第二話 里の試練
八雲が目を開けると、天井の白い壁紙が見えた。
さっきまで車の中にいたはずなのに、今は木製の二段ベッドの上で寝ている。部屋の中はカビ臭く、男性ものの衣服が散乱していた。
下の段には見覚えのない男が寝ていて、穏やかな寝息を立てている。普段は眼鏡をかけているのか、枕元には黒縁の眼鏡が置かれていた。寝顔では年齢も判断しづらいが、黒髪のお坊ちゃんカットというヘアスタイルもあって、八雲は自分よりも下だと判断した。
状況を理解できないまま、起き上がって二段ベッドの階段を降りていると、頭が締め付けられるような痛みに襲われた。
「痛っ……」
床に着地すると同時に、頭を抱えてしゃがみ込む。頭をあちこち触ってみたが、外傷らしきものはない。痛み方自体も怪我というよりは、病気で具合が悪い時のものに似ていて、1分も経たないうちに収まった。
さっきの痛みの原因を探ろうと、何があったのか思い出そうにも、車の中で穂乃花たちと会話しているところまでしか思い出せなかった。
彼女が用意したお茶を飲み、優しそうな人で良かったと言われ、自分が結婚しなかったら彼女が罰せられると知った。そこまでの記憶はあるものの、そこから先のことは何一つ覚えていない。
思い出すのをやめて、現在の状況を整理する。
ベッドの上で寝ていたことからして、車の中で眠ったのは確かだろう。だが、何故この部屋にいるのかは皆目見当がつかない。里に着いたら、どんなところか案内されるハズだ。一緒に来た穂乃花や黒服の姿が見えないのはおかしい。何か予定外のことが発生したのだけは確かだ。
「あっ、起きてんじゃん」
考え込んでいると、下の段で寝ていた男が話しかけてきた。男は眼鏡をかけると、寝たままの状態で右手を八雲に向かって伸ばした。
「僕は福羽健太郎、よろしく」
何を“よろしく”していいのかわからないが、八雲は差し出された手を握った。
「よ、よろしく……。俺は多宝八雲」
「名前は知ってるよ、手紙に書いてあったからね」
健太郎は枕の下から白い封筒を取り出し、八雲の前に突き出した。八雲は封筒を受け取り、表と裏に書かれている名前を確認した。表には自分の名前、裏に穂乃花の名前がある。無論、中に入っている便箋も彼女が八雲に宛てたものだった。
『多宝八雲様へ
突然のことで驚かれているかと思います。
このような事態になってしまったこと、本当に申し訳なく思います。
里を見学してもらう予定でしたが、新たなお告げが出たことで、状況が一変してしまいました。
今回のお告げは、到着後すぐに試練の儀を始めよというものになります。
試練の儀とは、大巫女様の後継者の親となる者に課せられるもので、お互いに課題をこなすまでは会うことすら許されません。
課題を破棄すれば儀式から解放され、里の外から来た人は元いた場所に戻されます。私は里の人間ですので、破棄することはありません。
もしも、多宝様が里に残られる決意をされ、お互いに課題をこなして再会できた際には、生涯の伴侶として宜しくお願い致します。
追伸
試練の儀は一部の者のみが知ることを許されている儀式となりますので、相手が里の者であってもお話にならないよう、お願い申し上げます。
蘇芳穂乃花』
突然の事態にも関わらず、それは丁寧な字で書かれていた。
手紙を読んだことで、彼女や黒服が傍にいない理由は理解できたし、お告げ主義ともいえる里なら、こんなことも有り得るのだろうと納得した。
自分が急に寝てしまったことも気にはなったが、八雲の関心は“試練の儀で何が課せられるのか”に移った。その点に関しては手紙に何も書かれていないので誰かに訊きたいところだが、人に話すなと言われては健太郎に尋ねることもできない。困っていると、健太郎の方から訊いてきた。
「何て書いてあった?」
「いや、それは……」
内容を説明しようにも、話すなと書かれている“試練の儀”を避けて話すのは困難だ。適当に誤魔化しておくかと、嘘を並べようとしたところで健太郎が頷き始めた。
「うんうん、言わなくてもいいよ。何となくわかったから」
「わかったって?」
「説明に困る内容ってことだよね? そこから察するに……まず、八雲っちには不治の病に苦しむ妹はいない。八雲っちが何らかの力を秘めていて、覚醒するのに修行が必要ってわけでもない。そうだよね?」
「そう……だけど……」
突拍子もない問いかけに困惑する八雲をよそに、健太郎は得意げに何度も頷いている。八雲としては、不治の病や力の覚醒といった単語が、何の脈略もなしに出てくる健太郎の思考回路が心配だった。
「まぁ、じきにわかるさ」
健太郎は脇腹をボリボリ掻きながら、部屋の奥へと歩いて行った。そこにはファンシーな白い椅子と机が置かれ、机の上には台本らしきものと八雲のバッグが載せられていた。
「このバッグ、八雲っちのでしょ?」
首を縦に振ると健太郎はバッグを投げてよこした。両手で受け取り、中身を確かめる。何かを取られた様子はなかった。
ザーッという音を立てて、健太郎が部屋にあるアコーディオンカーテンを開けると、中には突っ張り棒がしてあり、服がかけられるようになっていた。その上の棚にはムーディーな感じの照明器具が収納されている。
「このクローゼットは使っていいから。その代わり、僕の服が床に散らかってても気にしないでよ」
「……わかった。いや、ちょっと待って。使っていいって? この部屋、二人で使うの?」
「そうだよ。しばらく一緒の部屋だから」
試練が終わるまでは同室、ということなのだろうと八雲は思うことにした。
「トイレと風呂は隣の部屋になるけど、見る?」
「うん」
ドアを開けて出ていく健太郎の後を追う。ドアの外は長い廊下となっていて、幾つもの部屋が並んでいた。自分たちがいた部屋は端にあり、他の部屋に比べてドアの装飾が簡素だった。用具室というプレートが貼られている。他の部屋のドアには派手な彫刻がされ、号室が書かれたゴールドのプレートが貼られている。
「ここって、何?」
里のビジュアル的な情報は、穂乃花に見せられた写真から得たものだけだったので、ドアにしてもプレートにしても、さっきの照明にしても、抱いていた里のイメージを覆すものばかりで面食らっていた。
「何って言われてもさ……。ここは当分、僕らの家だよ。そして、入る風呂はこれだ!」
健太郎がドアを開けると、大きなベッドが見えた。ベッドの近くには小さな冷蔵庫や革張りのソファが置かれ、その先には赤いレースのカーテンで囲まれた丸い浴槽が見える。浴槽には八雲が銭湯でしか見たことがない穴があった。ジェットバスの泡が出てくる穴だ。
「ここはホテルか何か?」
試練が終わるまで里には入れられない。だからホテルで試練を受けさせるというなら合点がいく。しかし、その推測は手を叩いて喜ぶ健太郎を見て違うと感じた。
「おぉ~、凄いね八雲っち。ここがホテルってのは正解。正確には、元ラブホテルだけどねぇ~」
「は? ラブホテル?」
「ラブホだよ、ラブホ。ブティックホテルって言った方が良かった? それとも、ファッションホテル? レジャーホテル?」
「いや、名前はどうでもいいんだけど……」
問題なのは何故に元ラブホで暮らすのか、元ラブホで今は何なのかだった。
「あのさ……」
と言いかけたところで、建物中に音楽が流れ出した。聴き覚えはないが、何ともメロディアスな楽曲だった。
「もう、そんな時間かよ」
健太郎は急ぎ足で自分たちの部屋に戻っていく。彼につられるように、八雲も慌てて部屋に戻る。
「何が始まるの?」
「お仕事、お仕事。八雲っちも一緒に行くんだよ」
「えっ? 仕事? 俺には試練が……」
追わず試練という単語を口にしてハッとする。里の者にも秘密にすべきことだったと焦った。
「ああ、試練の儀ね。それってまぁ、仕事しろって話だから」
健太郎の口ぶりから、彼も事情を知る一部の人間だと知り、八雲はホッと一息ついた。
「さぁ、行くよ」
床にあったタオルを首に巻き、ズカズカと歩き始めた健太郎の後をついて行く。豪勢なシャンデリアがある螺旋階段を下り、一階の奥へと進んでいくと「staff only」のプレートが貼られたドアの前に着いた。
そのドアをコンコンとノックし、健太郎は中へと入っていった。
「おはようございます」
中から「おはよう」という声が返ってくる。八雲も真似して挨拶しながら入った。
部屋の中では数人の男性が机を向き合わせて座っていた。それぞれの机にはデスクトップパソコンが置かれ、壁紙に美少女イラストを設定している人が多かった。
「八雲っちの席はここ」
健太郎が指差す席まで移動し、辺りを見回してみる。隣にいる色白で細身の男性は、テキストエディタを開いて文字を打っている。その隣にいる眼鏡をかけた巨漢は、画像編集ソフトを使って、半脱ぎの美少女イラストの線を直している。その隣の席は空席だ。
自分の向かいには健太郎が座っているが、彼だけパソコンを起動していなかった。今来たばかりだから起動していないのではなく、ずっと使っていない感じがパソコンの置き方とホコリから見て取れた。彼の机には美少女のイラストとライトボックスがあるので、メインの仕事は絵を描くことなんだと判断できる。
ライトボックスは絵をトレースする際などに使われる道具で、平たく言えば光を当てて紙を透かす為のものだ。
健太郎が座る列の人たちが何をやっているのかは確認できないが、キーボードを叩く人とペンタブを握る人では、作業内容が違うのだけはわかる。ちなみに、八雲の席にもペンタブが用意されている。
八雲は自分に任される仕事が何なのか、他の人の作業を見てわかった気がした。それは時代に取り残された里の課題というには、あまりにも近代的で、あまりにも卑猥だった。
「君にはアダルトゲームで使う画像の着色を担当してもらうから」
その声に振り返り見ると、長身で眼鏡の男性がにこやかに笑っていた。
「私はディレクターの丸田。よろしくね、多宝君」
何処かで聴いた名前だと思いながらも、八雲は差し出された彼の手を握って握手した。
八雲は丸田に“課題”として指示された絵の着色を行った。
半脱ぎの美少女に迫る男の絵を塗り、その背景である夜の公園にも色を付ける。八雲としては人物よりも自然物、特に木々の方が苦手だった。背景よりもキャラ絵の方が好きだということもあるが、人物のように色が指定されていない上に、線画で細かく描かれていないのは扱いづらかった。
家で仕事をしていたときも、背景のリテイクが一番多かった。それは、ここでも変わらない。ダメ出しされ、修正してOKをもらったところで、今日の業務は終わりとなった。
作業時間としては8時間ほど。途中で貰った昼食の菓子パンを除けば、タダ働きをしたことになる。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
健太郎と一緒に室内に向かって挨拶をし、軽く頭を下げてから廊下に出る。
「ふぅ~……」
息を吐きながら、自分は何をやっているのかと、自らに問いかける。やっていること自体は、普段と変わりないのが悲しい。
「お疲れ~。どうだった?」
「どうも何も、ここにいる意味がわからない……何で、こんなことをしているのかも、全然わからない……」
ポンポンと健太郎が肩を叩く。
「生きるってことは、わからないことだらけだよ。人は何処から来たのか、何の為に生きるのか。いやぁ~、哲学してるねぇ~」
「そういうことじゃなくて……」
「八雲っちは、後継者の親となるべく、課せられた試練を乗り越えねばならない。それまでは、運命の人と会うことも叶わず、再会を信じて頑張るしかない。自分が途中で投げ出そうものなら、彼女は大きな罰を受ける――」
流れるように話す健太郎の言葉に、八雲は穂乃花を思い出して胸が苦しくなった。自分が課題を破棄すれば、彼女は使命を果たせなかったとして罰を受ける。それだけは避けたかった。
「あぁ、何たる非情な運命。なんと残酷なお告げか、しきたりか……」
「あまり大きな声で言うと、知られちゃいけない人にも……」
八雲は口に人差し指を当て、健太郎に静かにするよう求めた。
「試練の儀は一部の者しか知らないから、お話にならぬよう……ってね。僕がいなかったら、誰にも試練のことを話すことなく、課題だと言われたものをこなすだけの日々を送ったんだろうねぇ~」
「なんか、引っ掛かる言い方だな……」
「八雲っちに、疑問に思ってほしいのさ。部屋に着くまで、もう一度考えてみてよ。これまでのことを」
ゆっくりと歩いていく健太郎に歩幅を合わせ、八雲は穂乃花が来てからのことを振り返った。
突然やって来た彼女に結婚を迫られ、里の事情を話され、里の見学をすることになり、里に向かう車中で寝てしまった。気づいたらここにいる。
改めて振り返ってみると、充分な睡眠を取っていたにも関わらず、急に眠くなったのは不自然だ。まさか、大巫女が持つ霊的な力とやらは、里の者が近づくと眠らせるものだとでもいうのだろうか。
部屋に戻ったところで、その疑問を健太郎にぶつけてみる。
「大巫女の力って何? 俺が車の中で眠ったのと関係ある?」
「知りたい?」
力強く頷くと、健太郎は机の上に置かれた台本を渡してきた。
「何、これ?」
その台本の表紙には『中二病ホイホイ』と書かれていた。