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TREMPER

 この数週間のうちに、随分と店に慣れた。エメは、夜の営業を終えて作業台を片付けがら思う。

 サミュエルやダニをはじめとする先輩料理人達にも、一目置かれるようになり、初めは気の合わなかったアンドレとも、今や気心知れる間柄だ。

「エメ、穴ぐら行くだろ?」

 そのアンドレの言葉に、エメは首を振った。

「ごめん明日の用意があるから。また今度ね」

「仕事は明日休みだろう?」

 そう。明日はこの店の定休日だ。オドレイ様と会う予定の日。

「仕事以外の予定だってあるわよ」

 エメが言うと、アンドレは随分意外そうな顔をした。

「まさか恋人いるとか?」

「だったら?」

 見栄というか、面白くなくてそう答えたエメに、アンドレは慌てた様子だ。

「は、はあ? 聞いてねぇし!」

「言ってねえし」

 同僚に浮いた話があったのが、そんなにショックだったのだろうか。

 エメは「じゃ」と言って、まだまだ寒い夜の街に飛び出した。





 部屋に帰ると、兄も帰ってきた所のようだった。結局、兄は住み込みを諦めたのだ。私が諦めさせたと言った方が正しいかも。

「おお、おかえり。お疲れ様」

「うん。今帰り?」

「まぁな。今夜は忙しかったのか?」

 他愛もないことを話してはいるが、明日知ることになるだろう、何らかの真相を兄が恐れているのは分かった。

 兄には随分厳しく言ってしまった。聞きたくないことだったろうに。

 でも兄は私の頭を撫でるだけだった。憎まれ口はたたくけれども。

「明日は、一緒に行こう」

 ルネ兄は革靴の紐を緩めながら俯いて言った。

「お願いします。ていうかルネ兄いないと道分かんないしね」

「それもそうか」

 私は兄の表情をあまり見ないようにして、台所に立った。

 材料を並べて、遠い昔にオドレイ様と遊んだ原っぱを思い出す。

 急に開けた森の真ん中で、オドレイ様はその年の女の子とは思えないほど大人っぽく、ルネとガスパール様を諭していたっけ……。

「何作るんだ?」

 兄の言葉に、私はうなった。

「オドレイ様を元気づけられそうなもの、だと思う」

「頼りねえなぁ」

 そう顔をゆがめた兄に、私はにやりと笑いかけた。

「ルネ兄、手伝う?」

「え?」

「いいじゃん。一緒に作ろうよ」

 だって、私だけじゃ作れないよ。

 ルネ兄のバカみたいに純粋な想いが詰まってないと、きっと美味しくならないよ。

「全く、偉そうなくせに情けない妹持つと大変だよな!」

 私は、シャツの袖をまくる兄を小突き、その手に木べらを握らせた。







 侯爵様のお屋敷とは、こんなに大きなものなのか……。

「ノワ? おい、しっかりしろ」

 心配そうな兄の声に、我に返る。

「あ、ごめん。つい……」

「驚くのはまだ早いぞ。一歩中に入ってみろ。今のお前なら気絶もんだな」

「緊張感が足りなかった。気を付ける」

 ルネ兄の案内でたどり着いた侯爵の邸宅は、私の想像の先の先を行くもので、うっかり呆然としてしまった。

 実家のホテルと変わらぬ規模の屋敷が、こんな王都の側にあるなんて……。

「行くぞ。妹」

「はい。お兄様」

 そうして奇妙な兄妹は、花の妖精の心を救うために屋敷へと一歩踏み出した。






 あんなに単純に始まったのに、こんなに複雑になってしまう。恋ってやつは……。


「お久しぶりです、オドレイ様」

 妹が丁寧にお辞儀するのを見て、オドレイ様が久しぶりに柔らかな表情を見せる。

「まぁ! もしかしなくても、エメちゃんね! 昔と全然変わらないわ!」

 幼い頃と全然変わらないと言われて、本人は複雑な心中だろうが、オドレイ様は本当に嬉しそうだった。

「オドレイ様は更にお美しくなられて」

「エメちゃんったら。お上手ね」

 ふふふ、と笑いながら、彼女は妹に席を勧める。

 妹は腰かけると、俺にちらりと合図した。退出の合図だ。

 俺は言われるがままに、静かに部屋を後にする。


「妹君は何の用が?」


 部屋を出たところで待ち構えていたのは、アルフレッド様だった。

 その目は厳しく、警戒を隠そうともしていなかった。

 妹を疑う彼に、俺は気分が悪かったが、これからのことを思えばそれも仕方がない。

「新作の菓子を、ぜひお嬢様に召し上がっていただきたいと」

「ほう……」

 俺たちがそうやって静かに睨み合っている所に、どうしてか意外な人物がやって来た。

 記憶の彼よりも数段凛々しくなっているが、それは確かにガスパール様だった。


「おう、久しぶりだな。ルネ」


 十数年ぶりに顔を合わせる俺に、そうやって気安く声をかけてくれるガスパール様。

 彼は俺の脇に立つアルフレッド様を見ると、にたりと笑った。

「兄さん、久しぶりだね。最近僕も忙しくてさ。誰かさんが余計なことばかりするもんだから」

 ガスパール様はこんな風に兄に向って強気に話せる人物だったろうか。

 いや、変わったのだな。オドレイ様の言葉で自信を取り戻した日から。

「お前……」

「それで、エメちゃん来てるんだって? 懐かしいなぁ。あの子ちっちゃいくせに人一倍勘が鋭かったもんね」

 ガスパール様の言葉に、つい顔がゆがむ。

「分かってるんでしょ?」

 彼は隠すことなくそう言った。

 俺は何も言い返せなかったが、それが答えになったらしい。

「何の話だ」

 アルフレッド様の眼光が更に鋭いものになり、俺は内心びっくびくだが、やはりガスパール様は強気だった。

「僕らの妹の幸福の話」

 嫌な言い方をしたガスパール様は、それまでの飄々とした態度を少し崩して、兄であるアルフレッド様のことを睨みつけた。

「いや、一人のオドレイという女性の幸福について、僕らは話をしているんだ」

 扉一つ隔てた向こうで、オドレイ様とノワーが何の話をしているかは分からない。

 しかし、今俺が身を置くこの場所では、とても殺伐とした空気が流れていた。





「それで、エメちゃん」

 微笑んだまま、オドレイ様が言う。コトン、と音を立ててティーカップが置かれた。

「今日は何の御用?」

 私は手にしていた袋から、菓子の箱を取り出し、彼女の前に差し出した。

「ちょっと、食べてもらいたいものがあって」




 

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