3. 小さな礼状
翌日、父に呼ばれ、俺は屋敷の仕事机へ向かった。椅子に座る父の肩は、向かいに立つ俺の視界を広くふさぐ。ヘルダは橋の仕上げを報告するため、ケルスティンは村から預かった礼状を渡すために来ている。父の手元には、像へ予算を戻す案と、オーラフが出した飾りの銘板の追加注文が並んでいた。開いた窓から、刈ったばかりの庭の草の匂いが入ってくる。
「橋には道ができた。残りで小さな像なら建てられるな?」
「旦那様、仕上げが残ります」
「まだか。橋はもう渡れるんだろう?」
「渡れます。欄干の欠けには石を入れ始めましたが、仕上げと銘が残ります」
ヘルダが余り石を机へ置いた。村の職人なら、その石に文字を刻めるという連絡も添えてある。父の前に石の平らな面を向け、ヘルダは短く続ける。
「この石を橋へ置けば、通る人が仕上げを見られます」
「俺の名は見えるのか?」
ヘルダは紙を見ずに答える。
「刻む場所は選べます。追加の注文は不要です」
「名が見えなければ、置く意味も薄い」
ヘルダは余り石の角を軽くたたく。
「置く高さは、旦那様がお決めください。職人へはそのまま伝えます」
父は石の面についた粉を大きな手で払った。追加注文の紙が机の端からはみ出している。俺の背丈では、その紙に書かれた飾りの細かな線より、父の手の下にある石のほうがよく見える。
ケルスティンが荷を支え、三つ編みの蜂蜜色の髪を肩から払った。日に焼けた頬に、外の風の色が残る。
「村から、これを預かりました。男爵様へ直接お渡ししたくて」
「橋のことでか?」
「はい。通れた人たちが、自分で書くと言って聞かなくて」
差し出された礼状の字は不揃いだ。ケルスティンが折り目を確かめると、黒曜石めいた黒い目が俺の手元にも向いた。
「上手な字ではありませんけど、読んでください」
「ありがとうございます。父上、俺にも見せていただけますか?」
俺は袖から、自分で描いた小さな銘板案を出し、礼状の横へ置く。記憶の中の父は領民から嫌われていた。だが、この紙を書いたのは今の村人だ。ざらついた安い紙に、書き慣れない字が寄り合う。途中で墨が薄れ、別の筆で続きが書かれている。
「字が曲がっていても、ちゃんと読めますね」
「ええ。書いた人が橋を渡れた、その手で書いています」
「ここ、橋の字だけずいぶん大きいですね」
「そこは書き直しても、まだ大きくなったそうです」
ケルスティンが紙の端を押さえる。父はすぐには受け取らない。俺の案の整った線が、礼状の横で妙に薄く見えた。
「名前は石の端でいいのか。ずいぶん控えめだな」
「橋を渡る人の目には入ります。余り石なら、職人が仕上げと一緒に刻めます」
「像なら遠くからでも見えるぞ。道の向こうからでもな」
父が余り石を持ち上げ、掌で重さを確かめる。
「はい。でも、礼状の人が見に来るのは橋です」
「お前はすぐ橋の話へ戻すな。俺の像も見に来るかもしれんぞ」
「父上も、石をまだ手から離していません」
ケルスティンが口元を押さえる。父はその顔と掌の石を交互に見た。
「笑うな。重さを見ているだけだ」
「失礼しました、男爵様。しっかりした石ですから」
それでは何も否定していない。俺も口を結ぶ。父は石を置き、ようやく礼状を受け取った。紙の端が大きな手からはみ出す。
「こんな紙切れ、どこに置けばいい?」
俺は仕事机の広い面を示す。
「机の一番目立つところに」
「客の前に置くのか? そんな小さな名では、客に見えん」
「橋を通る人には見えます。客には、礼状を書いた人の字が見えます」
「客に俺の名を探させる気か?」
「探す前に、読んでしまうと思います。俺もそうでした」
父は紙を折り直そうとして、手を止めた。強く折れば字まで隠れる。端をそろえる動きだけがゆっくりになり、礼状は裏返しになる。
「客が見たらどうする?」
「喜びますよ、父上が」
「俺が喜ぶと決めたのは誰だ?」
「読んでから伏せたのは父上です」
「余計なところばかり見ているな、お前は」
父の目がこちらを向く。見上げると、机の縁まで高くなる。
「机が高いので、見上げるしかありません」
「机のせいにするな。……笑うな、ヘルダ」
ヘルダは口元を変えず、追加注文の紙を机の内側へ戻す。
「旦那様、注文を出すなら今日です」
父は俺の案と伏せた礼状を見比べた。
「お前、この紙を渡せば俺が像を小さくすると踏んだな?」
「……橋に使える石もあります、とお伝えしたかったのです」
「石だけなら、ヘルダに任せれば済む」
「父上にも、この字を見ていただきたくて」
勘定なら、差し出す前に答えを用意できる。礼状の上には父の手が残ったままだ。俺の指には案を描いた木炭の粉がついているのに、紙の曲がった字のほうがずっと濃い。細い腕で袖を押さえ、次の言葉を探す。
「小さすぎる名なら、橋で見えん」
「位置を変えますか?」
「いや。この余り石を使え。俺の名は端に刻ませる。残りは橋の仕上げだ」
「父上が、その石を選ぶのですね」
「俺の橋だ。石くらい俺が選ぶ」
父はオーラフの追加注文を閉じた。俺が描いた案より先へ、父の手が進んでいく。石も、名を刻む場所も、父自身が決めた。
「追加は要らんと俺から伝える。ヘルダ、職人に石を渡せ」
「はい。職人へ渡します。仕上げの指示も添えます」
父は礼状をもう一度開き、曲がった字を目で追ってから伏せる。客が机に来れば見える場所だ。紙の角をそろえる大きな手は、石を置いたときより慎重に動く。見上げた先で、父の耳の先がわずかに赤い。
不器用な礼状を何度も読み返す父の横顔が、銘板の字より気になった。
ケルスティンが荷を背負い直す。
「今朝、村を出るとき、職人さんがもう欄干の欠けに新しい石をはめていました。子どもたちが手を叩いて見ていましたよ」
「ふん。仕上げが済んだら、俺も見に行く」
「職人さんも喜びます。橋を渡る人にも、きっと会えますよ」
「見に行くのは橋だ。……礼状の礼も、直接言えるなら言う」
ケルスティンは荷の革紐を締め直した。
「男爵様、次の荷車が心配です。川沿いの土手の道で、流れが寄って道の端が削れてきたと村の者が言っています」
「先ほどの橋とは別の道ですか?」
「ええ、若様。荷を載せると、車輪が道の縁へ寄るんです。村で待つ人もいるんです」
「ケルスティンさんが荷を運ぶ道ですね。父上、その道も見られますか?」
ヘルダが予定の紙を開く。
「旦那様、行進の日にその道を見られます。荷の届け先では、その後に祝宴がございます」
「行進は俺の馬で行く。大道から道を見よう」
ケルスティンが父のほうへ向き直る。
「見ていただけるなら助かります、男爵様。私も荷のそばにおります」
俺は父を見上げる。
「父上、削れ具合まで分かるでしょうか?」
「上から見れば、川がどこへ当たっているかは分かる。足元はその場で見る」
ケルスティンは革紐を握ったまま、父へ頭を下げた。
「ありがとうございます。荷を載せるときも、道の端を見ておきます」
「リーヌス、お前も来い。紙に描いた道と本物の道を見比べろ」
「はい、父上。橋の仕上げも、帰りに見たいです」
父は礼状へ手を伸ばしかけ、客用の椅子の正面へ少しずらす。裏返しのまま残った角が、俺の目に焼きつく。




