武と西郷隆盛
私が最初にこれを書いたのは今から15年ほど前で、分けあってこの度それを掘り返した、2020年今の見方などを交えながら語り返しているわけだが、そうすることで自分自身再発見や気づきが与えられた。歴史、興味ない、試験では暗記科目って感じで点数取りやすかったから、好きでも嫌いでもなく何となく勉強してたけど。日本の歴史って言いながら、日本の何を学んだんだろう、もしかしたら自分は大きな誤解のもとにいた、物事の表面をなぞるような勉強は返って誤解のもとになるのでは、そんなふうに思ったのだ。教科書を鵜呑みにするような勉強しかしてこなかったのだ。先回のことであるが、自分がフランス革命を「下からの革命」と書き(まあ15年前に書いたものをなぞってそう表現したのだが)、日本の国民を「字も読めない」と書いた時であったが、ある違和感を感じたのである。フランス革命を「市民が立ち上がった革命」などと字面だけで学び、これだといかにもフランスの市民が啓蒙的であったか、自らの自由や権利を主張し獲得できるほどに成熟していたか、そんなイメージを持つが、対して日本人を啓蒙的思想に目覚めていない・僻地で牧歌的生活を営んでいる・もっと極端に言えば未開の地で土着人がアニミズム(原始宗教・裸踊りで神様を崇めている)、そんなイメージを抱いてしまうが、そんな落とし穴的考えに陥ったのは私だけだろうか。極端でもないのだ、彼らから見たら、裸踊りの土人も日本人(天を仰いで雨乞いする)も大差なかった、そうに違いない。日本人は裸踊りの土人と自分たちを比べ優越感に浸るかもしれないが、そんなふうに思うのなら、それは西洋人に対する自分たちの劣等感の裏返しなのだ。実は、日本の歴史を学んでいると言いながら、それは西洋と日本の対比された歴史、対比して自分たちは遅れている・劣っている、ということを学んでいたに過ぎないのではないか、日本人は彼ら西洋人の目から見た日本史を、自国の歴史として学んでいた、自国の歴史を西洋から逆輸入していた、そのような教育が施されて来た。フランス革命は「市民革命」と言われるが、その市民とは、当時の社会のどんな階級の人々を指していたのか、社会の階級制度がどうなっていて、革命を起こした「市民」とはどんな生活をしていた人たちなのか、フランス革命を起こした市民と幕末の百姓を同じく考えてよいのか、先回私は両者を並べて述べるのに違和感を感じた・躊躇ったわけである。自分は書く前にこの辺りもっと調べた方がよくないか。「市民」とは実は「ブルジョワ・資本家・商工業者」である、今の私たちが「市民」と言うときのような「庶民」感はない。社会制度自体が違うのである、資本主義あってのフランス革命なのである、西洋と日本を比べるのであれば、両者の社会制度や階級制度を調べなければない、私は自分に新たな課題が課されたような気がした、そこ(社会制度や階級制度)に目が行った時、日本に独特な「天皇」というものに目が行った、そこに日本の歴史を解く鍵があるんじゃないかって、また新たな課題が(課されたと言うよりは)見つかった、勉強とはそういうものである、私がして来たのは勉強ではなかった、あれは洗脳教育だ。勉強すればするほど馬鹿になる、物分かりが悪くなる、物が見えなくなる。
教育を受けた人ほど、自分が受けた教育を信じている、自分が学んだことが正しいことだと信じ込んでいる。違ったことを言う人がいれば、「それは違いますよ(私はちゃんと学校で学んできましたよ)」と言う、何年前に学んだこと?って言うようなことを信じていることもある。「今はこんな意見もあるんですよ」と言えば、「それはただの説でしょう。正規に認められたものではありませんよ」と異端や都市伝説レベルと耳も貸さない、権威のお墨付きがないものは信じられない・価値を認めない。学校で教える内容(教科書)自体が古い、更にその教科書の中身が変えられるまでにも時間がかかる、今の急速な時代には特にそうでしょう、例えばプログラム言語なんて新しいのが次々出てくる、病気の治療の仕方だって昔と今では変わっている、前にはいい・正しいと言われていたことが後に悪い・間違っていると分かった、育児書の内容も変わっている、なのに昔学校で習ったことが頭にこびりついて、それに反することに冷淡である。あらゆることをそれをもとに考えようとする。教科書頼みで、自分で考えて来なかったので、クリエィティブな発想がない、柔軟性を欠いている、人が違ったことを言うと「それは違いますよ」とは言うけれど、なぜ違うと思うのか、自分の考えを言うまでには及ばない、「それは違いますよ」と言えないようなことを相手が言えば、論点をずらした方向からこき下ろしてくる(頭いい人はやっぱり違う、こういう機転は利く)、あくまで自分の学んだことに固執していたいのだ。私は案外人の勘を信じると言うか、ここが怪しいとか、ここに何かあるとか、なぜかって、人間は機械よりも数字よりも精巧である、神秘・神がかりである、数字に現れないミクロの部分も見ることができる、どんな精巧な機械にもできない微調整ができる、トップアスリートなんか見てても感じるでしょう、あれって人が機械ではなく肉だからこその神がかりなんですよ、人が神と繋がった存在だからなんですよ。だけど学がある人ほど、「それはあなたが感覚的に感じることで、数字を見てみないと分かりませんよ。だから統計が必要になってくるんですよ」なんて言う。学がある人が頼りにするのは自分の受けた教育と数字。教科書通りに考えていても、何も新しいものは出て来ない、教科書と違うこと考えてみたら、教科書はそれをもとに教科書とは違う更なることを考え出すためにあるんだよ、それには勘・インスピレーション・その声を聞くことも大事なんだよ。神様にとってはアニミズム(原始宗教)の土人の方が、親しく交われる存在だった。自分を賢くした西洋人は神様にとって居心地の悪い存在になっていった、彼らが持っているのは所詮自分たちの知恵、浅知恵だ。深いところを知ることが出来ない。
前置きだけで終わるほど長くなりましたが、今日は「武と西郷隆盛」でしたね。父神が教育改革を任せたのが、西郷さんだった、西郷さんは時を超え、こうしてリバイバル(復活)して来た。新政府の方々は「面目ない」の一言です。彼らの思い違いの一つは、もはや武士が刀を持って戦う時代は終わった、これからの戦争は他国よりも大きな大砲を持ち、鉄砲をたくさん備えた方が勝つのだ、少し訓練すれば一般の者も鉄砲くらい操れるようになる、徴兵制をひき、近代的な軍隊をつくるのだ。人材・ソフトウェアではなく、最新の装備、鉄砲や大砲・戦艦などハードウェアに頼ったことである。蓄積して来た知恵・経験値・活用すべき膨大なデータがあるのはソフトウェアである。鉄砲くらい子供でも扱える、そう考えるようでは、彼らは「武」に対して素人考えだったのである。扱いには注意しなければならない、子供に持たせられるようなものでない、それが正常な大人の判断である。人が「武」を持つとはどのようなことか、「武」人の心構えを持っていたのが武士である。深追いするな、逃げたい者が逃げられるように逃げ道を残しておいてやれ(今ここで戦い死ぬことを潔しとするかしないか、生死を決めるのは自分である、生死に対する相手・個人の意思を尊重している、と思える言葉である)、深追いすれば相手は死に物狂いで反撃してくるかもしれない(勝敗のついたものをこれ以上戦って味方が傷つけられてもよくない)、敵であれ味方であり無益な血は流されてはならない、流される血は必要最小限にとどめられるべきである。戦う彼らにとって、血は犠牲である、目的を遂げるために必要な犠牲の血、犠牲であるということは彼らの血は尊いのである、尊厳のある血である、彼らの血は尊厳を持ったのである、自分は自分の信じるもの・守るもののためにこの血を捧げる、存在意義のある血、つまり自分という存在そのものである。血にある尊厳・命の尊さを、武を持って戦う彼らは知っていたのである。聖書では、血は命である、と言っている、特別な扱いが記されている。
戊辰戦争(名実共に幕府を倒すための戦い)は、それぞれが大義名分を持って・自ら信じるものに従って、武士同士が戦った。ただ相手を滅ぼす・破滅させることが目的ではなかった、彼らの心の中には、どうにか手を組んで、共に新しい日本をつくれたらよいのに、けれどもそれがかなわない、そんな彼らの苦渋があった。城に大砲を撃ち込みつつも、どうか相手が投降してくれることを祈る、最後まで戦うことをしないでくれ、生きて、これからの新しい国を共につくって行こうじゃないか。いや、最後は自分の志したものと共に死ぬよ、それが自分にはふさわしい、武士としての尊厳や自分の志を守らせてくれ。仕方ない、惜しい人物を失くすことになる。敵も味方も、彼らは互いを惜しみ合ったのである(そうして戦った彼らを、新政府は惜しまなかったとは)。おれはこのままここで死ぬが、これは立派な本だ、灰にするわけにはいかない、この本を彼ら(敵方・新政府)に渡してくれ、新しい国造りに役立つに違いない。彼らの目的は同じ一つのもの・新しい国造りだったのである、その彼らが二手に分かれて戦わなければならなかった、皮肉である、彼らは同じ武士同士、兄弟とも言うべき間柄である、同じ新しい国造りを目指していた同志である、この戦争の悲しさ・悲劇がここにある。この時期、日本は国の未来に惜しい人物を多数失くした、のである。彼らは礼儀も作法もない暴力団ではなかったのである、学識も知識欲もあり、国をリードする存在だったのである。彼らは日本の魂、肝どころであったが、それが抜かれた新政府は腑抜け・腰抜けだったのである。要らなくなったら首を切る、人も物も使い捨て、そんな社会のもとがここにあったのである。
人というのは遺伝子から知恵・技能・経験値に至る活用すべきあらゆるデータの記録媒体、それらの情報は人自身を媒介に(人から人に)伝えられるものだった、人というハードウェアが壊れてもその情報・データ・ソフトウェアは残される・蓄積されていく・受け継がれることになっていた。彼らは自分の肉体が壊れても、自身の記憶・魂・働きが滅び去ることはない、その証のために戦った・命をかけたのである。彼らは武士の末裔であったが、彼らに至り、武の心も成熟していたのである。彼らは戦い果てたが、それは無意味な殺戮ではなかった。己の信じるもののためには大きなものにも立ち向かう、命を捧げる、勝ち負けはことの外である、大きなもの強いものに靡き、信念を捨てるが恥・負けである、彼らのヒロイック(劇的・英雄的)な死は、そんな負けの美学だったのである。「負けるが勝ち」、彼ら(の魂)は記憶にも記録にも残され保存され、時を超えて再び蘇ってくることになっていた。最後の審判にはその書物・記録の書・「いのちの書」が開かれると言うーーその膨大な記録の物理的な保管場所は勿論人である。私たちが彼らの魂を永遠に残したいものだと思えば、それは永遠に残るのである、価値がないと捨て去れば・そうして捨て去られた魂は、蘇ることはないのであるーー愛する者を蘇らす力を人は持っていたのである。誰が、大量殺戮兵器(を慕い操る魂)や無慈悲な暴君(の魂)、エバを騙した狡猾な蛇(の子孫)、そのような存在(魂)を生き返らせたいと思うのか。私たちが慕うものを私たちは蘇らせ、憎むものを滅ぼす。最後の審判とは、どうやら、最終ステージに立った、賢くなった人間が、自分たちに下すお裁きのようです。永遠に残るものと永遠に捨て去るものとの分別をするのは、私たち人間自身のようです。新政府に着くか、旧幕府軍に着くか、戊辰戦争において新政府は中立を許さなかったのである、諸藩はどちらかにつかなければならなかった、中立を保とう(我が藩はそのような戦争に参加しない)と言った長岡藩は政府軍によって攻撃された。そのようなところからも、士族の同士討ちによってその組織を解体して行こうという政府の策略・身勝手さが見えてくるのである。政府は自分の戦いを直接自分で戦わず、両陣営を戦わせることが、自分の利になると考える大国のようでもある。世界のどこかではいつも戦争が起こっていて欲しい、人たちがいる。軍隊を持たない自分の国(が新政府である)が、薩摩・長州・土佐など時の大国を自衛とする、あの時は相手が西郷さんだったから黙って最後まで面倒見てくれましたけど、今度は「相手を甘く見るなよ」、日本政府に打つ手はあるのでしょうか。働きのない政府のごろつきを一掃させることができるのは我々国民ですが、何の下準備もないままに、政権を失脚させてもどうなるわけでもない、見込みのありそうな小さな政党など、新たなものを見つけ出し、それを応援し育てていかなくては、父は、もうずっと選挙にも出かけていない私の政治への無関心を指摘された、私最近、YouTubeで小さな政党のお話など聞いてますよ。私あの学者のYouTube番組も見るんですが、毎回毎回よくも飽きずに同じことを言い続けるな、と思って。私がYouTube番組を選ぶ基準は、しつこいくらい同じこと・同じメッセージを叫び続けている人です、この人は自分の正しいと思うことをこれだけ必死に伝えているんだな、と思って。そういう姿を見ると、自分も元気が出ると言うか、改心されると言うか、『どうせ誰も聞きたがらないんだから』などと白けたことを呟かずに、メッセージを発し続けよう、と思えます。聞くか聞かないかは相手任せですけど、まずは言葉として発しないとね。神はこの世界を言葉によって造った、と言うものね。同じことを繰り返し訴える政党も学者も、彼らこれだけ叫び続けたら、後で隠れることが出来ないでしょう、その場限りでいいこと言って約束を果たさない政党と違って信念でその言葉を実現させるんじゃないか、圧力がかかれば真理・真実も曲げた発言をするご機嫌取りが学者だったとしたら恐ろしいことだ、彼らは大声で何かを言おうとはしないはずだ、能面のように人格のない言葉を話す、私はそんなふうに思っているんです。だから毎回聞いて知ってる話でも、彼らは魂の言葉を発していると思うので、気持ちよく聞くことが出来ます。勿論話の内容にもよりますけど、毎回株の話ばかりする人は苦手でした。
武士の刀にはそれを持つ者の魂が宿り、人格があったのである。彼らは強い信念のもとに、刀を振るったのである、それがなく・なんの信念もなく「武」を奮えば、それは単なる殺人である。武士は自身の刀に命を吹き込んだ、武士の刀は無差別・無分別ではなかった。新兵器を持った国々により、戦争は大量無差別殺人へと変わっていくのである。鉄砲が大砲になり、大砲が爆弾になり、ミサイルになり、化学兵器が使われ、核兵器は勿論、細菌兵器なんて脅かしも受けているーー2020年今、脅かしではなく現実と捉えている、新型コロナウィルスに対してもそんなことが囁かれたり。新兵器は人格も魂もない、冷たい鉄や鉛の塊である。「塊」と「魂」似たような形をしているが、神は「土」で造られた人・土の塊である人に、いのちの息を吹き込んだ、そこで人は生きもの(生きた魂・「いのち」あるもの)となった(聖書より)、「魂」は「云う」って「言葉を口に出す。心に思っていること、考え・判断などを相手に伝達するために、言葉に出したり、文章にしたりする」意味がくっついてるんだよね。伝達の手段が言葉で、それにより人が共通意識・同じ目的を持つ、そうして世界は造られる。武士は刀に自分の魂・いのちの息を吹き込んだ、それは生きて働いたのである。刀というのは自分の腕の延長のようなものである、自分が切り捨てる相手の顔を間近に見ることが出来る、相手を切った手応えもある・自分の手に感触を残すのである、返り血を浴びるのである。自分が人を切った・命をいただいたと実感するのである、鉄砲にはそんなリアリティが欠けている、自分は自分の手で本当に人を殺したのか、その重大さが分かりにくい、玉が勝手に手元を離れ飛んで行ったような錯覚にさえ見舞われる、刀にある人の意思が鉄砲の弾にはないように思われる、彼はどんな表情や言葉を残し死んだのだろう、物事を深く考えなくて済む、人殺しが簡単に出来るような気がする。自殺をするにしても(誰もが一度はそんなこと・自殺の方法などを考えたことがあるだろう)、自分は刃物よりは、ピストルの方がいいな、肉の負う苦痛にしても、そっちの方が怖くなく、楽なような気がするから。こめかみにピストルを当て、引き金を引けば、後は一瞬で終わるような気がするから。切腹など言語道断、これも日本人について外国人が理解できないこと(日本人の七不思議に入るんじゃないか)であった。なぜ彼らは、腹などというとんでもないところを切るのだろう。頸動脈でも切ればいいのに。生きているものの命を取るとは、嫌な気持ちがする、刀はそれをダイレクトに伝える、武士は敢えて、その嫌な気持ちや辛いやり方を選んだ、嫌な気持ちや辛さを引き受けることで、自分が奪う命に対して償いたいのであろう。それが自分自身の命であっても、腹を切れば痛いだろう、肉の負う痛み苦しみは命に対する代償なのである、命を捨てる・粗末にすることをごめんなさい、その代償なのであろう。神は(いのちのない土の塊に)いのちの息を吹き込んだーー本来命とは神のものなのである、命の源は神なのである・生命の発端は神にあった、神が与えたもの・神から預けられたもの、それが命である。その神のものを人為で傷つけることに対して、自身の肉の痛み苦しみを持って謝罪するのである。死には肉体の苦しみが伴うのである。だからそれを避けて、死という安楽に逃げ込むことは許されないのである。欧米では早くから「安楽死・尊厳死」なんてことが論じられていた。苦しまないうちに早く殺してくれ、痛みや苦しみで人格が損なわれないうちに、人としての尊厳を保って死にたい、惨めな肉と成り下がってまで生きたくない、つまり死ぬ自由である、人は自ら死を選択できるか。答えを申し上げれば、出来ないのである。人は命を自由に出来ない、神様から預かっているものだからである、神様に預かっているもので、自分のものではないからである。自分勝手に・自分の都合で、死ぬことはできないのである。どんなに苦しんでも、どんなに衰えても、どんな惨めな姿を晒しても、打ち負かされると知っていても、あなたは戦わなければならない、簡単に敵(死)に命を引き渡してはならない。あなたが戦った・生きた・命を全うしたということが証されるためである。あなたがそのような苦しみの中にも命を投げ捨てなかった、ということで、命の重さが量られるのである・命が価値あるものとされるのである。命を惜しんではならないし、命を無駄にしてはならない、命を愛しむとはそういうことだ、侍は教えてくれる。死は安楽な逃げ道である。あなたが自ら生を放棄すれば、あなたは命を軽々しいものとしたのである。自殺をするにも一番苦痛なく死にたい、そんな方法をインターネットで検索する、一人で死ぬのも耐え難い、仲間を誘ってみんなで死ねば怖くないだろうと仲間を募るーー死に伴う、肉体的な苦痛も避け、精神的な苦痛(恐怖や孤独)も軽減して、死にたいのである、それは命に対する不敬である。国内の自殺者数は年々増え続けている、ボタン一つで大量殺人が可能な世界、命は軽いものだろうか。武器でも、命でも、私たちはそれを預かったことの意味や重大さを認識しなければならない。15年前に書いたものだが、今(2020年)にも通じる、変わってないんだな、更に悪化して、社会的に問題になるほど自殺者の数は増えた。私たちが何もせずに黙っている(言わず行動せず、臭いものに蓋)ってのは、そういうことなんだ、不幸な人の数を増やしてしまう。
教会に来ていた奥さであるが、彼女の旦那さんは自殺してしまった。彼は製薬会社に勤めていたが、新薬を出すには、その薬を使ってどのようだったか、サンプルを集めなければならない。多くのサンプルを集めないことには新薬は出せない。会社はそのサンプルのデータの水増しや改ざん、偽造を彼に頼んだ。彼は断り、上司や同僚との折り合いも悪くなった、終いに彼は自殺した。会社が嫌だったら辞めれば済むことなのに、どうして、私や愛する子供たち(当時まだ幼かった)がいるのに、どうして死ぬことが出来たの、どうして家族を置いて、と奥さんは、歳月が経った今でもでも分からない、と言った。家族や自分の命を犠牲にしてまで守りたいものがあった、よくテストもされていない新薬が世に出ればどんなことが起こるか、彼は先を見ていたのである、昨今のテレビニュースがそれを証明している(2020年今、私はそれがどんなニュースだったのか思い出せない。同じようなことが繰り返し起こっても、人はそれを忘れてしまう、そんな身勝手な存在だ。自分にお鉢が回って来ないうちは自分たちの平和は続いていると思い込んでいる)、彼はそんなことが起こる・そんな時代が訪れる、予見していた。西郷さん同様の先見の明である。彼はその有害な薬を懐に抱え、自らそれと心中した、彼はそのような有害物質、利益重視でそのようなものを平気で売る会社、そのような物や人を生む組織や社会・世の中、それに抗議したのだった。一粒の小さな薬が地面に落ちていた、拾おうと思ったら、それは地中深く太い根が生えていた、一人でもとても動かせない、それでも彼は挑んだ、決死の覚悟である。一粒の小さな薬が溶け、地に染み入れば、その地の作物は毒を含み、それを食べる人たちの身体にも毒が染み入り、そこに暮らすたくさんの人たちが害を被るであろうーーこの世界が毒される仕組みである。自分が会社を辞めて済むことじゃない、何を変えることも出来ない小さな私ですがお捧げします、それが妻の「どうして」に対する彼の答えであろう。私は、彼は立派なクリスチャンだと思う。クリスチャンなら彼は自殺をしなかったはずだ、自殺は罪・重罪だ、自殺した人は天国に行けない、君はそんなことも知らないのか、私の夫(今では「だった人」)はそう言った。が、彼の方こそ、そんな知識をどこで仕入れてきたんだろう。彼のは自殺じゃありませんよ、かたち・表面だけ見ればそう言うんでしょが、彼は決死の覚悟で戦ったんです。何が自殺で何が自殺じゃないか、何が悪で何が善か、あなたの(肉の目が)決めることじゃありませんよ、決めるのは何でもお見通しの神様です。クリスチャンと名乗る者がクリスチャンであるわけでもない、教会に行っている者だけがクリスチャンであるわけもない、クリスチャンとは自分の信じるものに命をかけられる者たちだ。クリスチャンも教会も偽物なんですよ、この世に認められた権威なんです。自分たちだけが神様の国の特権階級じゃないんです。と、到頭言ってしまいました。私は、神様の存在を信じ、キリスト様を敬愛してますが、教会には行かないんです。
武は最終手段である、朝鮮と外交を持つに、まず最初は私自らが武器を持たずに出向きましょう、と西郷は言っている。武器を持たない私に対して相手が武を用いれば、その時は、大義名分を得て、出兵することが出来ます。大義名分とは正当な理由である、相手が戦いを仕掛けてき、実際に自分たちが被害を被った、そのような正当な理由もなく他国に兵を率いて行くのはルールに反している・マナー違反である。話し合いという目的でも、実際に兵を率いて他国の領土に入れば、その国に脅威を与えるのである、相手は決して友好的にはならないのである。本当に話し合いたかったらまずは兵を撤退させるべきである、そうして誠意を見せるべきである。まずは兵を率いて行って、話し合いに応じなければ攻める準備はできていると脅す、逆なのである。相手に対する挑発行為でしかない。西郷は武士であるから、武を使うことは、言わば仕事である。が、出来れば使わずに済ませたいのである。実際に使うため・使うことが目的ではなく、使わなければならない時が来たら、その時に使えるように準備しておくーー戦国時代と違って、国が平定されていた江戸時代、武士の役目はそのようだったと思うのだが。彼らは始終刀を振り回していたのではない、が、いつでも使えるように準備はしていた、武芸に励み、肉体を鍛錬していたのである。国が持つべき武の意義目的が見えてくるではないか。「自衛隊」とは実践部隊ではなく、待機部隊なのである。彼らの任務は待機であることを考えると、他国領土や領海へ兵を出すこと・実地へ赴くことは、逸脱である。自衛隊の仕事は日々の訓練と待機である、それで十分に役目を果たしているのである。他国に軍を駐在させておくなど侵略外交である、非常識なのである。日本はアメリカに守ってもらわなくては、中国に攻め入られる、中国やロシアに領土を取られてしまう、それは本当なのだろうかーーそうやって国民は脅されているだけかもしれない。世界がこれだけ平和平和(を求める)と言う時代、平和外交は表の顔であり、皆が疑心暗鬼に陥っていると言うことか。
西郷は武の熟達者であった。その西郷が最後に、負けを承知の戦いを戦った、そこに西郷の悔い改め・償いがあるのでは。新政府での政争に敗れ、自ら辞して、故郷に帰った西郷であるが、彼がそこで見たものは、士族の子弟たちが竹刀木刀を振る姿、書を開き学び合う姿、年長の者が年少の者に教える姿、彼はそこに古きにあるよい精神を見たのである。新政府が新型の武器を次々と購入し、「富国強兵」「殖産興業」「文明開花」と近代化を推し進めるのとは対照的である。西郷は故郷に帰り、自分自身が立ち返ったのである。新しいものを追い求め、古いものを捨て去ろうとしている世にあって、子弟たちの姿は一種新鮮、可能性を感じられるものと見えたのである。新しいもの(ことに新型兵器)に依り頼む結果、古いものは切り捨てられていく(それがわれわれ武士の定めである)が、ここには消して廃れさせてはいけないもの、子孫後々まで伝えていかなければならないものがある、われわれの精神であるーー新しい国という大義名分の下、これまで自分は自分の同胞を武の力で切り捨ててきた、彼らは同胞、同じ武士の精神を持つ者たちだった。武力倒幕の張本人が自分である。彼は償いたかったのである、武器・武力によって治める者は、武力によって倒れる、たとえどんな大義のためでも、武力はいかん、おれが言うのも何だがな。武力によって治めた自分は、武力によって滅ぼされてしかるべきである、彼は自身をその見せしめとしたのである。明治政府は新型兵器を揃え、「富国強兵」、国を強く豊かにするのは鉄(武器)と血(兵隊)である、とドイツに追随ーーその政策待った、お前ら間違ってるよ、西郷は言いたかったのであるーーその後、軍備を拡大した日本は、武力による他国侵略、戦争へと進んで行くのである。軍国主義の足音は聞こえていたのである、西郷には見えていたのである、時代の先に何があるのか。彼は武器を滅ぼすために、その武器を懐に抱え、自らが谷底にダイブした、彼の決死のメッセージである、「武器を捨てろ。武力により治めるな」。
信念(信じるもの)を持って戦う者の強さ、彼らはそのため(自身の信じるもの・自分が本当に大事だと思うもの・自身の守るもの)には死をも厭わなかった。
ーーわたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイの福音書10:37〜39)
キリストが「わたしのため」と言うのは、キリスト自身を指してはいません、次の箇所を読めば、分かると思います。
ーー「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」
すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べ物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着るものをさしあげましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」
すると、王は彼らに答えて言います。「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書35:34〜40)
自分の親や子も、敵としなければならない、キリストの道は厳しく、神の求められるものは高いのですね。「どうして自殺なんて。そんなに悩んでいたなら私に相談してくれてもよかったのに・・・」と言う妻に、夫の心は『私の信じるキリストの道を全うするに、愛する妻子も私をキリストから離す存在となりえる、彼らは私の後ろ髪を引くだろう、妻に話せば妻はとめるだろう、彼女をそのような罪な存在・キリストの敵にしてはならない。黙って行くのを許しておくれ、君たちを置いて行く私の身勝手を許しておくれ』、彼はキリストと自分の家族の間で板挟みである、彼は自分の最も愛する家族をキリストのために犠牲にするのである。「おれが行くから、おれの息子は見逃してくれ」と言わなかった西郷も同じである。人にとって、自分以上に大事な存在が家族である。そんな残酷な選択・そんな究極の選択をさせるなんて、私が神を許せないと思うわけである。父神と私が和解する日が来るのか、知らない。私は立派な兄姉たちとは違う、未熟者のクリスチャンである。私を無理やり、兄姉たちの場に引き上げようとするのが父である。
「西郷さんって、日本人に人気ありますよね。英雄とか豪傑とか言われて」
職場の上司に言ってみたが、彼も以前の私同様、あまりピンとこない様子。
「新政府では活躍の場がなかったですね。彼が活躍したのは、その前(倒幕・戊辰戦争まで)ですよ」
と、西郷さんについての肩入れはなさそう。
「西南戦争はドラマや映画になる人気ぶりですよ。士族に対する新政府のやり方はひどいと思いませんか?」
「お金がなかったからでしょう。財政が苦しかったから」
財政が苦しかったから、仕方ない、そんな策を取るしかなかった、それが原因だ、と。それが答えになりますか、それがあなたの答え・考えですか、あなたのその答えの中にあなたの考えはどこにあるのです。日本の近代化に貢献したのが明治新政府だ、どちらかと言うと政府(勝者)寄りですかね、勝者によってつくられた世の中に自分たちは今身を置いているのだから、それにケチをつけるのはよくない。まあまあいい生活をしていられるのだから、日本は正しい道を歩んで来た、日本の政治家は正しかったんだよ・正しいんだよ、って意見ですね。彼は東大卒ですから、徴兵令の出された年代も、新政府の財政状況も知ってますよ、そう言ったことを色々と答えるんですが、教科書通りの答えしか返って来ず、それがあなたの考えか、と聞きたくなる。私が延々と何ページも綴った西郷隆盛について、彼は三行で答える。政府の財政状況や徴兵制にも上手く触れ、答案用紙の枠の中に収まるようだ。指定された用語を使って、何文字以内で答えなさい、そんな試験が思い浮かんだ。彼は私と同年代、同じ教育を受けて来た、「忠臣蔵」や「西南戦争」そんな侍ものをテレビにかじりついて見、『感動だ〜』などと言うのは、私の父母の代で終わったんでしょうね。子供の頃私も、父母がどうしてここまで感動して見ているのか分からなかった。高校、大学まで当たり前のように教育を受けるようになった私たちと、中卒で働いた父母の時代では見方が違ったのでしょうね。ブログの方で書いたんですが、ディケンズの「Great Expectations / 大いなる遺産」、田舎から都会に出て行って高等な教育を受けた青年がどうなって行くか、滑稽な姿が描かれています、浮薄な価値観に流され、大事なものを見失って行く。私は子供たちに、粗末な教育を受けさせたくないと思って。人や人生がもっと豊かになる教育がないかな〜って考えてます。臭いものに蓋ばかりしてきた日本人は、物事の奥底が見えなくなった、表面取り繕ってそれでよし、となったんですね。根本的な解決には至らない、その場限りのうやむやな解決、いじめについての学校や教育委員会の対応なんかを見ていても思います。万事がそう、うやむやにしておけば、そのうち世間は忘れてくれる、世間は次のターゲットを見つける、それまでの辛抱だ、似たような事件が繰り返し起きるが、解決に至ることはない。高度な教育を受けた者たちとは思えない、そこに身を置いている者・その中(この社会の中)の一人が自分なんだよね。




