第二話
「何、してるの?」
見上げた先に、呆れたような顔。
トルカは呑み込んだ息をゆっくりと吐き出して、笑った。
「久しぶり、リウ」
「久しぶり、トルカ」
リウは別段感慨もなさそうに答えると、促すように首を傾げた。
トルカは掌で葉書を押さえたまま、同じように首を傾げて見せる。
「何って、そうだなぁ。お仕事、とか?」
「何で疑問形?」
「リウだってお仕事中でしょ? あんまり詳しく話して捕まっちゃったら困るじゃん」
答えたトルカに、リウは納得したように「そっか」と頷く。
不正乗車の手引きか何かだと思ってくれたらしい。
それなら仕方ないけど、と摘発班らしからぬ一言の後。
「でも、走って逃げることないよね?」
「え?」
トルカは鞄に葉書を滑り込ませて、問い返した。
リウはそれを見咎めることなく、丁寧に同じ言葉を繰り返す。
不機嫌に見えるのは気のせいだろうか。
「……え、私だって気付いたの?」
「気付いたから、追いかけて来たんだけど」
何を当たり前のことを、とばかりにリウは眉を寄せた。
トルカは今日の自分の格好をさっと眺めて、リウを見上げる。
気付いたからか、そっか。いやいや。
トルカの沈黙に、リウははたと瞬く。
今更、少し驚いたような顔。
「……何か、君らしくない服着てるね」
「素直な感想ありがとー。完璧だと思ったのに、自信なくすなぁ」
リウに見られたのは後ろ姿だけのはず。
それでバレてるようじゃ、変装とはとても言えない。
「何で気付いたの?」
「…………なんとなく」
それは答えになっていない。
けれど本人もわかっていないのか、ばつが悪そうな表情をする。
別にリウが悪いわけじゃないのに。
「も、良いよ。巡回中じゃないの? さぼってちゃマズくない?」
「さぼってはいない。怪しい人には積極的に声をかけろって言われたし」
「そー。仕事熱心なことですね」
トルカがぐぅっと伸びをすると、リウはすっと辺りを見てから「まだ連絡はない?」と問う。
「まだ。そろそろあっても良いと思うけど」
測量士が「動きがある」と言ったのだから、嫌でもその日は来る。
ただ今のところは、彼からは勿論他からも危なそうな情報は入って来ていない。
危なそうな話は、あの葉書くらいだ。
「こっちも班長が色々調べてるみたいだけど……。『海竜』の件以外は、特に何も言われてない」
「うん」
トルカは短く相槌を打った。
『銀翼』が海上鉄道に協力しているという情報が漏れるとしたら、それはきっと海上鉄道側からだろう。
疑いたくはないけれど、リウの上司だってその意味では信頼し切れない。
危機が迫る今、『海竜』という不安要素を押さえるのに利用された可能性だって零じゃない。
情報提供者には、測量士がいる。
正直、海上鉄道はもう『銀翼』がいなくても困らないだろう。
「……私たち、戦力にはなんないもんね」
「『海竜』が何かしてくるとしても、トルカには関わらせたりしないけど?」
リウはトルカの真意を知らないまま、あっさりと答える。
万が一『海竜』が動くとしても、自分たちが対処する気でいるんだろう。
関わらせたりしない、か。
トルカは「じゃあ、お言葉に甘えようかな」と笑顔を作った。
電子音のメロディがホームに流れて、リウが視線を上げる。
その隙にベンチから立ち上がると、トルカは入って来た列車に駆け寄った。
赤い車体、ルビーだ。
「じゃあ、私もう行くね」
乗る予定はなかったけれど、思わずそう口にしていた。
リウも当然、トルカがこの列車を待っていたと思ったのだろう。
静かに、彼が頷く。
一瞬、途方もない不安に指先が震えた。
これから、あの『海竜』を相手にしなくてはならない。
「リウ」
音を立てて、列車の乗降口が開く。
降りて来る人の影に隠れて、トルカは「ホントはねー」と声を張った。
階段へと流れて行く乗客が、一瞬だけこちらを見る。
息苦しさに気が付かない振りをして、そのまま明るく続けた。
「すっごく暇だったから、リウに会いに来たの。元気してるかなーって」
それは半分だけ、きっと本当のことだった。
トルカはひょいとルビーに乗り込む。
振り返ると、リウは人を避けながらこちらに数歩近付く。
何だ、つまらない。
相変わらずの涼しげな顔に、トルカは意地悪く微笑む。
「ね、ちょっとは嬉しい?」
リウはまた呆れたような顔をした。
雨を含んだ風で、彼の髪が僅かに揺れる。
「別に、と言いたいところだけど、残念なことにそこそこ嬉しいかな」
予想とは、違う答え。
リウはトルカの顔を見て、苦笑した。
「それが本当なら、だけど」
「途中まで満点の回答だったのに。ホントって言ってるじゃん」
男の子って、良くわからない。
まあ、リウがこの手の冗談を言うとしたら、それは恐らくトルカのせいだろうけれど。
発車を告げるベルの音が、急かすように鳴り響く。
「じゃあ、気を付けて」
軽く手を挙げたリウに、トルカは手を振り返さなかった。
これで良い。
目の前で、乗降口が閉まった。
さっさと扉から離れて、ホームに背を向ける。
ぎしりと軋む音がして、ルビーが走り出した。
「……仮にも、私が、団長だもんね」
成り行きで母に押し付けられたそれを、背負って行くと決めたのは確かにトルカだ。
もう名前しか残っていないような状況ではあるけれど。
何の誇りもなく、歩いて来た訳じゃない。
リウに、関わらせたりはしない。
これは、『銀翼』の団長であるトルカが向き合うべきことだ。
「…………」
振り返ると、窓の外は灰色の空と海。
幾つもの雨粒が、震えながら硝子に線を引いた。




