ北へと集い始めてな。それから10年もせぬ間に北側の魔素がなくなったのじゃ。」
時系列でいうと、約一万年前。調子に乗った龍の魔王が神々(の力を借りた人間)にしばかれる。
その後魔人が北に向かい、同時に北の魔素が急激に減ったため世界樹やハイエルフが魔素不足で枯れ、地上の北側は魔の領域となり踏み込む人間もいなくなった。
その後ポツリポツリとダンジョンが人間の領域に現れ始め、魔の領域以外の魔素も緩やかに減り続けている。
「魔の領域とは恐らく魔王のダンジョンなんだろう。魔王が生まれ、何らかの方法で魔人を集めてダンジョンを作った。
だけどそれでダンジョンに訪れる餌が居なくなってしまったから、今度は小さなダンジョンを作る方法を取ったのかもしれない。育てば自分が喰らうための餌として。」
俺の言葉に皆が固唾を飲む。そう、俺は魔王が創り出した養殖の餌だ。俺の真名を握っているのは魔王で間違いない。
あの形容し難い無条件に従いたくなる感情がエリンたちにもあると思うと少し怖いな。実はイヤイヤ俺の元にいたりしたらどうしよう。
そんなことを考える俺をエリンが呆れたように見やる。
「あるじ様、また碌でもないことを考えている顔なのじゃ。真名を捧げた記憶すらないあるじ様と違って、妾たちは自ら魂を捧げたことをゆめゆめ忘れてはならぬのじゃ。」
『ボクも父ちゃんが大好きだから生まれて来たよ!』
「そうですよ、ご主人様。私たちもご主人様のお優しさに触れて、生涯お仕えしたいと思ったのです。」
「儂も主殿だからこそ、我が剣と魂を捧げ申したぞ。」
う、なんか言わせた感があるけど皆の気持ちはしっかり受け取ろう。俺の元で生きてて良かったと思ってもらえるように、俺もしっかりしないとな。
さて、そうなると、今この森に向かって来ているこの一行はどうしようか。




