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不機嫌な奴――不安と期待、別れの季節

 その後暫くは地元を離れる事はなく、また保健医や籐子さんがこちらを訪ねて来る事もなく、平穏に時間が過ぎて行った。

 その間にも、同居の条件に関する誓約書の準備には余念がない。少しでも書き漏らしがあれば、即座にそこをつつかれて都合の良いように曲解されてしまうのがおちなのだ。そんな隙をこちらから見せるわけにはいかない。


 保健医から齎される妹情報で、三学期末考査の最終日に熱を出して学校で倒れたと聞いた時にはどきりとした。でもまあ、保健医がざっと診たところインフルエンザではなさそうとの事だった。ただ、睡眠不足と栄養失調の兆候が見られたと言うのだが、倒れてしまうまで恭平の馬鹿が気付かなかった事で、わたしの中に小さな不安の芽が頭をもたげた。

 『幸せになる』そう言って笑っていた妹は、果たして今本当に幸せなのだろうか。

 完全に恭平を信頼しているわけではないが、それでもあいつ以上に妹を幸せにできる男なんていないだろうと思っている。けれど六年前。恭平は真奈美ときちんと話し合う事もせず、逃げるように都会に出て行った。実際にはある決意を固め、両家の親にはその思いを告げてはいたのだけれど、一人何も知らない真奈美はわたしが見ても可哀想なくらいに一途に恭平を慕い続けていたのだ。

 六年の間に、真奈美は子供から少女になっていた。幼い頃からの恋心を胸に抱いたまま。再会の約束をしてはいたらしいのだが、その予定よりも少しだけ早くに訪れた恭平は、あいつ自身の決意と真奈美の恋心を叶える事になったのだけれど。

 ずっと以前に真奈美との結婚を決意していた恭平はともかく、いきなり結婚なんて事になった真奈美の想いがついて行けるのかどうか。年齢の差はそのまま、気持ちの差に繋がっているような気がしていた。

 とは言えろくに恋愛経験もないわたしがとやかく言えた立場でもなく、かと言ってただ静観するには、二人はまだ不安定すぎるように思えた。




 そうこうしている内に春休みになり、体調が回復したばかりの妹が恭平と共に帰郷した。一見幸せそうに見えたものの、二日目の夜には真奈美がわたしに泣きついて来た。

 結婚式の日に、泣かせるなと言ったはずなのに。泣き疲れて眠った痛々しい姿に、わたしは恭平に責め寄った。しかし。

「泣かせない、とは言っていない」

 などとしれっとしている男を殴り倒してやりたい衝動に駆られたが、その顔に浮かんだ悲痛な色に、すっかり毒気を抜かれてしまった。こいつはこいつなりに、真奈美に対して何かを抱えているのだと分かったから。もちろんわたしなどに事情を話すはずもなかったのだが。

「ま、来月からはわたしがちゃんと見張ってやるから、そのつもりでいなさいよ」

「来月?」

「そ。四月から将星学園の図書室で働く事になっているのよ、わたし」

 恭平にしては非常に珍しく、びっくり眼になった。

「本当なのか。住む場所は? まさかうちに転がり込むつもりじゃないだろうな」

「本当よ。新婚家庭に転がり込むほど物好きじゃないから安心して。あ、でもまなにはまだ言わないでよ。びっくりさせるんだから」

 保健医のマンションに間借りする形で同居する事になったと告げると、びっくり眼が今度はすうっと細くなる。いつもすまし顔でいけ好かない恭平が、真奈美の前以外でこんなにころころと表情を変えるのは、とても珍しい事だった。

 何を考えているんだとか物好きだとか言われたけれど、恭平にとやかく言われる問題ではない。それに、うちの母も了承している事だと告げると、呆れながらも勝手にしろと言われた。


「お前、顔が良い男はダメなんじゃなかったのか」

「う。それは、そうだけど。でも、政高さんは大丈夫、だと、思う」

「ふうん」

 そうだ。こいつはわたしが顔がいい男を嫌いになった理由を、誰よりも良く知っているんだった。眼鏡越しに細められたままの目に、何でも見透かされそうで不気味だ。

「よ、余計な事を政高さんに吹き込んだりしないでよね」

「分かっている。だが、困った事があって泣きついて来るのは、まなじゃなくて俺にしろよ」

「え」

「まなの負担を増やす事はするなって事だ」

「む。分かってるわよ」

 にやりと憎らしげに歪む口元に、思い切り舌を出す。

 でも本当は分かっている。真奈美に負担をかけるなと言いながら、何かあった時には力になってくれるつもりなのだと言う事を。素直じゃないのは、わたしも恭平も同じなのだ。

「じゃ、もう行くわ。いい? これ以上まなを泣かせるんじゃないわよ」

「なるべく泣かせないように、努力はする」

「今度こそちゃんと約束だからね」

 何度も念を押し、不承不承と言った態で頷く恭平に、とりあえず満足する事にする。実際問題、まったく揉め事のないカップルや夫婦なんていないだろうと思うから、こちらも一歩譲ってやる事にしたのだ。

「ったく。泣きたいのはこっちなんだがな」

 小声でぼそりと呟いた恭平の言葉が耳に届いたけれど、聞こえなかった事にしてやる。真奈美を泣かせているんだから、同情の余地はない。

 おやすみと挨拶を交わし、わたしは恭平一人を残して、真奈美が眠る自室に戻ったのだった。

 春休みとは言え恭平の仕事があるからと、二人は四日目にはこちらを発った。

 四月まであと一週間。真奈美の驚く顔を見るのが楽しみだ、と、二人を見送りながら、わたしは一人ほくそ笑んでいた。




 それからは、荷物をまとめたり勤め先や友人達が開いてくれる送別会などで、毎日バタバタと忙しい日を送った。

 母と打ち合わせして、父には男と同居する事を出発まで隠す事にしている。せっかくのやり甲斐のある仕事なのだ。父の反対でおしゃかにしたくはない。

 荷物といっても必要な家具は籐子さんが揃えてくれているし、電化製品は完備されているのだから、衣類や本などの本当に身の回りの物だけを持って行く事にしている。そのため、部屋中がダンボールで埋め尽くされる!なんて事もなく、荷造り自体も案外簡単に終わった。

 べつに嫁に行くわけではないので、ここにはわたしの部屋もあるのだし、そう言う意味では気軽と言える。


「じゃあ、行ってきます」

 仕事の最終日の三月三十一日。荷物は前日に宅急便で送り出していたので、単身電車に乗り込んでの移動となっている。仕事を終えてからなので当然夜なのだが、春休み中とは言え明日は将星学園への初出勤なのだ。

 両親が駅まで見送りに来てくれたのだが、父は不機嫌そうに仏頂面をし、いつも元気な母もさすがに寂しそうな顔をしていた。

 思えば生まれてから二十四年と十ヶ月余り。この町はおろか家からも離れた事がないわたしにとって、両親の庇護下からの旅立ちの日でもあった。

「体に気をつけてね。何かあったらいつでも帰って来なさい」

「お母さん、それ、なんだか嫁に行くみたいで変よ」

「あら、そう言えばそうね」

 別れ際は笑顔で。お互い口には出さないものの、そう決めていた。

「じゃあ、お父さん、またね」

「おう」

 切符を握りしめ片手を上げて改札を抜けると、もう後ろは振り返らない。これ以上両親の顔を見ていたら、行きたくなくなってしまうからだ。

 そして一人電車に揺られながら、やっぱり少しだけ泣いた。




 目的の駅に降り立つと、駅のロータリーに見知った車が停まっていた。言わずと知れた保健医の物である。あらかじめ到着予定時刻を連絡してあったので、けっこうな深夜にもかかわらず迎えに来てくれていたのだ。

 時間が時間だからタクシーを使うと言ったのだけれど、保健医はどうせ起きて待っているのなら駅まで来ても同じだと譲らなかった。どうやら案外過保護なのか心配性なのか、それともその両方なのか。淡泊そうなのに、人は見かけによらないものだ。

「えーと。こんばん、は」

「はい、こんばんは」

 車の外に立っている保健医と顔を合わせての第一声。他に何と言って良いのか分からず、とりあえずの挨拶である。

 勧められるままに助手席に乗り込むと、保健医がドアを閉めた。相変わらずのフェミニストぶりに、苦い笑みが浮かんで来る。

「じゃあ、行きましょうか。と言っても、すぐに着きますが」

 そんな軽口を叩きながら、保健医がハンドルを握り直した。

「そう言えば、ね。よくあなたが籐子さんに事情を話したなって驚いたんだけど」

「ああ、それはですね。僕が偽者の恋人役を解消したいと思ったからなんです。いくら周囲から認められたところで、偽者は本物にはなれませんから」

 聞きようによっては、わたしと本当の恋人同士になりたいと言っているように取れない事もないその内容に、思わずこめかみに手を当てて悩んでみた。そう言えば理事長のお屋敷でそんな事を言われた覚えもある。この男に対して、初めて身の危険を感じたあの夜に。


「そ、そうそう。わたしが今日こっちに来る事、籐子さんには?」

 自分で振ったとは言えなんとなく雲行きが怪しくなった事を察し、話題を変えてみた。

「昨日話しましたよ。今日も迎えに来たいと言っていましたが、時間が遅いからと止めたんです。近い内に襲撃に来るか呼び出されるのを覚悟しておいてください」

「あはは。籐子さんなら、襲われても大歓迎だわ」

 軽い気持ちでそう言ったのだが、保健医が前方を見つめながら何とも言えない変な顔を見せる。

「なに? どうかした?」

「いえ。母になら襲われても良いんだな、と思いまして」

「へ?」

「僕に襲われるのは、ダメなのに」

 保健医の言わんとしている事が分かったわたしは、乾いた笑い声を上げるしかない。いきなり何を言い出すんだ、この男は。

「それは契約でちゃんと決めたでしょう」

「ええ。だから我慢しているんですよ、これでも。だからあなたも、不用意に僕を刺激するような言動には気をつけてください」

 何の我慢なのかなんて、鈍いわたしにもさすがに分かった。ごくりと唾を飲み込む。

 そんなわたしの様子を見て、保健医の口元に笑みが浮かんだ。

「大丈夫ですよ。これでも理性は強い方ですから」

 それはどうかと疑念を抱かずにはいられない。何しろほんの冗談程度とは言え、迫られた事があるのだから。しかも少なくとも半分は本気だったと踏んでいる。

「じゃ、じゃあ、具体的にどういう態度を取れば、あなたを刺激しなくてすむのかしら」

「そうですねえ。とりあえず続きは、部屋に着いてからにしましょうか」

 車は、いつの間にかマンションの駐車場に着いていた。気付かなかったのは、自分で意識するよりもずっと緊張していたからなのだろうか。

 さすがに下りる時くらいは自分でドアの開け閉めをしたのだけれど、その代わりと言うわけでもないのだろうが、後部座席に置いていたわたしの手荷物は保健医の手の中だった。なかなかに徹底したフェミニストぶりに、背筋がぞわぞわする。


 八階の保健医の部屋に着いてすぐ、二つの鍵を渡された。正確には三つなのだが、そのうちの二つが同じ鍵つまりマスターキーとスペアキーのセットだった。

「こちらが玄関の鍵。エントランスのオートロックもこれで開けてください。エントランスは暗証番号でも開きますから、後で番号を書いた紙をお渡しします。それから、こちらが約束のあなたの部屋の鍵です。心配しなくても、合鍵なんて作っていません」

 ちゃらっと小さな音を立てて、鍵の束がわたしの手のひらに落とされる。

 そう。部屋の鍵は、わたしが提示した同居の条件のひとつ。男と女が一つ屋根の下に住むからには、やはりプライバシーの尊重かつ身の安全のためにも、鍵は必要不可欠だ。

「僕の部屋には鍵をつけていませんから、いつでも来てくださって良いですよ」

「行かないわよ」

「それは残念ですね」

 冗談とも本気ともつかない笑顔に、この表情はずるいなと思った。元々笑顔の仮面を被っていて、ただでさえ何を考えているのか分かり辛いと言うのに。


 何気なく見た時計は、午後十一時を回っている。明日は初出勤だ。今日は早く寝るに限る。そう思ったのに。

「じゃあ、今日はそろそろ」

 と体の向きを変えたと同時に腕を掴まれ、また元の向きに戻されてしまった。とりあえず必要以上の接近はないものの、触れている部分が気になって仕方がない。

「お疲れのところ大変申し訳ありませんが、少しばかりお聞きしたい事と確認したい事があるんです」

「え? でも、ほら。明日はお互い仕事だし」

「そんなにお時間は取らせません。あなたがちゃんと話を聞いてくださって、僕の質問に答えてくだされば」

 真顔が一転して胡散臭い笑顔になる。醸し出す雰囲気から、どうやらご機嫌があまり麗しくないように思えた。

 しかし今日に限って言えば、怒らせるような事をした覚えはない。この間は腹に膝蹴りをかましてしまったけれど、あれはあくまでも防衛本能が働いたからであって、言わば正当防衛と言うものだ。

「じゃあ、時間制限つきで十二時までなら」

 ただ一方的に不機嫌になられても、こちらとしてはどうしようもない。やはりお互いを理解し合うには話し合いが一番だろう。

 保健医は腕の時計をちらりと確認し、こっくりと頷いた。

「じゃあ、お茶でも淹れましょうか」

 途端にころりと穏やかな表情に変わり、鼻歌でも歌い出しそうな勢いでキッチンに入って行く。その後姿を見送りながら、腹が立つよりもむしろ半ば諦めの心境になっている。

 そうだ。この男はこういう奴だった。

 わたしはコートを脱いでソファに腰を下ろし、天井を仰いで溜息を吐いた。

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