第四話 呪いの利用は計画的に
人の心は移ろうもの
脆く、そして容易く隙間を作る
そこに、『呪い』はつけ込むのだ
三年間付き合っていた彼女に振られた。
スマホのメッセージ上に並ぶ文字列に告げられた別れの言葉は簡潔で、しかし、致命的に俺の心を抉るものであった。訳が分からない。彼女がそう決断するに至った理由にまるで心当たりがないのだから当然だ。しかし、男と女とでは物事の捉え方も、感じ方も違う。ひょっとしたら、俺が無意識に彼女を傷付けていたのではないかと思い、理由を尋ねてみたのだが、返ってきた言葉は『ごめんなさい』の一言だけ。
それは何に対しての謝罪なんだろうか。振ったことに罪悪感があるのだろうか。それとも、俺とこうして言葉を交わす行為に対して、続けたくないわ『ごめんなさい』という意味なんだろうか。そうだとしたら、中々に辛い現実だ。
納得できない。女々しいと言われるだろうが、俺はまだ彼女との関係を終わらせたくなかった。こちらに非がないなら他に好きな人ができたのではないか、そんな問いにも『ごめんなさい』の一点張り。ああ、なるほど。そうか、そういうことか。彼女は俺にもう興味がないのだ。別れ際の口論をするほどの情熱もない。彼女からの冷え切った対応にこちらへの無関心を感じ取る。
言いたいことは色々あったけど、どうにも暖簾に腕押しだ。このまま彼女、いや、元彼女との会話を続けることに虚しさを感じた。
スマホの電源を切る。明かりを落とした部屋に差し込む月明かりが惨めな俺を照らし出す。目を閉じてみても思い出される彼女との思い出。それは確かに楽しくて煌びやかな記憶だったはずなのに、今となっては俺を失意の底へ引きずり込む呪いのようだった。彼女に伝えてきた幾億もの感情が沈んでいく。この想いをどう掬い上げよう。この想いをどう救い上げよう。意識は微睡みに溶けてゆく。けれど、それはどこまでも息苦しくこの胸を締め付け続けるのだった。
息苦しさに目を覚ます。心臓が早い鼓動を刻んでいる。乱れる呼吸で体が酸素を求めていた。手汗が酷い。俺はこんなにも繊細な人間だったのかと笑い声が漏れる。けれど無理もないさ。昨晩振られたばかりなんだ。これくらい落ち込んでいないと、本当に好きだったのか疑わしくなってしまう。
そんな風に思っていたけれど、それが一週間も続いてしまえばさすがに自分の弱さに頭を抱えてしまう。
週末を迎えようという金曜の夜、呪いは解ける。
再び彼女から着信があったのだ。内容はよりを戻さないかというものだった。その言葉を受けて、再び掬い上げてみた感情は思ったよりもすんなりと馴染み、馬鹿みたいに喜んでしまった。輝きを取り戻した彼女との思い出が俺を失意から救い上げたのだ。
……と言ったのも束の間、週明けの早朝に再び振られた。土日の間にいったいどんな心境の変化があったのか。三年間も一緒にいた相手のことなのに、俺には彼女の気持ちがさっぱり掴めなかった。
人間という生き物は面白いもので、喜ぶにも悲しむにも体力を使うのだ。人生の最底辺と最高潮の気分を短期間で経験していた俺はもう再び振られたことに悲しむことも、怒ることもできなかった。ただ一言、『今までありがとう』なんて格好つけた言葉を放ち、鞄を片手に学校へと向かった。
心ここにあらずの状態では授業の内容など頭に入るはずもなく、気づけば昼休みを迎えていた。我に返ってあたりを見回してみれば、教室には自分の席で弁当を食べる寂しい奴しか残っておらず、大半の人間は友達と食堂なり中庭なりへと行ってしまっていた。いつもつるんでいた奴らはなんで俺に声をかけないんだとも思ったが、思い返してみれば声はかけられたような気がしなくもない。ただ俺が返事をしなかっただけだろう。
仕方がないので独り自分の席で食べることにする。お腹が膨れると、次第に体力を取り戻していき、そして思い出したように怒りがふつふつと湧き上がる。なんで俺が彼女にこんな振り回されなくてはならないのか。
憤りに任せ、俺はどうにか彼女に復讐できないかと考えた。呪いの様に俺を縛る彼女の存在を俺は頭の中から消し去りたかったのだ。
「……呪いか」
幾度となく彼女を形容してきたその言葉は何とも復讐には持ってこいの手段であった。
俺は別に彼女自身を不幸にしたいわけではない。いや、不幸になればそれはそれで目的は果たせるのだが、本意ではない。ただ、俺の中で決着を付けたいだけなのだ。そうなれば、呪いという手法は、俺の中の負の感情の捌け口として十分であるし、どうせ成功しないのだから彼女も不幸にはならない。何とも今の俺には都合のいいものであった。
そして、呪いとなれば話は早い。幸か不幸か、うちのクラスには腫れ物扱いを受けている女子がいる。その名もオカ子。オカルト女子でオカ子。何とも安直なネーミングセンスだが、蔑称とは分かり易くいほどいいのだ。
そいつに聞けば一発でちょうどいい復讐方法を教えてくれるだろう。
「おい、オカ子」
名を呼ぶと、オカ子は顔を上げ机の前に立つ俺を認めた。
「な、なに……?」
吃音交じりにオカ子は尋ねてくる。その血色の悪い顔に不気味さはあるものの、存外清潔にしているのか嫌悪感は抱かなかった。
「元カノに復讐したいんだけどさ、手頃な呪い方ってあるか」
その言葉にオカ子は濁った眼を見開き、口元を嬉しそうに歪める。
「じ、事情を聴いてもよかですか?」
「あ? そんなの必要か?」
「の、呪いと言っても種類があるし……」
こいつに……というか、こいつに限らず誰にも話したくはなかったのだが、俺から頼んでるわけだし、オカ子なら言いふらすこともできないだろうと結論付け経緯を話した。
「そ、それは酷い女ですね……」
オカ子は体を震わせ怒りを露わにする。他人である俺の不幸話をオカ子は真剣に聞いていたらしい。そうして共感が得られると、俺はなんだか嬉しくなって、オカ子の肩を叩く。
「だろ? だろうっ⁉ 酷いよな!」
「ふ、ふひっ。そ、そんな女とは別れて正解だったかも……」
「いや、まあ、それもそうなんだけど……」
歯切れが悪いのはまだ俺は心のどこかで彼女のことが好きなのかもしれない。後ろ髪を引くそれを断ち切るために今の俺には呪いという捌け口が必要なのだ。
「で、なんかないか。復讐にピッタリな呪いは」
「そ、それならやっぱり丑の刻参りがいいかも」
オカ子が提示してきた呪いは俺でも聞いたことのあるポピュラーなものだった。
「それってあれだろ? 夜中の三時くらいに藁人形に釘を打つ」
「そ、それで合ってる……。し、嫉妬心から相手を呪い殺した橋姫が発祥だから、ぴったりかなって」
橋姫っていうのは聞き覚えがないけれど、どうやら丑の刻参りは元来恋愛に関係する呪いだったらしい。
「なるほどな。じゃ、今夜どこに集合だ?」
「え? わ、私も行くの……?」
戸惑った様子を見せるオカ子。
「当然だろ。誰が藁人形とか準備するんだよ」
「え、えぇ……」
結果として、隣町にある自然公園に集まることになった。藁人形や五寸釘なんかは自分が用意するから、何でもいいから彼女の体の一部を持ってこいと言われた。体の一部と言われるとなんとも猟奇的に感じるが、髪の毛とかで十分らしい。それならそう言って欲しいものだが、そこはオカルト好きの拘りがあるんだろう。
部屋の中を探してみると、明らかに自分のものではない髪の毛が見つかった。長さから男ではないが、母親のくせ毛とも違う。そうなると、消去法で彼女のものだと分かる。俺はそれを財布に挟み、家を出た。
寝静まった夜の町はどこかいつもの景色と違って見える。人が、人の明かりが消えるだけで、世界はこんなに変わってしまう。
それは彼女にも言える。
三年という時間を共有した彼女は既に俺の世界に居て当たり前の存在になっていた。それが突然消えたのだ。違う世界に放り出された疎外感を受け、戸惑うのは当たり前だ。
夜風に当たって冷静になれば、呪いなんかに手を出そうとしているのも気の迷いなんだろうと思えなくもない。時間をかければ、彼女の居ない世界も馴染んでくるだろう。
「そうだな。丑の刻参りなんてやめるか」
「そ、それはダメですよ」
いつの間にか隣にいたオカ子の声に俺は驚きに声を上げてしまう。
「い、いつの間にいたんだよ」
「え、えっと。ず、ずっといました……よ?」
上も下も黒い装束に身を包んだオカ子はナチュラル迷彩服で闇に紛れており、気が付けないのも道理だった。
けれど、そんな真っ黒なオカ子の手にはその色彩を対にする真っ白な布が握られていた。
「なんだそれは」
「こ、これですか? こ、これは白装束といって、丑の刻参りの正装ですよ」
なるほど。よく見ればもう一方の手には藁人形、釘、槌、蝋燭などが顔を覗かせる底の浅い鞄が握られている。確かにオカ子は呪いの用意を持ってきたようで、ここまで来てやっぱり止めるというのは格好が付かないだろう。
俺はオカ子に促されるまま公園へと足を踏み入れる。鬱蒼と茂る樹木が光を遮れば、そこは呪いという言葉にぴったりな不気味さになる。本当は境内でやるらしいが、恋愛に関してはこの公園の方が曰く付きで適しているとオカ子が言っていたが、納得できる雰囲気に公園は満たされている。
オカ子がその足を止め、一本の木の方を見る。それは周りの木よりも貧相で弱々しく見える。幹に触れ、その皮の柔らかさを確かめると、オカ子はカバンを下ろし準備をし始める。しゃがみ込むオカ子に手招きされ近づくと、その手に持つ白装束と手袋を渡された。なんで手袋なんかいるのかと思ったが、木槌で怪我をしないようにという気遣いらしい。俺が手袋をはめていると、オカ子は思い出したように口を開いた。
「あ、そ、そうだ。今更なんですけど、そ、その元カノさんってどんな人なんですか?」
その問いかけに俺はスマホを取り出した。地味にスマホ対応の手袋だったらしく俺は画面に彼女の写真を映した。振られた時にほとんどの写真は消したけれど、一枚だけ消せずに残していた写真があったのだ。
「こんな奴だよ」
そう言ってオカ子にスマホを放り渡す。オカ子はそれを上手に受け取ると、画面に視線を向け首を傾げた。
「な、なんだか、思っていたより……」
「大人しそうに見えるだろ?」
その写真は付き合ってから初めてデートに出かけた時に撮ったものだ。あの頃はまだ二人ともぎこちなくはあったものの、心から好き合っていたと思う。時が経つにつれて、変わっていった彼女。それに合わせるように変われなかったから、心が離れてしまったのかもしれない。
彼女の髪の毛をオカ子が藁人形の中に入れると、準備は整う。頭の上で燃える蝋燭は少し怖いが、形が整うとなんだか楽しくなってくる。右手に木槌を持ち、左手の五寸釘を構える。そうして藁人形に打ち付けた釘は面白いように突き刺さった。病気で腐っているのか、幹の中は脆く、木片が地面に落ちていった。
木槌を打ち付けるたびに、内にあったやり場のない怒りが吐きだされるのを感じた。それは罪悪感よりも快楽が上回り、俺を高揚させる。途中、あまりの高ぶりに木槌が五寸釘ではなく、藁人形の左手を打ち付けた時もあった。木片が飛散する様が揺れる蝋燭の比に照らされどことなく不気味に見える。
公園に鈍い音が響く。
こうして、呪いは執行された。
彼女に報いたという満足感を覚え、俺は一つ伸びをしてみる。軽くなった体はどこまでも明日を見据えており、石のように重かった足も今は前に歩き出せるような実感があった。
「いやあ、やってよかったわ。サンキュー」
後片付けをするオカ子に感謝を伝える。それが嬉しかったのか、オカ子に似合わない良い笑顔を見せた。
「そ、それならよかった。あ、で、でも、これ一週間やらないと効果がないんですけど……」
「いや、流石にそれはいいわ」
そう答えると、オカ子は残念そうな顔をする。オカルト好きとしては最後までやってこそなんだろうが、俺はこれ以上あいつにぶつける怒りを自分の中に見出すことはできなかった。それに元々彼女をどうこうしたかったわけではないのだから、ここらが潮時なんだ。
オカ子と別れ、家路につく。
別れ際、オカ子は俺に一つ忠告をしてきた。
『も、もう彼女の裏アカは、み、見ない方が良いですよ』
それは彼女のSNSのことを言っていた。確かに俺は付き合っていた頃に見つけた彼女の裏アカを監視していたが、どうしてオカ子がそのことを知っているのか。その問いに対する答えは簡単だった。スマホを渡した時に彼女の裏アカの通知が来たからだそうだ。
目ざとい奴だと思いながらも、言われなくてもそうするつもりだったので余計なお世話だと小突いておいた。
明日から再び日常に戻る。いつもと同じ朝を迎え、いつもと同じように学校へ行く。いつもの面子といつもの馬鹿話……。ただ一つ違うのは夜の着信が一つ減るだけ。小さな違いに大きく変わる日常。けれどそれにも慣れるだろう。
ベッドに横になり、微睡みに堕ちる。今日は久しぶりに安眠できそうだ。
とあるSNSにて。
『つき合ってた彼氏と別れたって妹に行ったら『お疲れ様』っていわれてじわるw』
『二人でいるとすっごいドキドキする』
『なんか先輩ってかっこいいだけじゃないんだよね』
『あの人といると満たされるんだねー』
人の気持ちというものは移ろいやすいものだ。彼女が俺から他の誰かへと想いを移していったように、俺が彼女へ向けた呪いのことも忘れ、今までと違う世界で今までと変わらない日常を謳歌していた。
そんな平穏な一週間は一本の電話によって崩れ去った。
寝ていた俺はその着信音に叩き起こされる。スマホを手に取ると、まだ日付が変わって数時間しかたっていない。こんな時間に電話をしてくるなんて、無礼な奴だなと思いつつ俺はスマホの画面に映った電話番号を見る。そこに示された数字の並びに見覚えはなかった。しかし、どうしてか嫌な予感がした俺は通話ボタンを押し電話に出る。
「もしもし」
スピーカーの奥には聞きなれぬ声。しかし、名乗られた『清藤』という名字に、声の主が彼女の父親だということが分かった。
『実は、娘が行方不明なんだ』
「えっ」
話によると、今日……というか昨日なんだけど、彼女は学校から帰宅した後、誰かからの呼び出しに応え家を出ていったらしい。しかし、それから彼女は家に戻っておらず、連絡しても電話にすら出ない状況らしい。
それで、娘の部屋にあった彼氏と思われる俺の番号に電話してきたらしい。
まだ彼女の部屋に残っていた自分の痕跡を少し嬉しく思ってしまうも、もう終わったことだと頭を振ってその感情を追いだす。
「分かりました。俺も心当たりのある場所を探してみます」
協力を申し出てしまったのは少し引っかかる所があったからだ。
それは丑の刻参りをしたあの日から、今日がちょうど七日目であるという事実だ。
とあるSNSにて。
『ばいと帰りに公園通ったら変な子おったw』
『わすれものしたから戻ったらまだたあの子いたwあの木になんかあるのかな?』
『ろくでなしじゃないしwちゃんと別れてから付き合ったしw』
『のんびりしてたら先輩から公園に来てって言われたけど、なんだろ??』
寝間着から着替えた俺は彼女が行きそうな場所を見て回った。駅前のコンビニや漫喫なんかも探してみたが、彼女を見た人はいなかった。
彼女は誰かに呼び出された……それが誰なのかの予想は大体付く。
彼女は隣町の学校に通っていた。そこに居るサッカー部の一個上の先輩と付き合い始めたらしい。直接現場を見たわけではないが、向こうの学校の友達から聞いたので確実だろう。不思議とそれに怒りは湧かなかった。ただ、『ああ、なるほど』と納得しただけだった。
そんなわけで、彼女はその先輩に呼び出されたのだろうと俺は考えた。けれど、先輩の連絡先を知っているわけでもなく、先輩が呼び出しそうな場所に心当たりもなく、結局何も進展はしないわけだ。
「……」
いや、心当たりがないわけではない。というか、意図的に思いつかないようにしている場所がある。それはあの自然公園、俺が彼女へ呪いを執行したあの場所。
唾を飲み込む。鼓動が早まる。まったく無駄な焦りが俺の中に満たされていく。当然だ。たかが丑の刻参りだ。それも最初の一日しかやっていない。七日続けることによって完遂される呪いの一端を背負っただけで、どうして彼女に呪いが届くのか。
「ははは、馬鹿らしい」
「な、なにがですか?」
突然かけられる声に心臓が跳ねる。既視感のある光景にオカ子がいた。
「お、お前かよ……」
そう言って胸を撫で下ろすはずが、むしろこいつが今この時間に会いたくない人物の筆頭であることに気付く。オカ子の手にはあの日と同じものが握られていた。
「おい」
「は、はい?」
「お前、今まで何してたんだ」
そう問いかけると、オカ子はどうしてか嬉しそうに口角を上げる。
「あ、あの日の続きをやってたんです。きょ、今日でようやく終わりましたよ」
オカ子はそれを褒めてもらおうと思ったのだろう。どこか期待した眼差しを向けてくるも、俺は血の気が引いていくのを感じた。
「お、お前っ!」
そう言ってオカ子の肩を掴む。
「え、えっ」
自分が責められていることに動揺し、オカ子は瞳に涙を滲ませる。それを見て、俺は我に返る。オカ子を責めてもどうにもならない。それに彼女の行方不明が呪いの所為だというのも少し強引な気がする。真っ先に疑うべきはサッカー部の先輩なのだから。
「すまん。ちょっと、どうかしてたぜ」
「な、何かあったんですか?」
事情を説明するべきか迷ったが、人手は多いにこしたことはないだろう
「実は、その彼女が昨日から行方不明なんだよ」
「え、そ、それは心配ですね」
慌てる様子を見せた後、自分が手に持つ道具に視線を落とした。
「も、もしかして……」
「いや、そんな馬鹿なことあるわけないだろ」
オカ子の言葉を遮る。すると、オカ子は何かを思いついたように口を開いた。
「そ、そうだ。呪いじゃないんですけど、あの自然公園の近くって、ゆ、行方不明者が多いらしいんです。も、もしかしたら、そこで何かに巻き込まれたのかも」
「……なるほど。公園に行けば、何か手掛かりがあるかもしれないってことか」
それにオカ子が頷くと、俺は駆け出した。後ろに続く足音は存外軽快で、どこか俺は追われているような錯覚に襲われた。
公園の入り口に辿り着くと、俺は乱れた呼吸を整えるために少し立ち止まる。後ろから迫るオカ子は俺を追い越し、公園の中に見える人影の元へ駆け寄った。
「す、すいません。あ、あの、茶髪でショートカットの女の子を見ませんでしたか?」
オカ子の問いかけに人影は頭を振る。オカ子は礼を言って俺の元へ戻ってくる。
「み、見てないそうです」
「そうか……」
「け、けど、あの人が公園の奥まで行ったとは限りませんし、ほ、ほら、あの池の向こうとかにいるかも……」
「そうだな」
息も整い、俺は再び歩き始めた。広い公園だ。さっきの人が見てないだけで、ここに彼女がいる可能性がないわけではない。
とあるSNSにて。
『をかしい……なんで私が振られなきゃなんないの⁉』
自分の目で見なければ、納得できないことがある。
例えば、彼女の気持ち。
スピーカー越しに語られる彼女の声では本当に俺のことが好きではなくなったのか分からなかった。俺に向けていた気持ちが変わったのか、俺に向けていた気持ちよりも優先される気持ちが生まれたのか、その違いすら分からない。
例えば、自分の気持ち。
自分の中にあるはずの感情は向けるべき対象がいなければ浮かんでこない。沈み切った心では引き上げようにも掻き分けるべき泥のような感情が多すぎる。
だから、直接目の前に彼女の姿を認めた時、自分の底に残っていたこの感情に涙が込み上げてきたのだろう。
「まじかよ……なんで……」
池の向こうに見えていた大木。樹齢何年かも計り知れないほどの木の枝に、不自然に垂らされた人工物。その先に括り付けられた『それ』に俺は慟哭する。
それの足元にはスマホが置かれていた。液晶が少しの光を放ち、画面に文字を映し出していた。そこにはメモ帳に遺書のような文章綴られていた。滲んだ視界に俺はそれに目を通す気にならなかった。
膝を付き、頭を垂れるだけの俺をそっと誰かの手が包む。
「……やめろよ」
誰かなんて一人しかいない。クラスの腫れ物に慰められるほど、俺は惨めじゃないはずだ。「い、いやなら、払ってもらって構わないんです。け、けど、今の貴方を放ってはおけないなって……」
「……」
頭では振り払おうと思うのに、弱った心がこいつを必要としていた。そんな自分に舌打ちをして、俺はオカ子に体重を預けた。
とあるSNSにて。
『人にしたことが巡り巡って自分に返って来た感じ……今度あいつに謝んなきゃなあ』
あの日以来学校には行っていない。カーテンを閉め、明かりもつけない部屋で一人ベッドに横たわる。ありきたりだが、ぽっかりと穴が開いたような空虚に苛まれ、俺は何もする気にならなかったのだ。
警察は彼女の死を自殺と断定した。スマホの液晶からは彼女の指紋しか検出されていない。故にあの遺書は彼女によって書かれたものであり、遺書があるなら自殺だろう。
遺書に書かれた理由は先輩に振られたからだそうだ。なんだよ。三年間の俺より、一週間の先輩の方があいつの中では大きいのかよ。そんな悪態も付きたくなるが、もうあいつはこの世にいない。
けれど、俺は知っている。あれは自殺なんかではない。左腕に見られた不自然な痣。それは、俺が誤って藁人形に木槌を打ち付けた部位と一致しているのだ。
そうだ。俺が殺したのだ。
確かに自殺のように思える彼女の死は、呪いによってなされたのだ。
俺が始めて、オカ子が成立させた丑の刻参り。
罪悪感に押しつぶされそうになって布団に包まる。
スマホの液晶に映る彼女と自分の楽しそうな写真。手元にあるはずの幸せが今は遠い。この頃の彼女は今と違いあまり目立たないタイプだった。それが、中学を卒業し別々の高校へ進んだ時に、彼女は髪を染めて俗に言う高校デビューを果たした。その頃からだろうか、彼女が変わり始めたのは。
「……あれ」
どこかに違和感を覚える。なんだ、どうしてだ。俺は何を危惧しているんだ。俺の呪いで彼女が死んだ。そうして終わった話なのに胸騒ぎがするのは何故だ。
『す、すいません。あ、あの、茶髪でショートカットの女の子を見ませんでしたか?』
あいつが公園で彼女を探していた時に放った言葉。どこも変なところはない。オカ子はただ彼女の特徴を端的に伝えて……。
「なんであいつ、髪を染めてること知ってるんだ」
俺が彼女に見せた写真はまだ染める前の黒髪だった頃の彼女だ。髪型は予想できても、髪の色までは分かるはずがない。
一度気づいてしまえば、その違和感はどこまでも膨れ上がる。疑いだせばあいつの全てが不審に思えてしまう。けれども、彼女と無関係だったオカ子が動機を見つけるタイミングは最初の丑の刻参りの時しかない。
『も、もう彼女の裏アカは、み、見ない方が良いですよ』
それは去り際の言葉。それは俺のことを案じての言葉のように聞こえる。けれど、懐疑心を抱けば、その言葉すら見られてはまずいものを隠すための弁に思えてくる。
手汗に湿る指で液晶に触れる。SNSのアプリを立ち上げると、付き合っていた頃に手に入れていたパスワードで彼女の裏アカにログインする。
そこに綴られたこの一週間の呟きを読むのはやはり辛いものがあった。特に先輩に向けられた彼女の言葉は俺を責めているようだった。
『人にしたことが巡り巡って自分に返って来た感じ……今度あいつに謝んなきゃなあ』
けれど、死ぬ間際の呟きには救いがあった。それは紛れもなく俺に向けられた言葉。しかも自分の行いを反省して、俺を気遣う言葉だった。
『今度謝らなきゃ』
その言葉は自ら命を絶つ者としては相応しくないものだった。
「やっぱりあいつが……」
疑惑が確信へと変わる。間違いなく、彼女の死は自殺なんかじゃない。あれはオカ子によって偽装された死だ。
スクロールしているとどこか引っかかるものがあった。最新の呟きから過去のものへ遡る中でひどく寒気がするのだ。その悪寒の理由に辿り着けない。何度も視線を動かす。すると、ようやくと自分が感じていた不安の正体に気づいた。
『人 にしたことが巡り巡って自分に返って来た感じ……今度あいつに謝んなきゃなあ』
『を かしい……なんで私が振られなきゃなんないの⁉』
『の んびりしてたら先輩から公園に来てって言われたけど、なんだろ??』
『ろ くでなしじゃないしwちゃんと別れてから付き合ったしw』
『わ すれものしたから戻ったらまだたあの子いたwあの木になんかあるのかな?』
『ば いと帰りに公園通ったら変な子おったw』
『あ の人といると満たされるんだねー』
『な んか先輩ってかっこいいだけじゃないんだよね』
『二 人でいるとすっごいドキドキする』
『つ き合ってた彼氏と別れたって妹に行ったら『お疲れ様』っていわれてじわるw』
「あ、ああっ!」
これは呪いだ。紛れもなく呪いだ。
やってくれた。オカ子の動機がようやくわかった。あいつはオカルトが好きなんだ。あいつは丑の刻参りを不完全な儀式で終わらせたくなかったんだ。だから殺した。だから自殺に見せかけた。呪いの成就偽装したかったんだ。
そうであれば次の標的は俺だ。逃げなければ。でもどこに。いや、大丈夫だ。オカ子は俺の家を知らない。
スマホを枕元に置き、カーテンを少し開け、外の様子を伺う。何もない。相変わらずの街並みに胸を撫で下した。
ピロン
スマホから通知音が鳴り、撫で下ろした胸は再び上がる。暗い部屋で唯一の光源が不気味に揺れる。スマホの上部に彼女の裏アカが呟きを投稿したことを示すバナーが現れる。
一体誰が……そんなことは考えるまでもないだろう。あいつだ、オカ子だ。
俺は怒りに任せて、バナーをタップし、最新の呟きを画面に表示させた。
三秒前
『見ない方が良いって言ったのに』
そこに、画像が添付された呟きが投下される。
怒りに燃えていた熱量は冷汗に変わる。それはたった今、リアルタイムで俺に対して呟かれた言葉だった。
添付された画像を見るのは恐ろしい。けれど、見なければ安心できない。
そうして、俺は震える指で画像を開いた。
けれど、それは一見すると何の変哲もないものだった。スマホのスクショ画像だろう。地図アプリが写されており、中央にピンが刺されている。その横にあいつ自身の位置情報だろう、GPSによって示された矢印がピンに向かっていた。
その画像の意味に気付くには数秒と掛からなかった。簡単なことだ。そのピンが示す場所、それこそが、あいつの知らないはずの『俺の家』だった。
絶叫が部屋に反響する。俺は窓からスマホを投げ捨て、布団に潜り込んだ。
大丈夫だ。この部屋にいればあいつは来ない。親もいるし、扉にも鍵が掛かってる。あいつに殺されることなんて……。
不意に風の音が聞こえた。カーテンが煽られると、部屋の中に月明かりが差し込んだ。
ああ、そうか。そう言えばそうだったな。俺が開けたんだった。
正面に影。
パチリと閃光が走り意識が途絶える。
最後に見えた少女の笑みに俺は呪いの完遂を確信したのだった。
人を呪わば穴二つ。
積もる想いに流されど、死する生には及ばざる。
余る願いを望むなら、足りぬ対価をくべましょう。
墓穴二つに収まる身なら、誰がその身を埋めましょう。
鬼は独り、ほくそ笑む。
「呪いの利用は計画的に」
あと一話で完結となります