第三章
第三章
1
巨大な白熊のような怪物がモスクワの郊外に現れた。
その怪物――鵺は、全長八メートルは超えており、鵺の中でも巨大と言える個体だった。
しかも、異様に太く巨大な樹木のように逞しい腕が八本も生えており、そこから伸びている鋭い爪は、人だろうが鋼鉄の塊だろうが、そしてアーベントだろうが、どんなモノでも容易く引き裂くだろう。
だが、それも、相対する者が、この二人でなかった場合の話だ。
「ハッ」
オレンジ髪の少年――ルアン=ラディーベが笑いながら、長剣を振るう。
その長剣は、『触れたものを焼き斬る』という特性を含んでいた。
故に、
「Goaaaaaaaaaaaa!!」
巨大な白熊型の鵺の大樹のような腕を一本を容易く切り落とした。
その直後、
「――凍れ」
青白い髪の少女――アンナ=ヴェルデニコフが、宣言通り白熊型の鵺の腕を四本凍らせ、そのまま粉々に砕いた。
「ハハッ」
その隙にルアンは大きな声で笑いながらその場をジャンプし、白熊型の鵺の眼前まで近付くと、目の前の白熊のような頭を刎ね飛ばす。
普通の生物なら致命傷だが、相手は異形の怪物『鵺』。
弱点である『法臓』を潰さない限り、息絶えることはない。
だから、
「あらよっと!」
ルアンは回転しながら、白熊型の鵺の首元から股まで転がるように降り、そのまま手に持つ長剣で一気に切り裂く。
縦に割れた白熊型の鵺の正中線から夥しい量の黒い血液が噴出する。
しかし、そこにも法臓が無かったのか、白熊型の鵺は死なずに残った三本の腕を振り回そうとするが、それよりも早く、
「――そこ」
アンナの周りに出現した七つの巨大な氷柱が射出され、白熊の上半身に突き刺さった。
すると、
「Gooooo……」
白熊型の怪物が、小さく唸り声を上げる。
直後、その巨大な白熊型の鵺は、跡形も無くこの世から消え去った。
アンナが放った巨大な氷柱の一つが、白熊型の鵺の法臓を吹き飛ばした結果だった。
「私の、勝ち」
「最後のでヤレると思ったんだけどなぁ……」
アンナはドヤ顔で勝ち誇り、ルアンは笑顔ながらもどこか悔しそうに負け惜しみを口にする。
そして、そのまま二人は、
「じゃ、始めるぞ」
「うん、始めよっか」
体の向きを相手の方に変え。
「狂気解放――『虹の武器』」
「狂気解放――『凍氷の主』」
郊外で周りに人が居ないのをいいことに、戦闘を開始した。
鍛錬を兼ねた二人の決闘。
それは、この二ヶ月間毎日のように行われていた、二人の強者が全力でぶつかり合う修行にして戯れの時間だった。
2
「そう、ですか」
金短髪の女――マルファ=イロフスカヤがパソコンの前で溜め息を吐く。
パソコンの画面に、映っているのは、
『ああ。生きてる奴はとりあえず全員捕縛したが、その中に「アイツ」は居なかった』
ARSS中国本部長、項秀龍。
地の極土の壊滅にあたり、彼を筆頭とした中国本部のアーベントが調査に当たっているのだった。
「……申し訳ない、項秀龍殿。本来、地の極土で有事があれば、我々ロシア本部が出張らなきゃいけないのに、貴殿のところで任せっぱなしになってしまいました」
『余裕あるものが余裕ないものを助けるのは当然の義務、気にするな。それに、貴様らの過去のことを考えると、貴様らに任せるのは酷というものだろう』
「……心遣い、痛み入ります」
『もう一度言うが、気にするな』
画面の向こう、瓦礫に囲まれている大男は笑みを浮かべる。
だが、すぐに重苦しい表情に変えて、
『テロリストの襲撃により、「地の極土」に居た人間の八割は殺された。その大部分が死体の損壊が激しく、本人の識別すらできない。ただ、アーダルベルト=シュルツの独房でアイツの大量の血液があったことから、アイツの死亡はほぼ確定的だと言える』
「……だが、100%ではないのでしょう?」
『ああ、そうだ』
秀龍は深刻そうな顔で頷く。
『大量の血をばら撒いて、死を偽装する』。
それぐらいのこと、アーダルベルト=シュルツならやりかねない。
『アーダルベルト=シュルツ』。
元ARSSロシア本部長にして、元上級序列七位の『鏖殺卿』。
彼は一度戦場に出れば数多もの敵を殲滅するが、何故か味方や一般人からも死者が大量に出すという異質な男だった。
だが、それはあくまで不幸な偶然ということになっていたのだが、その殺戮が意図的に行われていたことが昨年判明した。
この大量殺人だけでも大問題なのに、他にも『一部の好事家に向け鵺をペットとして販売』に『アーベントを奴隷にして人身売買』など、ARSSのアーベントとして……いや、人としてあり得ないほどの悪業を積んできてたのが、アーダルベルト=シュルツという男だ。
勿論、それらが明るみに出た時点で彼は捕縛され、終身刑として投獄されたのだが……その男の消息が、牢獄の崩壊ともの不明になってしまったのだ。
『アーダルベルトは死んだ』、なんてマルファは思わない。
何故なら、あの男は、去年捕まったとはいえ、それまで何年もARSSを欺いた最悪の裏切り者なのだから。
そんなことをマルファが考えてる内に、画面の向こう側の秀龍が、
『……アンナは大丈夫か?』
「大丈夫です、少なくとも見た目の上は」
マルファは苦い顔を浮かべる。
いくらアンナの心が強くても、絶対に大丈夫なわけがないからだ。
「……アーダルベルトはもう、『天の支配』は使えなくなってたんですよね?」
『あぁ。それは復讐姫と解導卿の二人が確認してることだ。あの二人が二人とも間違えることは確実にあり得ない、アーダルベルトが「天の支配」を使えることは絶対にないだろう』
「そう、ですか」
アーダルベルトが固有能力を使えないのは朗報だ。
しかし、それはあくまでも最低の条件。
『天の支配』。
触れたアーベントを問答無用に奴隷にする固有能力が使えなくなったとしても、彼のアーベントとしての肉体性能は飛び抜けており。
そして何より、彼が『天の支配』によって残した傷痕が、消えるわけではない。
「……アイツの捜索を、引き続きお願いします。アンナを早く安心させたい」
『わかってる。手を抜くつもりは僅かにもない』
そう言うと、画面の向こうに居る秀龍が視線を横に向ける。
部下から何か話しかけられたようだった。
数秒後、視線を元に戻すと秀龍は、
『……今、新たな死体が上がった。その調査をするから、通話を切るぞ』
「了解しました。では、失礼します」
『おう、達者でな』
そう挨拶を交わすと、ビデオ通話が切られた。
一人になったマルファは、額に手を当て俯く。
(……アンナ……)
マルファは、何もされていない。
アーダルベルトとは、話したこともない。
だけど、人が変わったような時期のアンナのことは知っている。
近所に住んでいた、自分が妹のように可愛がっていた彼女が。
大人しくも、明るかった彼女が。
暗く豹変したあの時のことを、マルファは覚えてる。
だから、
(アンナ……)
マルファは額に手を当て俯く。
俯いて、上司であり妹分の心の平穏を強く願った。
3
「吹っ飛べ、オラ!!」
籠手に覆われたルアン=ラディーベの右拳が、アンナ=ヴェルデニコフに向かって振るわれる。
アンナは反射的にその拳を止めようと掌を向け、ルアンの右拳を凍らせようとする。
しかし、『虹の武器』の籠手が放つ衝撃波で簡単には凍り切らず、ルアンは半分ほど凍った状態の拳を振り抜く。
だが、そんな腕では拳速が少しばかり低下し、アンナは上半身を逸らすことでその拳を躱す。
「――取った」
返す刃で、アンナはルアンの右肘に触れて直接ルアンの腕を凍らす。
そのままアンナはルアンの全身を凍らせようとするが、そんなことで止まるオレンジ髪の少年ではなかった。
「ハハッ!」
ルアンは瞬く間で左手の中に長剣を作り出すと、その長剣をアンナの首に向けて振り下ろす。
アンナは反射的に右手の中に氷の剣を作り、ルアンの長剣を受け止めようとするが、ルアンの長剣は炎熱の剣。
アンナの氷の剣を容易く焼き斬ると、ルアンの剣がアンナの首に勢いよく迫った。
だから、
「――今回は、俺の勝ちだな」
ルアンの右腕は凍ってはいるものの、それが致命傷まで届くにはまだ時間がかかり。
アンナは怪我こそ負っていないもの、ルアンがあともう少し腕を動かせば、首が斬られるところまで来ていた。
「……確かに、これは私の負けだね。次は勝つ」
そう言うと、お互いの能力を解除し、二、三歩距離を取る。
アンナによって凍らされたルアンの右腕ももう解けているのだが、凍傷にはなってしまったので、長剣の火で暖めながらアーベント特有の高い治癒能力で腕を回復させる。
故に、二人とも次の闘いをする気は満々なのだが、数分ほどとはいえインターバルを必要としていた。
だから、アンナは、
「ねぇ、ルアン君、少し話聞いてもらっていいかな」
「……なんだ?」
別に、このインターバルの時間は無言で過ごすこともあるが、雑談することも結構ある。
だから、アンナがわざわざ断りを入れて話しかけてきたことに、ルアンは若干の違和感を覚えた。
アンナはいつもと違う話し方でありながら、いつもと同じ口調で、
「ルアン君って、人を殺したことある?」
「あるよ」
『人を殺したことがあるか』。
雑談の内容としては、あまり穏当ではない質問。
それに対し、ルアンは悩むことなく肯定した。
「人を殺したことは、ある。あまり褒められたことだと思っちゃいねぇが、俺は俺が殺されそうになったら迷わず相手を殺す人間だ。んで、それがどうした」
「……そうだよね。ルアン君はそういう人なのは、わかってる」
「……」
「じゃあ、罪の無い人や、我欲で人を殺したことはある?」
「……無ぇな」
今度の回答は、即答ではなかった。
ただ、それは嘘をついたからではなく、そんなことを聞くアンナの真意が少し気になったからだ。
「……私はあるよ。罪の無い人を殺したことが、私はある」
「……あ?」
ルアンはアンナの言葉に眉を顰める。
それは、アンナの言葉を不快に感じたわけではない。
ただ単純に、信じられなかったのだ。
この二ヶ月で、アンナが善良な人間だと――罪の無い人を殺すような人間ではないと、ルアンはわかっていた。
だから、
「お前が?」
「うん」
「なんでだ?」
「私、あの人の……アーダルベルト=シュルツって人の奴隷だったから」
「……」
アーダルベルト=シュルツ。
その名は、ルアンも聞いたことがある。
去年、討伐された人を奴隷にする能力を持つ元ARSSロシア本部長。
……本当は討伐ではなく投獄で、現在その牢獄は崩壊状態な上アーダルベルトは行方不明なのだが、そんな正確なこと、不真面目の代表のようなルアンが知る由も無かった。
「あの人の命令で、どんな人も殺した。ただあの人にとって都合が悪いってだけで、ただのあの人の我欲で、罪の無い人を何人も殺した」
「……」
「今でも、鮮明に思い出せる。泣きながら命乞いをしてる人が、私の能力で殺されるのを。何も悪くない人が殺されるのを黙って見てるしかない、あの瞬間を」
「……」
「私はその時のことを、たまに夢に見る。多分、これからもずっと」
「……」
アンナの表情は、無表情だ。
ルアンの表情も、同じく無表情だ。
だが、ルアンの表情を見て、何を思ったのか、アンナは目を瞑って、
「……ごめん。とりとめのない話をしちゃ――」
「お前、すげぇな」
アンナの珍しく自信無さげな言葉を、ルアンが遮る。
「え?」
アンナは瞑っていた目を開ける。
すると視線の先のルアンは、何故か言葉通り感心したかのような笑みを浮かべていた。
「……どこが?」
「そりゃあ、お前、アーダルベルトって野郎のせいで、やりたくもない殺しをしたのに今でも戦っていることがだよ」
一瞬、皮肉にも捉えかねないルアンの言葉。
実際、ルアンはアンナに対して気を遣って言葉を重ねているわけではない。
ただ、本気で感心したのだ。
「普通、無理矢理殺したくもない人を殺すのなんてトラウマもんだろ。俺は殺したくない奴ってそんないねぇけど、それでもクソみてぇな経験だってことぐらいはわかるし、実際それでお前はトラウマになってんだろ?」
ルアンは口にする。
アンナの言葉を聞いて、思ったままのことを。
「お前はトラウマ抱えてる。なのに、お前は今でも知らねぇ誰かのために戦ってんだろ?」
「――」
「『トラウマがあるのに、誰かを守るために努力し、戦場に立つ』。尊敬できるし、素直に立派だと思うぜ。ま、俺は誰かのために戦うなんて死んでもごめんだけどよ」
「――――」
アンナは何も言わない。
何も、言えない。
(――笑われるって、そう思ってた)
この過去を話したのは、何もルアンが初めてではない。
両親やマルファにも話したことがあり、その人達は自分を優しく慰めてくれた。
だけど、ルアンは違うだろうとそう思っていた。
実際違っていたのだが、アンナの予想では『そんなことで悩んでんのか、くだらねぇ』と鼻で笑い飛ばすものとばかり思っていたのだ。
なのに、彼は、慰めるわけでも、笑い飛ばすわけでもなく、『すごい』と、『立派だ』とそう言ってくれた。
もう二ヶ月の付き合いだ、彼がこんなことで嘘を吐くような性格ではないことは重々わかっている。
だから、彼の言葉は、例え真実ではなかったとしても、彼の本心なのは疑いようがなかった。
(――そう、思ってくれるんだ)
自分が好敵手と定めた少年が、自分のことを認めてくれている。
能力だけじゃなくて、弱さを持つ心ごと認めてくれてる。
その事実が、青白い髪の少女の心臓を強く鳴らし、全身を火照らせる。
だから。
「――ルアン君、腕はもう大丈夫?」
「おう、もう治ったぜ」
「そう。なら、もう一回闘ろう」
この火照りを、この熱を、全力で目の前の少年にぶつけたい。
その想いだけが、今のアンナを衝き動かしていた。
「おう、いいぜ。闘ろう」
アンナの言葉に応え、瞬時に頭を雑談から闘争に切り替えたルアンは、好戦的な笑みを浮かべて、腕を前に出し構えを取る。
その一瞬後、二人は、
「狂気解放――『凍氷の主』!」
「狂気解放――『虹の武器』!」
再び己が狂気を解放し、目の前の好敵手と全力でぶつかり合った。