其の十七 上の姉様
その日訪れたのは、齢八十は超えていそうな老婆であった。
小柄で腰も直角に曲がった老婆は、玄関の上がり框を上がるのも大変だ。実家で曾祖母や祖母と暮らしていたスミは、手慣れた様子で踏み台を用意し、腕と背中を支えて手伝う。
「どうも、ありがとなぁ」
訛りのある響きで礼を言いながら、老婆は背に負っていた風呂敷から何かを取り出した。黒ずんだ橙色のしわしわの丸い物が幾つも連なったそれは、干し柿である。
「わあ、ありがとうございます」
受け取ったスミは、老婆を居間兼応接間まで案内した後、台所に向かった。
これはちょうどよい。柿の渦巻を作ろう。先日胡桃を近所の人からもらい、胡桃味噌用や先生の執筆のお供にと、剥いた胡桃を炒ったものがある。
スミは干し柿を観音開きにして、刻んだ胡桃をのせ、端からくるくると巻き寿司を作る時のように巻き込んだ。これを一寸(三センチ)ほどの食べやすい大きさに切ったものが、柿の渦巻である。
甘い干し柿と、香ばしい胡桃。食感の違いもあって、これがいいお茶うけになるのだ。
お茶と柿の渦巻をお盆に載せ、スミは応接間へと向かった。
応接間では、先生と老婆がゆっくりと世間話をしている。
――いやあ、にいちゃん別嬪さんやなぁ。
いえいえそんな。おや、おばあちゃんのその簪、素敵ですねぇ。
そうけぇ、旦那から貰ったんよ――
のんびりとした掛け合いは、まるで孫と祖母のようだ。
頬をほころばせ、声を掛けて応接間にスミが入ると、二人してこちらを向いた。
「あれまぁ、渦巻き柿でねぇの。懐かしいなぁ」
スミが出した茶うけの皿を見て、老婆は顔の皺を深める。
「祖母から教えてもらったんです」
「そうけぇ」
老婆はさっそく一つ食べて、もう一度「懐かしいなぁ」と言う。
「おれも、あねさまから教えてもらったなぁ」
「おや、お姉様から」
「んだ。四つ上のあねさまで、きれいでとても優しいひとだったよぉ」
でも、と老婆は皺の中に目を細める。
「……あねさまは、上のあねさまを殺したかもしれん――」
***
老婆の名は、トヨといった。
豪商の一家の、六人兄弟の一番末っ子として生まれた。
もっとも、少々複雑な家庭であった。トヨと、その三歳年上の姉のマツは妾の子であったのだ。母が亡くなり、不憫に思った父が二人を引き取った。
当然、本妻は面白くない。トヨ達の母が生きている頃から目の敵にしていた本妻は、二人を引き取った後は、使用人のようにひどく扱った。
本妻の子達は母親のその態度を見て、同じように振舞った。
特にひどかったのは、長女の美代だ。
トヨとマツの母は、町で一番の美人と評判の芸者であり、特にマツは、その美貌を引き継いでいた。白いうりざね顔にぱっちりとした目、愛らしいおちょぼ口。聡明で優しく、控えめな性格もまた、周囲のものに好かれていた。
それに比べ、長女は父親似の、小さな吊り目と角ばった顔立ちであった。豪商の初めての子で、蝶よ花よとわがまま放題に育てられたせいか、勝気で横柄な性格も相まって、周囲は遠まきにしていた。
それが気に食わなかったのだろう。
美代はマツを苛め抜いた。
ひどい雨の降る日に、庭に簪を落としたと言ってマツ一人に二時間以上も探させた。凍えるような冬の日にマツが雑巾がけをしていれば、汚い水が入った桶をわざと蹴飛ばしてずぶ濡れにした。
何かにつけては、マツに飯抜きの罰を与えた。
しかし、マツは挫けなかった。
笑顔を消すことなく、優しさを失うことなく、時に美代に八つ当たりされるトヨまで庇ってくれた。
そんな健気なマツの姿に心を打たれた使用人達は、こっそりマツやトヨの仕事を手伝ってくれたり、飯抜きの時には握り飯をくれたりしたものだ。
優しく強い姉は、皆から好かれていた。トヨも姉のことが大好きだった。
そして、ある正月の夜のことである。
使用人部屋の片隅で、トヨとマツはいつものようにくっついて布団に潜っていた。
めでたい正月だ。さすがに本妻も美代も、今日ばかりは機嫌がよかった。トヨ達を相変わらず扱き使いはしたものの、意地悪く絡んでくることは無かった。
使用人にも正月料理が出て、いつもよりも豪勢な食事にお腹も膨れる。
特に、干し柿に胡桃や胡麻を巻いたものがたいそう美味しくて、嬉しそうに頬張るトヨに、マツは自分の分も与えてくれたものだ。
「あねさま、おいしかったねぇ」
薄い掛布団の下でトヨが言えば、マツもにこりと笑う。何となくいつもよりも嬉しそうなのは、正月だからか。
「あねさま、なんかいいことあったんけ?」
「……」
するとマツは、つぶらな目をゆっくりと細めた。
布団の下でマツはトヨを手招く。トヨがさらにぎゅっと身を寄せると、その耳に手を当てて、マツは囁く。
「『上の姉様』が、いなくなる」
「え?」
上の姉様。
一番上の、姉――美代のことだ。
どういうことだと目を丸くするトヨに、マツは言葉を続ける。
「猫いらずを仕掛けたんよ。だからもう、『上の姉様』はいなくなる」
くすくす、とマツは笑う。いつもの優しい顔で笑う。
猫いらずは、ねずみを捕るための薬のことだ。それが危ないものだと、トヨは年寄りの使用人から聞いて知っていた。
マツが、美代に猫いらずを……。
暖かい布団の中で、トヨの背中に寒気が走る。
ぶるりと震えるトヨを、マツはそっと抱き寄せた。寒い?と尋ねてくるマツに、トヨは黙って頷くことしかできなかった。
すぐ隣で、ゆっくりと寝息を立てるマツ。しかしトヨはまんじりともせず一夜を明かすことになった。
さて、翌朝。
しょぼしょぼとした目で台所の手伝いをして、朝の掃除を行うトヨに、いつものいじわるな声が掛かる。
……美代だ。生きている。
ぽかんとするトヨを、美代は呆れたような目で見下ろしてきたものだ。
トヨは美代の嫌味を何とかやり過ごし、姉のいる台所へと走った。野菜籠の片隅に屈んだマツの袖を引けば、マツが振り向く。
「どうしたの?」
「あ……」
ぱくぱくと口を開閉するトヨに、マツは不思議そうに首を傾げたものだ。トヨは結局何も言えずに、俯くことしかできなかった。
マツは野菜籠の奥にいた、ぐったりしたねずみを拾い上げて、裏庭へ埋めに行ってしまった――。
***
老婆――トヨの話をそこまで聞いた先生は「ああ、なるほど」と口を開く。
「忌み言葉、ですね」
「いみことば?」
スミが首を傾げると、先生は説明する。
「口にすると不吉とされる言葉の代わりに使う、別の言葉のことだよ。ほら、例えば数字の『四』。『し』と言う響きが『死』を連想させるから、『よ』とか『よん』とか呼ぶでしょう? めでたいことが終わるときに『終わる』なんて言うのは縁起が悪いから『お開き』と言うし、梨の『なし』は『無し』に通ずるから、『ありの実』なんて呼ぶこともある。縁起が悪い、不吉を連想させる言葉を避けるために作られた言葉だよ」
縁起を担ぐ日本に置いて、忌み言葉は多い。
山で暮らす人達には『山言葉』、海で働く漁師達には『海言葉』、夜の時間帯に使うことを避ける『夜言葉』と、様々な言葉がある。
そして、『正月言葉』。めでたい正月三が日に、普段使っている言葉でも『忌み』とされ、使用を避ける言葉があった。
その中の一つに『ねずみ』の忌み言葉がある。
なんでも、正月に『ねずみ』というと火に祟るという俗言があり、それを避けるためにできたそうだ。
「『ねずみ』の忌み言葉には、『嫁が君』、『嫁殿』、『よもの』、『夜の人』……そして、『姉様』や『上の姉様』がある」
ねずみは夜行性で、夜に動くので「夜目がきく」から『よもの』や『夜の人』、転じて『嫁』という言葉になったという説がある。
また、一部の地域では『嫁』のことを方言で『あねさま』と呼ぶことから、『姉様』になり、さらには天井裏――上を歩くから『上の姉様』と呼ばれるようになったとか。
「マツさんが言ったのは、『上の姉様』……ねずみのことだったんですね」
野菜籠の隅にいたという、ぐったりしたねずみ。きっと、以前からねずみに悩まされていたのだろう。だから『猫いらず』でねずみを駆除した。
その意味で「『上の姉様』がいなくなる」とトヨに話したのだろう。
先生がそう言うと、トヨは目を伏せる。
「最初はな、そう思ったんよ。でもな……三が日が明けた朝、美代おじょうさんは死んじまった」
「え?」
「食事に、猫いらずが混ぜられてたんだ。おれの目の前で、死んじまった」
朝食の時のことだったそうだ。
吸い物に手を付けた美代は、椀を落として、床に横倒しになった。
口から赤色と白色の混じった泡をふいて。
目玉が飛び出るのではないかというぐらい目を見開いて。
掻き毟った喉には、幾筋もの赤い血の跡があった。
「……でも、あねさまの仕業じゃねぇ。膳を運んだ他の使用人が、混ぜたそうだ。でも、でもな――」
ぶるり、とトヨは身を震わせる。
「俺を抱きしめて、あねさまは笑ってたんだ」
美代の死に様に怯えるトヨを、隣にいたマツは抱きしめた。幼い妹に無残な死体を見せまいとする仕草であった。
しかし、トヨの耳元で囁かれる声は、笑っていた。
――ああ、怖い怖い、怖かったねぇ。いなくなったねぇ、上の姉様が……。
正月の晩、布団の中でトヨを抱きしめて、くすくすと笑う可憐な笑顔が思い浮かんだ。震えるトヨを、マツはしっかりと抱きしめていた……。
語り終えたトヨは口を閉じ、やがて静かに席を立った。
玄関まで見送るスミと先生に一礼した後、トヨは去っていく。来た時よりも小さく見える背中を見つめながら、スミは先生に尋ねる。
「……トヨさんの言う通り、マツさんが犯人だったんでしょうか?」
「さあ、それは誰にも分からないよ」
あの様子では、トヨはマツに最後まで聞けなかったのだろう。
「美代おじょうさんを殺したのは、あねさまなのか」と。
そして、トヨも言わなかった。ただ、「上の姉様がいなくなる」と言っただけだ。
それは、己の罪を少しでも誰かに伝えたかったのか。あるいは、己のしたことを妹に自慢したかったのか。あるいは――己の呵責を、妹にも抱えさせたかったのか。
「分からないけれど、僕らも何かを抱えさせられたような気分だね」
トヨの話は、懺悔だったのかもしれない。
誰にも言えなかった姉の罪。無言を貫き、ついには償えなかった己の罪。
「……私にも、分かりません。けれど、先生が抱えることでは、きっと無いと思います」
「……」
スミの言葉に、先生は目を瞬かせる。やがて、ふにゃりとほおを緩ませて「そうだねぇ」と気の抜けた笑みを見せた。




