1. 銅像より大きな橋
父は俺の目の高さへ銅像の模型を押し出した。大きな手が台座を覆い、後ろへ撫でた黒髪が窓の光を受ける。傍らにはヘルダがいる。
「見ろ、俺の銅像だ!」
模型の足元には、オーラフ・ドレスラーの店の名が入った注文書が挟まっている。
「よく似ています、父上。こちらが屋敷の庭に立つのですか? 肩まで、こんなに立派です」
「庭では狭い。通る者がみな見上げる場所に置く。遠くからでも俺だと分かるようにな」
俺は自分の声の高さに驚いた。前夜の熱で思い出したことより、この声のほうがまだ信じがたい。
俺が転生したのは、前世で遊び込んだゲームに出てくる悪役貴族の、十一歳の息子。
昨夜、熱に浮かされた頭へ、問屋の帳簿係だった男の三十一年が流れ込んだ。ただ、腕も声も背丈も、全部こちらの子供のままだ。
模型を押さえる父の手の下へ自分の手を置く。小さい。水桶の水面を覗いて額にかかる亜麻色の髪を直すと、見知らぬ丸い頬までついてきた。頭では分かっているのに、水面の子供が自分だと思えない。
「リーヌス、どうだ。似ているだろう?」
「ええ。父上の眉が、よくできています。今にもこちらへ命じそうです」
「そうだろう。職人に何度も直させた。そこが肝心だ」
顔を上げると金茶の鋭い目がこちらを向く。三十八歳の父は原作の絵より若い。角張った顎も広い肩も、見上げるとひどく大きい。記憶の中の悪役が、いま得意げに鼻を鳴らしている。
原作で覚えているのは大筋だ。借りの返済と新しい徴収が重なり、旧い橋の徴収まで表に出て、領民が訴える。額も、その金がどこへ行ったかも知らない。
この秋、父が領民の恨みを買い、家ごと没落する未来を知っている。
家令のヘルダが、きっちり結んだ銀髪を揺らして紙を広げた。村の職人による仮の見積書と、橋を渡れない村人からの訴えだ。磨かれた模型の台座を覗くと、薄緑の丸い目がこちらを見返す。
「旦那様。像は金貨四十枚です。橋の石代は金貨二十枚。手間賃は請負が決まってから出ます」
ヘルダが訴えを俺にも向ける。川向こうから薬草を運ぶ村人が、荷を抱えて戻れずにいる。
「その紙を、父上にも見ていただけますか?」
「リーヌス、お前は像より橋が気になるのか?」
「気になります。父上の像は、橋を渡った先からでも見えますから。向こう岸の人にも見てほしいのです」
「ふん、口の回る奴だ。俺の像の話をしているんだぞ」
小さな手では石も運べず、父の名で支払いも決められない。
逃げる金も、父を倒す力もない。
卓の端には古い橋代の帳面がある。伸ばしかけた手の前で、ヘルダが表紙を閉じた。
「坊ちゃま。こちらは旦那様のお許しが要ります」
「……分かりました」
俺は伸ばした手を引き、橋の紙だけを持つ。中身を知らずに問えば、父を責めるだけだ。まず、秋に重なる借りを止める。閉じた帳面の留め金は、まだ俺の側から開けられない。
ヘルダが模型用の注文書を父の前へ寄せた。俺はその横に橋の紙を並べる。
「父上、橋の紙も先に見てください」
父は模型の台座を引き寄せた。
「俺の像が小さくなるではないか!」
「像の置き場所を決める前に、村人の通り道を決めていただきたいのです。荷を運べる道が要ります」
「俺のために用意した金だぞ。お前まで像に反対するのか!」
「反対ではありません。橋も父上のお名前が残る場所です。渡る人が、毎日そこを通ります」
ヘルダが注文書の署名欄を示す。
「旦那様のご署名は、まだありません」
俺は見積もりを開く。父が模型を伏せかける。
「父上の銅像を建てるなら、その前に橋を直しませんか。村じゅうの人が、お父様を見上げますよ」
その呼びかけで父の手が止まる。ほんの一拍。紙から顔を上げると、父は模型ではなく俺を見ている。
「誰が橋を渡れずにいる?」
「川向こうから薬草を運ぶ村人です。荷を持ったまま渡れず、帰る道も困っています。ここに、その人の訴えがあります」
「仮の足場で、その者を通せるのか? 荷ごとだぞ」
父の声が大きくなる。俺には答えられない。ヘルダが職人の印のある箇所を示す。
「職人は、石を替える間も通れる足場を組めると申しております。荷を運ぶ幅も確かめます」
父が俺の顔を見る。紙を持つ細い腕を下ろさず、俺は言う。
「お父様なら助けられますよね?」
模型を持つ手がまた止まる。父は鼻から強く息を出した。
「……大きい橋にしろ」
ヘルダは淡い紫の細い目で父を見返し、支払いの紙を手元へ引く。
「旦那様、石代はこちらで足ります」
「像の注文は断る。橋はオーラフに請けさせろ。俺からそう言う。あの注文をしたのも俺だ」
父は像の注文書を脇へ押した。俺の紙には、商人への返事まで書いていない。父の手はもう橋のほうへ伸びている。
「旦那様。明日は職人と足場を組みます。そのあと手間賃を含めて確かめます」
「現場も俺が見る。リーヌス、お前も来い。紙の向こうを見ておけ」
「父上、もう少し紙を揃えてからでも……支払いも、まだ全部は」
父は伏せた紙へ目をやり、俺の返事を待つ。袖にしまいかけた橋の紙の端が、手の中で折れる。気づかれたのか。
「はい。俺も見ます。橋も、そこを渡る人も」
◇
そう口にした翌朝、父は上着を脱ぎ、誰より大きな石を担いでいた。
どうしてそうなる。
父に連れられて来た橋にはヘルダもいる。村の職人と手伝いの男たちが足場を組み、薬草の荷を抱えた村人が川岸で待つ。崩れかけた欄干の脇は木屑の匂いが濃い。春先の川は冷たい音を立て、割れた石の隙間で白く泡立っている。
父が担ぐ前に、俺も石に腕を回した。細い腕では持ち上がらず、靴の底だけが地面をこする。石の重さは、紙に書かれた金貨の数からは分からない。
ヘルダが後ろから声を掛ける。
「坊ちゃま、袖が汚れます」
「……もう汚れています。ここまで来て、袖だけきれいでも」
「退け、リーヌス。職人、運ぶ先を示せ」
村の職人が足場の端を示した。
「男爵様、そこへお願いします。板を支える石です」
「この重さなら、板も動くまい。お前は反対側を見ろ」
「……俺には、少しも動きませんでした。石に、俺のほうが動かされそうです」
「お前は荷が通る幅を見ていろ。それは俺には見えん」
父は村の職人が示した場所へ石を運ぶ。額の汗を払う大きな手に、白い粉がつく。俺はその手の下で板を押さえる。父の背中に隠れると、川向こうが見えなくなる。
村の職人が板を踏んで確かめた。
「男爵様、そこです。足場が安定します!」
「なら次は板だ。荷を通す側を空けろ。俺が立っていては狭いな」
村人が薬草の荷を抱えて足場へ進む。
「荷を持っても渡れますか?」
俺は板を押さえたまま答える。思ったより高い声が、川音を越えた。
「大丈夫です。俺が板を見ています。どうぞ、ゆっくり」
向こう岸へ着いた村人が振り返り、父へ拍手を送る。父の強い眉がほどける。拍手は職人へ、手伝いの男たちへと広がり、川音に混じった。
村人は荷を抱え直して声を張る。
「これで通えます。男爵様、ありがとうございます!」
「ふん。……リーヌス、見ていたか」
父が石の粉のついた手を見せる。その脇にある俺の手は、まだ板を押さえた形のままだ。紙の上で値踏みしていた父が、紙にない重さを運んでいる。前世の帳簿なら、この男は損の欄にしか載らなかった。けれど、その欄のどこにも、この手の粉は書いていない。
「さすが父上です」
「もっと大きな石でもよかったぞ。俺なら運べる」
「次は、父上の腰が曲がらない大きさでお願いします。橋より先に父上が傾いたら、俺には支えられません」
「ははっ、生意気を言う。なら、お前が支えられるうちは真っすぐ立ってやる」
拍手の輪の外で、俺は村の職人へ声を落とす。袖の内の橋の紙を、まだ握っている。
「手間賃まで入れた内訳を、紙にいただけますか? 父上にも、同じ紙を見ていただきたいのです」
村の職人が袖の木屑を払う。
「ええ。今使う石と手間を、同じ品目で書きます」
父は上着を拾い、照れた顔で俺を呼ぶ。
「リーヌス、帰りも橋を見ていけ。向こうから見たら、俺の運んだ石はどう見える?」
褒め言葉を待つ、子供みたいな顔だ。石の粉がついた手を上着で隠しもせず、父は俺の返事を待っている。その見栄が今朝、川の上に一枚の板を渡した。
その見栄、領民のために使いましょう。




