風を読む 那須与一宗隆 手塩の弓 第六章前編
第六章:屋島の月、紅の扇(前編)
一、平家の呪いと、源氏の動揺
元暦二年二月。夕闇が迫る屋島の入り江は、残酷なほど美しき静寂に包まれていた。
入り江は深く、干潮時には騎馬で渡れるほどの浅瀬が広がるが、そこを吹き抜ける潮風は鋭く、複雑に渦を巻いている。
海上に浮かぶ一艘の小舟。その竿の先に掲げられた「紅の扇」が、波に揺れて金の日輪をギラつかせていた。
「あれを射損じれば、源氏は神仏に見放された証左となる。平家は、弓矢による『呪い』を仕掛けてきたのだ」
義経の言葉に、陣中には重苦しい沈黙が流れた。
二、猛者たちの辞退
義経はまず、側近の佐藤継信・忠信兄弟を顧みた。
「佐藤、貴様らなら射抜けるか」
しかし、弓の名手として知られる兄弟は、静かに首を振った。
「御曹司、我らは主を守る盾。敵の首を射る術は心得ておりますが、あのように揺れる『遊戯の的』を射るは、我らの役目ではございませぬ。外せば、御曹司の勝ち運を汚すことになりまする」
名だたる坂東武者たちも、次々と視線を逸らした。
「不運にも外せば、末代までの恥。家名に傷がつく」
「あのような荒れた潮風、人智を超えておる」
武士たちは、己の「面誉」という風を読みすぎて、その場に釘付けになっていたのである。
三、朝綱の賭けと、職人の鑑定
その時、主筋である宇都宮朝綱が進み出た。
「……御曹司。我が与力に、那須の与一という男がおります。家柄は低く、作法も知らぬ山出しの男にございますが、あやつならば『神仏の呪い』すら、ただの獲物として射抜きましょう」
呼び出された与一は、主君・朝綱の前に跪いた。
「与一、これは那須一門の命運を懸けた一射だ。射損じれば、お主も、私も、那須の山も、すべてが潰えると思え」
朝綱の重苦しい言葉に、与一は返事をする代わりに、愛用の煤竹の弓を静かに握りしめた。
四、地理を聴く、那須の「無」
与一は周囲の喧騒を一切無視し、入り江の風を聴き始めた。
那須の山道と同じだ。風には「骨格」がある。海から舐めるように吹いてくるこの風は、重たいが、山を回る風よりは素直だ――。
「……兄さん、波が三度打つうちに、風が一度だけ凪ぐ場所があるっぺな。」
義経が「早く行け」と急かす中、与一は懐から出した油布で、煤竹の弓を黙々と、執拗に拭き上げる。
彼にとって、これは名誉のための「武勇」ではない。外せば一族が路頭に迷う、逃げ場のない「仕事」であった。
「……ごっつぉさん、だっぺ。」
与一は、自分自身にかけた呪文のようにそう呟くと、静かに愛馬の腹を蹴った。




