#13
安宿の二階に戻ったバルバスは酒瓶を片手に、窓辺から子供がいた路地裏を再度見下ろした。瓶に直接口をつけて酒を煽ると、はっきりと隆起した喉仏がゆっくりと上下する。
軍の訓練場で初めて見たときから聡い子供だと思っていた。夜が来る度に親が恋しい、家に帰りたいと泣く子供は多かったが、望みの薄い希望にすがりつくことを早々に諦め、感情を殺して割り切る術を持っていた。ちゃんと育ててやれば、使い勝手のいい部下になりそうな予感がした。
「ただのガキみてえになりやがって」
オルテクスで最後に見てから半年、いや、もっと前になるだろうか。別れた子供の変貌を思って男は薄く笑った。
戦時中はどんな状況になろうとも涙の一滴も流さなかった子供が、戦場とは比ぶるべくもない安全で平和な王都の路地裏に丸まって、みっともなく誰かの助けを求めて泣いていた。
余りの可愛らしさに、久方振りに子供を殺してみるのも悪くないと、抑えていた嗜虐心にうっかり火が着きそうだった。
目立つことはしてくれるな、という雇い主からの命がなければ、今頃路地裏は子供の流す綺麗な血で鮮やかに染まっていただろう。
「一体全体どんなお気楽なヤツに拾われたんだろうなあ、あのガキ」
子供を見逃したもう一つの理由である。子供一人、どうにかオルテクスの包囲網から逃げ切れたとしても、敗残兵の身分で旅券もなしに王都まで辿り着けたはずもない。しかも、身なりを見れば路頭に迷ってる様子もない。
純粋な興味だった。あの子供を拾った物好きがどんな輩か、一度顔を拝んでみるのも悪くない。
大して美味くもない酒をちびちび飲みながら暇をつぶしていると、しばらくして、部屋に商家の使用人に身をやつした目つきの鋭い男が訪れた。
「旦那。あのガキ、おもしれえな。裏道ばかり通って…ってあれは尾行を気にしてたんだろうな?なかなかすばしこくていい動きだったが、ちょっとばかり経験が足りねえかな。あんた、あのガキ、実戦じゃ使わなかったんじゃねえか?」
「ガキの使い道はいろいろあんだよ」
バルバスは子供に声をかける前、予め最近手下にしたこの男に後を追うよう命じていた。
「あいつ、ずいぶん変わったところに入って行きやがったぜ」
「どこぞのでっかい貴族様の御屋敷にでも入って行ったか」
男はどかりと寝台に腰かけて、もっとおもしれえ、と下卑た笑みを浮かべる。
「海務局」
眠たそうに閉じられていたバルバスの目が開く。
「なんだそりゃ、クソおもしれえな」
バルバスが新しい仲間を連れて旧帝国領を抜けて王国に入ったのは、一か月以上も前のことである。
オルテクス渓谷の包囲網をなんとか逃げ切り、ゼオンとは違って戦勝国側の小さな街に転がり込んだ。
どうやら自分の首には賞金が掛けられ、手配書が回っているらしかったが、似ても似つかない、いい加減な人相書きのせいで素性がばれることはなかった。大方、部下の誰かが処刑される前の尋問か何かで、洒落で描いた絵に違いない。その適当な似顔絵に、囚われた部下全員が「そっくりだ」と口裏を合わせた。そんなところだろう。
名前さえ偽れば、街の裏組織に潜り込むのも難しくはなかった。盗賊の片棒を担いでそれなりに生活していたが、ある晩、酒場で「船で荷を運ぶだけの簡単な仕事だが、請け負うか」と聞かれた。怪しすぎて、逆におもしろそうだと二つ返事で請け負った。報酬の方も怪しすぎるほどに破格だった。
漁船に偽装した船で指定の海域で待ち構え、瀬取りでの取引後に帰国する。海上の移動が難儀なだけで、むしろ街道を進むより警備兵に見つかる確率も低く、楽な仕事と思えなくもなかった。
あの嵐が襲来する前までは。
襲われたのは取引の直後だった。自然の猛威の前になすすべもなく、海中に投げ出されたときは流石のバルバスも死を覚悟した。
運よく流れてきた折れた帆柱に掴まって、命からがら城塞の岸壁に辿り着いた。前も見えぬような暴風雨の中、滑る石垣に足をかけ、高い城壁を越えて王都に侵入したが、逆に視界の効く晴天の日であったならば、衛兵に見つかって成功しなかった方法だったろう。
漁船にはこの取引のためだけに集まった五人の仲間がいたが、結局、生き残ったのは自分と寝台に座るセパルのみだ。
嵐が明け、港で最初に襲った商人の二人連れから衣服と荷物の全てを奪って殺し、死体を海に流した。商人たちは王都に一か月程度滞在する予定だったのだろう。潤沢な資金と旅券を手に入れた二人は、とりあえず安宿に潜伏することにした。
何しろ、取引で受け取った品物は船に積んだままだ。これでは約束の報酬も支払われず、のこのこ帰ったところで下手したら殺されるだけだ。
「なあ、旦那。悪いことは重なるって云うけどよお。いいことも重なるもんじゃねえか」
あの嵐で船は沈没したものとばかり思っていた。それが今日、近くの浜辺に打ち上げられ、海務局の連中が荷馬車にのせて押収していったらしい。波にもまれ、荷が海に流出した可能性もあったが、ここはある方に賭けるのが山師というものだろう。
そして、間のいいことに、件の海務局に繋がる子供が目の前に転がり込んで来た。
「どうするよお、旦那。なんかしら仕掛けるんだろう」
わずかに酒の残る酒瓶を寝台のセパルに放って、バルバスは笑った。
「待て待て、セパル。こういう時にこそ使い勝手があるんだぜ、子供ってのは」
受け取った酒瓶に口を付け、含んだ酒を飲み込んだ瞬間、セパルの喉仏が動くのが見えた。
蠢く蟲の鼓動のようだった。