其の三
僕は――僕たちは、体外受精で生を得た子供だったらしい。
長く子供に恵まれなかった両親は、不妊治療の末、ようやく妊娠に至った。母の胎内に戻された複数の受精卵のうち、二つが無事に着床したのだ。
父も母も大喜びだったという。体外受精を選んだ時から多胎妊娠は覚悟の上で、双子の親になることを当然のごとく決意した。
しかし、その直後に父が急逝した。当時大きなニュースになった列車事故である。カーブを曲がりきれずに脱線した地下鉄の車両は、車内にいた父を無残に押し潰した。
その時の母の心境を慮ることは難しい。喜びの絶頂から奈落の底へ、真っ逆さまに突き落とされたのだろうと想像するくらいだ。腹に宿った命に、どんな想いを向けたのかも分からない。
「八重ひとりで決めたことじゃない。君のじいちゃんばあちゃんも、俺も、八重にそれを勧めたんだ」
伯父が沈痛な表情で言うので、何だか妙な気分になる。僕はここにこうして生きているのに。
「八重に付き添って何度も医者と相談した。決して珍しいケースじゃないって話だった。一人を満足に育てるのだって大変なのに、いっぺんに二人も、それも片親でなんて……あいつが苦労するのは目に見えてた。だったら、一人の子供を精いっぱい大事に育ててやる方が、あいつにとっても子供にとっても幸せだと思って……」
親族からの説得、突きつけられたひとり親としての未来、初めての出産と育児への不安、経済的理由――決定打は何だったのか、本人が他界した今となっては分からない。
とにかく母は、双子を産むのを諦めた。
減数手術、というらしい。
特に体外受精で複数の胚が着床した場合、多胎妊娠による母体へのリスクを減らす目的で、胎児の数を減らすのだ。兄――生まれなかった片割れを母はそう呼んだ――は間引かれ、僕は残された。
妊娠第十週――古ぼけた母子手帳はそこで途切れている。それが兄の人生の長さだ。
生まれなかった、産むことのできなかった子供の証をひっそりと保管し、水子地蔵とともに安置していたのは母の供養だったのだろう。母は決して兄を忘れていなかった。
だから、彼はここにいられたのだ。
目を上げると、鏡台の隣にタロウくんが蹲っていた。大人同士の会話で楽しい遊びを中断されて、ふて腐れている。その面差しは、やっぱり僕に似ているだろうか。
二人のうち僕が残されたのは、単なる偶然だと分かっている。それでもなぜか、僕は兄に助けてもらった気がしてならなかった。連れて行くなら僕にしろと、兄が体を張って僕を守ってくれたのではないかと思える。
その証拠に、その後もずっと兄は――タロウくんは、孤独な僕を見守ってくれていたじゃないか。
伯父が続けて何か喋っているが、あまり耳に入ってこなかった。視界が薄暗いのは日が傾いてきたからか。セミの声さえ遠い。
鬼に引きずられていく子供――さっき見えたあれは、生まれる前に見た光景の再構成だったのかもしれない。
僕はつまらなさそうなタロウくんに笑いかけた。ありがとうな、と心の中でお礼を言った。
「ちがうよ」
タロウくんは、しかし、大きな目でギョロリと僕を見た。
「ぼくはこうたいしただけだよ。じゅんばんだよ」
子供らしからぬ平坦な声音だった。
タロウくんはいきなり立ち上がって、ドタドタと畳を踏み鳴らす。微笑ましい駄々っ子の仕草なのに、その顔はマネキンみたいに無表情で、僕はぞっとした。
「はやくこうたいして! こうたい! こうたい! こううぅたいぃぃぃ」
タロウくんは激しく地団駄を踏んで、両腕を振り回して、首から上だけは動かさずに僕を凝視している。壊れた玩具の断末魔だった。
じゅんばん、こうたい、じゅんばん、こうたい、こうたい、こうたい……。
繰り返す金切り声は不快この上なく、僕は耳を押さえた。
「見ぃつけたぞぅ」
真っ赤な顔をした鬼が、目玉をぎょろぎょろさせながら覗き込んでいた。
喉が凍りついて声が出せない。体も動かせない。太い腕が伸びて、僕の胸倉を掴もうとした。
僕は――一緒に隠れていた『彼』を突き飛ばした。
鬼の腕は『彼』を鷲掴みにし、狭い物入れから引きずり出した。
バタバタともがく半ズボンの両脚、吸うだけで吐くことのできない息遣い、そして。
掴み上げられたか細い体は、思い切り床に叩きつけられた。『彼』の頭がテーブルの角にぶつかり、鈍い音を立てた。
流れ出す赤い体液と、痙攣する子供の四肢を、僕は収納庫の中から眺めていた。
ぐにゃぐにゃした『彼』の首は、最後に僕の方を向いていた。
どうして?
唇の動きでそう問われ、
「じゅんばんだよ」
僕はそう答えた。
「きみがいったくせにずるい! じゅんばんだよ! こうたいして! こんどはきみがかくれて!」
タロウくんは僕に飛びかかってきた。
払いのけようとしたが、ものすごい力で喉を掴まれた。死の間際の母の手と同じだ。牙を立てるように、ギリギリと肉に食い込んでくる。
「かくれてぇぇぇ!」
「弘毅くん! 弘毅くん、しっかりしろ!」
タロウくんの絶叫は遠くなり、かわりに伯父の声が僕を現実に引き戻した。
頭がぼうっとする。気がつくと、僕は畳の上に倒れ伏していた。
熱中症の症状で救急搬送された僕は、幸いにもほどなく回復した。
点滴を受けて、念のため一晩だけ入院して、翌朝には帰れることになった。
ほっとした顔の伯父が帰って行った後、一人の病室で、僕はスマホをベッドの枕元に置いた。
いろいろ混乱していたことが、やっと自分の中で腑に落ちた。
分かってしまえばシンプルな事実で、むしろ爽快な気分だった。
妊娠初期に減らされた胎児は、そのまま子宮内で溶解されて、残された胎児に吸収されるという。兄は取り除かれたのではなく、弟の中に隠れていたのだ。
だから、いつも傍でチャンスを窺えたんだな。
僕は『彼』を至近距離で見返した。
『彼』はベッドに馬乗りになっていた。唇を引き結んで、僕をじいっと睨んでいる。
駄目だよ、そんな顔をしたって。
譲らないよ、これは僕だ。
あの時、君はあの凶暴な男に殺された。母親なんか頼りにならなかった。薄情なあの女、目の前で子供の頭が砕けるまで助けもしなかったんだ。
僕は、君の血と脳味噌が流れ出して、君の体が釣り上げられた魚みたいにビチビチ痙攣するのを眺めてた。あの女が叫びながら何度も男の背中を刺すのも、あの男がヒイヒイ泣き喚くのも、全部見てたよ。
それから、僕は空っぽになった君の中に入ったんだ。
名無しのタロウが弘毅になったんだ。
『彼』は恨めしげに眉を寄せて、じゅんばん、と言った。僕は少し『彼』が憐れになった。
そうだね、順番だ。最初の時は僕が君を庇った。僕は隠れて、君に外の世界を譲ってやった。
僕はお兄ちゃんのつもりだったから、君を守ろうと思った。けど、君がどんどん成長するのを見ているうちに、すごく羨ましくなったんだ。僕だって君と同じになれたのにって、悔しくて仕方がなかったんだ。
君が憎かったわけじゃない。ただ、チャンスがあれば替わってもらおうと決めていた。
だからあの時、壊れてしまった君に替わって、君のまだ少ない過去の記憶と、ずっと長い未来の可能性を、一切合切引き受けてやったんだよ。
母さんは、そうだね、きっと気づいていたと思う、『弘毅』の中身が変わっていることに。一度死んだ子供が息を吹き返したんだから。君のことも見えていたんじゃないかな。
でもあの女は結局それを受け入れたんだ。彼女にとっては、子供を死なせなかった事実が大事だったんだよ。間違ってはないよね、どちらも自分の子供なんだもの。今いる僕を受け入れて、追い出された君は隠そうと決めた。
しょっちゅう言われてたんだろ? 出てきてはだめ、って……。
『彼』はしょんぼりと項垂れた。たぶん本当に、母にきつく言われていたのだろう。彼女の遺した謝罪と叱責が、誰に向けられていたものかよく分かった。
『彼』はベッドから降りて、病室の隅に身を寄せた。腕を添えて壁に顔をくっつけ、小さな声で数を数え始める。
「いーち、にーい、さーん、よーん……」
中途半端に終わってしまったかくれんぼを続ける気でいる。いつか自分の順番が回ってきて、戻って来られると信じている。
「ごーお、ろーく、しーち、はーち……」
母が『彼』を隠していたから、『彼』は大人になれなかったのだろうか。こんなに年齢が乖離してしまって、今さら戻れる道理がないと理解できないのか。
「きゅーう、じゅーう! もういいかぁーい?」
僕は答えなかった。
母の納骨の際に、あの水子地蔵と母子手帳もお寺で供養してもらうつもりだった。それで『彼』の行き場が決まるかどうかは分からないが、このまま僕につきまとい続けるのも不幸だろう。
僕だって迷惑だ。
「もういいかぁーい?」
『彼』の呼び声を無視して、僕は反対側に寝返りを打った。
さよなら、タロウくん。かくれんぼはもう終わり。鬼と子は二度と交替しない。
君は永遠に隠れた子のまま、そして僕は鬼のまま。
でも僕は決して君を探さない。
「もういいかぁーい?」
そう決めてしまうと、幼い声も懐かしい姿も意識の外に追いやれた。
目を閉じた僕は、久方ぶりの平穏な眠りに落ちた。
―了―