↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/3

3. 小さな礼状

 翌日、父に呼ばれ、俺は屋敷の仕事机へ向かった。椅子に座る父の肩は、向かいに立つ俺の視界を広くふさぐ。ヘルダは橋の仕上げを報告するため、ケルスティンは村から預かった礼状を渡すために来ている。父の手元には、像へ予算を戻す案と、オーラフが出した飾りの銘板(めいばん)の追加注文が並んでいた。開いた窓から、刈ったばかりの庭の草の匂いが入ってくる。


「橋には道ができた。残りで小さな像なら建てられるな?」


「旦那様、仕上げが残ります」


「まだか。橋はもう渡れるんだろう?」


「渡れます。欄干の欠けには石を入れ始めましたが、仕上げと銘が残ります」


 ヘルダが余り石を机へ置いた。村の職人なら、その石に文字を刻めるという連絡も添えてある。父の前に石の平らな面を向け、ヘルダは短く続ける。


「この石を橋へ置けば、通る人が仕上げを見られます」


「俺の名は見えるのか?」


 ヘルダは紙を見ずに答える。


「刻む場所は選べます。追加の注文は不要です」


「名が見えなければ、置く意味も薄い」


 ヘルダは余り石の角を軽くたたく。


「置く高さは、旦那様がお決めください。職人へはそのまま伝えます」


 父は石の面についた粉を大きな手で払った。追加注文の紙が机の端からはみ出している。俺の背丈では、その紙に書かれた飾りの細かな線より、父の手の下にある石のほうがよく見える。


 ケルスティンが荷を支え、三つ編みの蜂蜜色の髪を肩から払った。日に焼けた頬に、外の風の色が残る。


「村から、これを預かりました。男爵様へ直接お渡ししたくて」


「橋のことでか?」


「はい。通れた人たちが、自分で書くと言って聞かなくて」


 差し出された礼状の字は不揃いだ。ケルスティンが折り目を確かめると、黒曜石めいた黒い目が俺の手元にも向いた。


「上手な字ではありませんけど、読んでください」


「ありがとうございます。父上、俺にも見せていただけますか?」


 俺は袖から、自分で描いた小さな銘板案を出し、礼状の横へ置く。記憶の中の父は領民から嫌われていた。だが、この紙を書いたのは今の村人だ。ざらついた安い紙に、書き慣れない字が寄り合う。途中で墨が薄れ、別の筆で続きが書かれている。


「字が曲がっていても、ちゃんと読めますね」


「ええ。書いた人が橋を渡れた、その手で書いています」


「ここ、橋の字だけずいぶん大きいですね」


「そこは書き直しても、まだ大きくなったそうです」


 ケルスティンが紙の端を押さえる。父はすぐには受け取らない。俺の案の整った線が、礼状の横で妙に薄く見えた。


「名前は石の端でいいのか。ずいぶん控えめだな」


「橋を渡る人の目には入ります。余り石なら、職人が仕上げと一緒に刻めます」


「像なら遠くからでも見えるぞ。道の向こうからでもな」


 父が余り石を持ち上げ、掌で重さを確かめる。


「はい。でも、礼状の人が見に来るのは橋です」


「お前はすぐ橋の話へ戻すな。俺の像も見に来るかもしれんぞ」


「父上も、石をまだ手から離していません」


 ケルスティンが口元を押さえる。父はその顔と掌の石を交互に見た。


「笑うな。重さを見ているだけだ」


「失礼しました、男爵様。しっかりした石ですから」


 それでは何も否定していない。俺も口を結ぶ。父は石を置き、ようやく礼状を受け取った。紙の端が大きな手からはみ出す。


「こんな紙切れ、どこに置けばいい?」


 俺は仕事机の広い面を示す。


「机の一番目立つところに」


「客の前に置くのか? そんな小さな名では、客に見えん」


「橋を通る人には見えます。客には、礼状を書いた人の字が見えます」


「客に俺の名を探させる気か?」


「探す前に、読んでしまうと思います。俺もそうでした」


 父は紙を折り直そうとして、手を止めた。強く折れば字まで隠れる。端をそろえる動きだけがゆっくりになり、礼状は裏返しになる。


「客が見たらどうする?」


「喜びますよ、父上が」


「俺が喜ぶと決めたのは誰だ?」


「読んでから伏せたのは父上です」


「余計なところばかり見ているな、お前は」


 父の目がこちらを向く。見上げると、机の縁まで高くなる。


「机が高いので、見上げるしかありません」


「机のせいにするな。……笑うな、ヘルダ」


 ヘルダは口元を変えず、追加注文の紙を机の内側へ戻す。


「旦那様、注文を出すなら今日です」


 父は俺の案と伏せた礼状を見比べた。


「お前、この紙を渡せば俺が像を小さくすると踏んだな?」


「……橋に使える石もあります、とお伝えしたかったのです」


「石だけなら、ヘルダに任せれば済む」


「父上にも、この字を見ていただきたくて」


 勘定なら、差し出す前に答えを用意できる。礼状の上には父の手が残ったままだ。俺の指には案を描いた木炭の粉がついているのに、紙の曲がった字のほうがずっと濃い。細い腕で袖を押さえ、次の言葉を探す。


「小さすぎる名なら、橋で見えん」


「位置を変えますか?」


「いや。この余り石を使え。俺の名は端に刻ませる。残りは橋の仕上げだ」


「父上が、その石を選ぶのですね」


「俺の橋だ。石くらい俺が選ぶ」


 父はオーラフの追加注文を閉じた。俺が描いた案より先へ、父の手が進んでいく。石も、名を刻む場所も、父自身が決めた。


「追加は要らんと俺から伝える。ヘルダ、職人に石を渡せ」


「はい。職人へ渡します。仕上げの指示も添えます」


 父は礼状をもう一度開き、曲がった字を目で追ってから伏せる。客が机に来れば見える場所だ。紙の角をそろえる大きな手は、石を置いたときより慎重に動く。見上げた先で、父の耳の先がわずかに赤い。


 不器用な礼状を何度も読み返す父の横顔が、銘板の字より気になった。


 ケルスティンが荷を背負い直す。


「今朝、村を出るとき、職人さんがもう欄干の欠けに新しい石をはめていました。子どもたちが手を叩いて見ていましたよ」


「ふん。仕上げが済んだら、俺も見に行く」


「職人さんも喜びます。橋を渡る人にも、きっと会えますよ」


「見に行くのは橋だ。……礼状の礼も、直接言えるなら言う」


 ケルスティンは荷の革紐を締め直した。


「男爵様、次の荷車が心配です。川沿いの土手の道で、流れが寄って道の端が削れてきたと村の者が言っています」


「先ほどの橋とは別の道ですか?」


「ええ、若様。荷を載せると、車輪が道の縁へ寄るんです。村で待つ人もいるんです」


「ケルスティンさんが荷を運ぶ道ですね。父上、その道も見られますか?」


 ヘルダが予定の紙を開く。


「旦那様、行進の日にその道を見られます。荷の届け先では、その後に祝宴がございます」


「行進は俺の馬で行く。大道から道を見よう」


 ケルスティンが父のほうへ向き直る。


「見ていただけるなら助かります、男爵様。私も荷のそばにおります」


 俺は父を見上げる。


「父上、削れ具合まで分かるでしょうか?」


「上から見れば、川がどこへ当たっているかは分かる。足元はその場で見る」


 ケルスティンは革紐を握ったまま、父へ頭を下げた。


「ありがとうございます。荷を載せるときも、道の端を見ておきます」


「リーヌス、お前も来い。紙に描いた道と本物の道を見比べろ」


「はい、父上。橋の仕上げも、帰りに見たいです」


 父は礼状へ手を伸ばしかけ、客用の椅子の正面へ少しずらす。裏返しのまま残った角が、俺の目に焼きつく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。