6.もう私は、あなたのための『計算』はしない
ガルディナ帝国、皇城の温室――。
冬咲きの薔薇が、午後の柔らかな光の下で、静かに揺れていた。
エララは、紅茶のカップに視線を落としたまま、戻りを待っていた。
琥珀色の液体は、まだ仄かに、湯気を立てている。
扉が、ゆっくりと開いた。
「ただいま、エララ」
甘い、低い声。
顔を上げた彼女は、思わず息を呑んだ。
戻ってきたレオンハルトは、まるで散歩から帰ったかのように、軍服の襟元一つ乱れていなかった。
「お……お帰りなさいませ。お怪我は、ございませんか?」
「私が、誰に、傷を負わされると?」
彼は、楽しげに目を細めて、向かいの席に腰を下ろした。
「君のための紅茶が、冷めぬうちに終えてきた。約束通りだ」
(……約束通り、ですか)
エララの胸の奥が、きゅうと締めつけられる。
恐らく、それは「軽い掃除」などという生易しいものではなかったはずだ。
血の臭いも、戦闘の余韻も、彼は寸分も連れてこない。
すべてを、一人で、完璧に処理してきたのだ。
「……あの、レオンハルト様」
彼女は、震える声で切り出した。
「申し訳、ございません」
「ん? 何の話だ」
「私のせいで……あなた様のお手を、煩わせてしまいました」
エララは、深く頭を下げた。
「私さえ、エルディアにいなければ……あなた様が、危険な場所へ赴かれることも……」
言葉は、続かなかった。
代わりに、温かい掌が、彼女の頬に触れた。
ふっと顔を上げさせられる。
真紅の双眸が、間近にあった。
「エララ」
ぞっとするほど真摯な、低音。
「君は、何ひとつ、悪くない」
(……)
「あの男が君を捨てた瞬間から、君は誰の所有物でもない。あの男が君を侮辱した瞬間から、私は『そう判断した者』を排除する権利を得た」
彼の指が、エララの唇に、そっと触れる。
「君は、謝罪のために、その美しい唇を使うな」
「で、ですが……」
「いいか、エララ」
レオンハルトは、彼女の両手を、自身の大きな掌で包み込んだ。
「君はもう、他人の尻を拭うために、その力を使う必要はない」
エララの瞳が、揺れた。
「君を罵った男のために。君を空気のように扱った国のために。一秒たりとも、その演算を回す義務はない」
胸の奥で、何かが、ぱきりと音を立てた。
長年、自分を縛り続けてきた、見えない鎖。
その一本目が、今、はっきりと、断ち切られた。
「君自身の幸せのためだけに、生きろ」
その言葉が、彼女の身体の芯まで、染み込んでいく。
(……自分自身の、幸せ)
(私が、私自身のために、生きてもいい)
幼い頃から、誰にも告げられなかった言葉。
無能と罵られ、空気のように扱われた、十八年。
その全てを、温かく、優しく、全肯定する一言だった。
エララの瞳から、ぽろりと、涙が零れ落ちる。
(……ああ、そうですね)
(私には、もう、必要のない計算が、ありました)
彼女の脳裏で、ひっそりと稼働し続けていた、最後のサブルーチン。
それは『エルディア王国の崩壊速度の、僅かな緩和』。
追放されてなお、骨の髄まで染み込んだ「あの国を支えなければ」という強迫観念が、無意識下で続けていた、微弱な演算サポート。
完全崩壊までの、わずかな猶予を生む、最後の温情。
けれど、もう。
(不要、ですね)
エララは、静かに目を閉じた。
深層心理の最奥にある、その小さな演算プロセスに――彼女自身の明確な意思で、初めて「停止」のコマンドを書き込む。
パツン、と。
今度は、夜会の門を越えた時よりも、ずっと小さな、けれど決定的な音がした。
エルディア王国に伸びていた、最後の細い糸。
それが、彼女の側から、完全に「断たれた」。
(……はい)
エララは、目を開けた。
涙の雫が、頬を伝う。
けれど、その唇には、これまでにない、確かな微笑みが浮かんでいた。
「はい、レオンハルト様」
彼女の声に、もう、迷いはなかった。
「私の全ては、あなたと、帝国のために」
誓いの言葉だった。
それは、十八年の呪縛を破った、彼女自身の宣言でもあった。
レオンハルトの瞳が、深く、優しく、和らぐ。
彼は、そっとエララの額に、唇を寄せた。
「ありがとう、エララ。――愛している」
◇
同じ刻――エルディア王国、王城。
昼下がりの空気が、唐突に、ぐらりと揺れた。
「な、なんだ……?」
「地震、か……?」
文官たちが、不安げに天井を仰ぐ。
その視線の先で。
王城の象徴である、巨大な王家の尖塔が――。
ぴしり、と、根元から、悲鳴をあげた。
「に、逃げろぉッ!」
誰かが叫んだ瞬間、それは轟音と共に、訪れた。
数百年、王家の権威を象徴してきた、白亜の大尖塔。
そのすべてが、基礎の老朽化により、自重に耐えきれず、内側から崩落を始めた。
粉塵。
悲鳴。
崩れ落ちる魔石の雨。
逃げ惑う文官と侍女。
外周の回廊を、瓦礫の塊が薙ぎ倒していく。
王城前広場に、巨大な瓦礫の山が、もうもうと白い砂塵を上げて積み上がっていった。
崩壊の余韻の中、跪くように地に這いつくばった国王が、震える声で呟く。
「……何が、起こっておるのだ……我が国に、いったい、何が……」
誰も、答えられなかった。
その時、王都全域を覆う『絶対結界』のドームに、また新たな亀裂が、ピシリと走った。
まるで、糸で繋がれていたものが、ついに完全に「断たれた」かのように。




