朝斗と真澄 ①
「やっと終わった⋯⋯」
思わず声に出してしまった後、俺は椅子の背もたれに身体を預けて天を仰いだ。
最近ずっと滞っていた論文がようやく完成し、大きな溜息を吐く。
とりあえず、細かい確認は明日にして、データを保存してパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。
白衣を翻す勢いで向かった先で、ドアの外からそっと部屋の中を伺う。そこには、ベッドの上で半身を起こし、テーブルの上に広げたノートに、何やら真剣な顔で向き合う少年がいた。
驚かせないように、開いたままのドアを軽くノックして声をかける。
「朝斗君」
「あ! 坂下先生」
「勉強か?」
「うん。学校の宿題」
そう言って彼、瑠璃川朝斗はこっちを見上げて笑う。
「先生、いいところに来た。これ教えて」
「どれ?」
朝斗は、俺が担当している患者だ。彼は生まれつき心臓が弱く、小さい頃から入退院を繰り返している。
高校生になった今は、学校に行ける日も増えてきているが、最近はまた少し体調が悪く、今は入院している。
「で、こっちにこの式を代入して」
「あー、⋯⋯なるほど?」
「本当にわかってるか?」
「わかってるよぅ」
若干疑わしい返事をしつつも、なんとか問題を解いていく様子から、あながち嘘でもないようだ。その様子を眺めつつ、ふと、ベッドの傍に置かれているものが目に入った。
「親御さん、来てないのか?」
「え? ああ、うん」
そこには、籠に入った洗濯物が山になっていた。
「なんか、仕事が忙しいみたい」
「そうか⋯⋯。よっと」
仕方がないな、と俺は籠を持ち上げた。
「え? ちょ、先生? なにしてんの?」
「洗濯、してきてやるよ」
「いいよ。俺自分でやるし」
「気にするな。ついでだ」
なんのついでかは自分でもわからないが、俺は洗濯籠を持ってランドリーへ向かう。
どこの世界に患者の洗濯物まで手伝う医者がいるんだよ、と背後から半分呆れたような声がかけられたが、軽く笑って流した。
確かに、看護師に見つかったら特別扱いするなと怒られそうだが、まあ見つからなければいい話だ。
籠の中身を洗濯乾燥機に突っ込んで、スタートボタンを押す。終わるまではしばらくかかるから、また朝斗の部屋にいよう。
朝斗の親は、あまり面会には来なかった。俺が担当するようになったここ数年の話ではなく、朝斗が小さかった時からそうみたいだ。
まだ年端もいかない子どもを一人病院に置いて仕事優先だなんて、俺には理解出来ない。
洗濯が終わるまで朝斗と宿題の続きをしたり、適当におしゃべりをして時間を潰す。終わる頃にまたランドリーへ行き、回収してきた洗濯物をしまおうとして、朝斗にひったくられた。
「ありがとう。後は自分でやるから」
「しまうだけだろ。最後までやるよ」
「いいって。わー! そこ開けないで!」
「なんだよ。いいだろ別に。男同士なんだから」
何を今更、と思いながらも、大声で止められたので諦めた。
「先生、女の子相手にもこんなことしてないよね?」
「するわけないだろ」
「ならいいけど」
朝斗は着替えをしまってから、改めて礼を言ってきた。
「ごめん、遅くなっちゃったよね。先生って一人暮らし?」
「――いや。けど朝斗君が気にすることじゃない。この仕事してたら今日はむしろ早い方だよ」
「ふーん」
宿題の続きをすると言う彼に、あまり無理はしないようにと言って、部屋を出た。素直に返事をする彼が、なんだかとても可愛く思えた。
✦✦✦
予定より遅くなってしまったが、夕食の弁当を買って家に帰る。外からマンションの部屋を見ると、明かりがついていた。
あいつはもう帰ってきているようだ。
「ただいま」
「あ、聖一おっかえり~」
リビングに入って声をかけると、ソファでスマホをいじっていた同居人、津田真澄が能天気にひらひらと手を振ってくる。僅かに酒の匂いがした。
「飲んでるのか?」
「んー友達と飲んできた」
「⋯⋯」
真澄はほろ酔いで機嫌が良さそうだが、それを見ているこっちはなんとなく溜息を吐きたくなってしまう。
なんとか抑えて、ダイニングテーブルで一人、買ってきた弁当を食べた後、シャワーを浴びようと脱衣所に行くと、籠に洗濯物がたまっていた。
「真澄、洗濯くらいしといてくれよ」
「ん? ああ、今日は疲れてるから、明日やるから置いといて~」
「⋯⋯はあ」
今度こそ、抑えきれずに溜息が漏れた。
それを聞いた真澄は、一気に不機嫌な声を出す。
「なにその溜息」
「別に」
「洗濯なんて毎日やんなくたっていいでしょ。っていうか、今日は聖一の方が早く帰ってくる予定だったじゃん。何してたの?」
「⋯⋯仕事だ」
若干、100パーセント仕事ではないような気がして、妙な間が出来てしまう。それをどうとったのか、真澄はもういい、と言って部屋に入ってしまった。
俺は再び溜息を吐く。
今のは、どちらかというと俺の八つ当たりなのかもしれない。仕事で疲れていることを理由に真澄に当たって。
真澄は俺より4つも歳下の21歳、まだ大学生だ。俺だって、その頃は家のことは親に任せて遊びと勉強しかしていなかった。他人の事をどうこう言う資格なんてないのに。
シャワーを浴びて冷静になった俺は、寝室に入り、ベッドに寝転んでスマホをいじっていた真澄に、後ろから抱きついた。
「⋯⋯何?」
「悪かった」
八つ当たりだったことを素直に謝ると、真澄はまだ少し怒った顔をしつつも、こっちを振り向いた。
キュッと結ばれた唇に、自分のそれを軽く触れさせる。すると、溜飲を下げる気になったのか、身体ごとこっちに向けて首に腕を回してきた。
もう1度唇を触れ合わせ、今度はそっと舌を差し込むと、真澄も舌を絡ませてくる。その瞬間、全身に甘い毒のような刺激が伝わり、脳を痺れさせた。
真澄はΩだ。αの俺は、どうしようもなくその性に魅了されてしまう。
正直なところ、真澄の時に自由奔放過ぎるところは、俺はあまり好きではない。一緒に暮らしていて、さっきみたいに苛ついてしまう時も多々ある。
けれど、身体の相性は最高だった。過去にも何人かΩの相手と付き合ったことはあるが、彼らの比ではない。
運命の番。
都市伝説と言われるその単語がチラつくほどに、溺れ、逃れられなくなってしまっている。
ゆっくりと唇を離すと、俺は隣に仰向けに寝転んだ。
明日も仕事がある。今日はこれ以上するわけにはいかない。
真澄もそれがわかっているのか、ほぅっと息を吐いて静かに目を閉じた。
甘い香りを漂わせるその吐息から逃げるように、俺は真澄に背を向けて頭から布団を被った。




