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タイムカプセル  作者: 御霊ちゃん
9/16

エデンの園

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。(創世記2:1)

それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記2:2)

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創世記2:3)

 これは天と地が創造されたときの経緯である。(2:4)


 「経緯」は、創世記の他の箇所では「歴史」と訳されている、と聖書脚注にはある。「経緯・歴史」というと、時間を追っている、比較的長い時の経過がある、ということを示唆する。前回の第1章が六日(短期間)で書いた設計図だということの対比である。つまりここから先、創造の第2段階、材料を用いての「形造り」の記述であることが分かる。


神である主が天と地を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(2:5~8)

 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのによいすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。

一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。

第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。

その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。

第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。

第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。(2:9~14)


 ここに記されているのはいわば世界最古の地図であると思われる(聖書脚注)。

私がここから読み解いたのは、四つの川とは、世界四大文明の発祥地、それが一つの川から出ているとは、最古の時、大陸は一つだったという「大陸移動説」を裏付ける文書ではないか。このように、聖書とは、暗号文を読み解くようなのである、解けた時にはスカッとする。


 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(2:15~18)

 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

すると人は言った。

 「これこそ、今や、私の骨からの骨、

  私の肉からの肉。

  これを女と名づけよう。

  これは男から取られたのだから。」

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(2:21~24)


 「一体となるのである」であるが、聖書の中では珍しく、なぜか、ここだけ、「一体となった」という完了形でなく、「なるのである」と未然形(まだそのことが起こっていない)・未完了形・未来形なのである。神は、彼らが一体とはならない事態が起こる、と予見されていたのである。次の「思わなかった」が完了形になっていることから、そのときが来れば、最終的には、そうなると確信はしていたが。 

 「一体」とは、一つからだのことである。男女は、一つからだを共有するのである。自分のものでありながら、自分のものではない。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(コリント1 7:4)

人は男女ペアで「一体」・一つの肉体である、それが人体の完成形・完全体である。片方だけでは半身である、未完成・不完全体である。

 また、「一体」とは、霊の数え方である。「三つ巴」・三つの霊(人魂)が、渦を巻いているような紋であるが、ご存知だろうか。霊は三つで「一体ワンユニット」なのである。「父(神)、御子キリスト、御霊」の三位一体であるが、「御霊」とは、キリストの花嫁・クリスチャン・「御霊を宿した人・聖霊を注がれた人」である。つまり、「神、キリスト(花婿)、御霊の人(花嫁)」で一体の霊・一つの融合体である。それを型に「神、男、女」で「一体(一つ霊)」となるのである。「男女の間には神がいたのである、が、その神を締め出して、男女二人で結合してしまった。不完全結合である。そんな事件がエデンの園で起きたのである。

 「一体」とは、からだが二つで一つ(男女のワンペア)、霊が三つで一つ(神男女のワンユニット)である。


「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(1:26)

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:27)


 神は、男女を「われわれ」という神と同じかたちに創造られたんですね。「父神・キリスト・御霊」の三位一体がそのまま「神・男・女」の三位一体に置き換わる、同等のもの・ミニチュアができるはずだったんですね、男女の交わりはそのように麗しく、男女は強い絆で結ばれることになっていたんです。男女の交わりの中に神がいたんです。ところがこの三者の麗しい関係が、男女の背きにより、「三角関係」に陥ってしまう。神を締め出した男女の醜い姿と「神男女」の歪な三角関係。


 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」(3:1)

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」(3:2・3)

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、二人の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(3:4~7)


 男女は神の言葉に背いてしまった、自分たちの関係から神を締め出した。神は怒りますね。


「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

(3:11)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(3:12)

と男は女のせいにし、暗には「私のそばにこの女を置かれたのはあなたではないか」と神に責任転嫁している。醜い姿が暴かれたのである。女もまた

「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(3:13)

とよそに責任をなすりつけている。神は女に仰せられた、

「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産まなければならない。

しかも、あなたは夫を恋い慕うが、

彼は、あなたを支配するようになる。」(3:16)

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないと

私が命じておいた木から食べたので、

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、

あなたは、野の草を食べなければならない。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、

ついに、あなたは土に帰る。

あなたはそこから取られたのだから。

あなたはちりだから、

ちりに帰らなければならない。」(3:17~19)

 アダム(男)に、楽園追放(いばらとあざみの地の開拓)と死の宣告がなされた。

「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3:22~24)

 肉なるアダムは誘惑に弱かったんですね。陶芸家は作品が完成した後も、彼の目から見ればそれは完成ではなくてただの不良品なんですね、窯から出した器を気に入らないものはことごとく割って土に返してしまうでしょう。人は死ぬようになったんです。


 男女は楽園を追放された、「われわれ」という彼らの麗しい関係は崩壊した。私たちはその最初の父母の子孫なのです、彼らに似た者なのです、私たち人の身勝手さは、そこにあったんですね。神が「われわれに似るように、われわれのかたちに」と仰せられたのとは、違った姿になってしまったのです。太陽も月も、大空も、大地も海も、動植物も、神の申し送り通りに仕事に取りかかった、全てが神の言葉に従って「そのようになった」のである、人間を除いては。自由意志を持つ人間だけが、従わなかったのである。人は創造の六日目にデザインされたが、何よりも見目麗しく、神を象って造られたのが人ですね、息子アダムは完成に至らなかった、神の天地創造の未完成部はアダム(人)だったんですね。人は未だ、神の望まれた姿・設計図通りには完成していなかったのである。アダムの子孫は泣き叫びのない世界を作ることが出来なかった、神のヴィジョンは実現されていなかった。


 聖書が何かと言ったら、神が私たち人に渡した設計図なんです。エデンの園で造られた人は、紆余曲折の経緯・歴史を経て、黙示録にある「新しい天と新しい地」に辿り着く、神はそんな設計図・シナリオを書かれていた。キリストは、神の言葉・ご意思・ご計画を人に伝えるために神が遣わしたメッセンジャーだったのです。言葉を伝えるだけであれば書物で足ります、キリストは神をのご意思やご計画、神の品性、神の愛を具現した、行動・実行の人だったんです。神の実行力・行動力であるキリストを模範として、神の望まれる姿の人が完成される。その人・「われわれ」と呼ばれる存在は神が望まれる泣き叫びのない世界を実現させる。


 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:1〜4)

 神の天地創造の完成である。神の天地創造は、この新世界・「新しい天と新しい地」の完成に向かっていた。「もはや海もない」の海は、文字通りの海ではなくて、「隔てるもの」という意味です。人と人、民族と民族、国と国、隔てるものはなく、一つとなる。そんな地球の状態です。今、「われわれ」はそこに向かっている、そこに向かわなければならない、それが神が私たちに手渡した設計図・「聖書」だったんですね。




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