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序章の山羊

 瞼を上げると、茜色の空が視界に飛び込んできた。どうやら、向こうでの数時間は、こちらでの数分程度らしい。

「戻ったか」

 ルシオンは視界の端からこちらを覗き込んできた。茜色の空にマゼンタの輝きが混ざり、神秘的な輝きを感じる。

「面白い人だね。ルシオンの友達って」

 面白い人間だった。なんて言わなかったことに、バベルは安堵した。

 フレイに亜人だと言われたことは、正直まだ胸に深く刺さっている。しかしガストンと会えた。これがとても大きかった。

「あれ? ハーゲンティは?」

 木造の全身鎧の姿をした友の姿が見えない。もう森に帰ってしまったのだろうか。

「あの子なら」ルシオンが指差した。中央広場の一画、粉砕された噴水の近くだった。「あそこだ」 

「あれは、何してるの?」

 見ていればわかる。ルシオンはそう言ったが、両腕を地面に突き刺し屈んでいるだけだ。その行動の意味は一切わからなかった。

 地面に突いた手を離すまで、どれだけかかっただろうか。ようやく動いたハーゲンティは、こちらへと振り返った。

「あれ?」

 こちらに近づくハーゲンティの頭部が変わっていた。細く伸びた蔓が捻れてできた首の上に置かれていたのは、樹皮を顔の正面に残した木の幹だった。顔の側面から後ろにかけては赤みがかった木目が緩やかな流線を描き頭部だとわかる卵形を取り、正面の緑黒色の樹皮には、見覚えのある三本の線が縦に入り、左が新緑、真ん中の線から金色。そして、右の線からは空色の光が溢れ出ていた。

 胴体も、少し逞しくなっただろうか。両腕両足の根が太くなり、身長も伸びたようだ。

「少し見ないうちに、随分変わったね」

「バル、戻ったか」

 話し方もほとんど人間のそれに近くなっていた。しかし呼び名はそのままだ。ニックネームのように使っているのだろうか。

「今度は何を取り込んだの?」

 指で自分の顔を突つくバベルの真似をして、ハーゲンティも樹皮のお面を根の指の一本で突いた。

「母の肉体を取り込んだ」

「母? それってフラクシスのこと?」

 しかし、フラクシスはアイザックと冒険者区画の工房に持って行かれてしまったはずだ。

「……盗んで来たの?」さっきのだろうか。

「いや、先の英雄が使っていた大盾だ。あれにはフラクシスの樹皮が使われていた」

 ルシオンの説明に合点がいった。戦闘中にそれを無意識に感じていたのだろう。だから、盾を見て怒りが込み上げてきたのだ。

「そっか。それじゃあ、さっきのは何をしてたの?」

 さっきの? と首を傾げるハーゲンティに、バベルが腕を地面に伸ばす仕草をして見せると理解したのか、首を戻して一つ頷いた。

「周囲を探っていた。冒険者が来るかもしれないからな」

「あぁ。誰かいた?」

 首を横に振り「誰も」と言ったハーゲンティはそのまま、じっとこちらを見下ろしてきた。

「ん? 何?」

「一体だけ。魔物がこっちに向かっている」

 向かってくる魔物。その正体を、バベルは薄々感づいていた。

「バベル」ルシオンが一歩こちらに近づく。その両手には、両手斧と片手直剣が握られていた。「こちらは返そう」

 ルシオンがこちらに向けたのは、グリッドの魔法武器『アトランデ』だった。

「……うん、ありがとう」

 剣を受け取ったバベルは、この剣の重みは一生忘れないと心に刻んだ。

 一人の英雄が気にかけてくれた。友になろうと接してくれた。その優しさを、今のバベルは理解することができた。

「水棲剣アトランティア。空気中の水を自在に操る事ができる魔法武器だ」

 剣を掲げるバベルに、ルシオンは真銘を伝えた。

「やっぱり。アトランデじゃなかったんだ」

 青い宝石を眺めつつ、バベルは苦笑する。

「魔族が作った物だ。どこかしらで許容できないものがあったのだろう」

 ルシオンの言わんとしていることは、バベルにも理解できた。しかしそれは、随分と幼稚な反抗だと言える。

「来た」

 ハーゲンティの声に、バベルもそちらを向く。その正体が誰なのかはとっくに気づいていた。

 街の中の喧騒もだいぶ落ち着いている。バベルの聴覚で捉えた足音は、森の中で二回も聞いたもので、確かにそれはガストンの言う通り、バベルにとっての『始まり』だった。

「僕に用事だ。ハーゲンティ。持っていてくれ」

 ハーゲンティの脇を通り抜け、バベルは水棲剣あとランティアをハーゲンティに預ける。代わりに、足元で共に寝かされていた赤黒い大剣に手を伸ばす。

 英雄の心臓を貫いた大剣は、タンゴが握っていた時の記憶と比べると幾分かくたびれ、風化して見えた。所々に入っていたヒビの数も増えているのではなかろうか。

「グギャバオゥ!」

 足音の主が、茜色に染まった空を震わせる咆哮を上げる。バベルの体内に収まる内臓が揺れた。

「生きてたんだな、ミルミクス」

 人間と山羊を合わせた異形の姿がそこにはあった。高さ二メートルを超える筋肉質な巨体。蹄を打ち鳴らす二本の後ろ足。上半身から伸びる筋肉質な腕についた手は左右非対称で、左手は人間に近い形をしているが、親指以外の指はなく、本来指が生えている場所からは後ろ足と同じ二股に裂かれた形の蹄が生えていた。反対の右手は大きな蹄に隠れて見えにくいが、干からびた人間の手が内側から生え、冒険者が持つ両手斧を片手で軽々と握りしめていた。

 そんな化け物じみた胴体の上に乗っているのは、捻れた一対の角を生やした山羊の頭だ。

 見れば、胸と右太ももには赤黒い線が残っている。あの時、バベルとタンゴが切りつけた痕だ。傷自体は塞がっているものの、その乾いたような肉が剥き出しになっていた。

「グゲバグワォ!」

 向こうも再三の再会に歓び震えているのか、雄叫びを上げる。臓腑をひっくり返すほどの声量に、バベルは自然と笑みを浮かべていた。

「お前との決着は、付けなきゃだよな」

 タンゴの大剣を正面に構えたバベルは、アルマの中で行った鍛錬を思い出す。ガストンとフレイから教わった戦術の中に、大剣も含まれていた。

(大丈夫、闘える)

 バベルの戦意の炎に、ミルミクスは全身の体毛を震わせてそれに応える構えを見せた。

「ギュゲ!」

「行くぞっ!」

 大剣を握る手に力を込め、バベルは低姿勢で突進する。

『バベル、お前は力に頼った戦い方より、速度による手数で勝負した方が強い。正直、体験よりも片手直剣や、短剣、ナイフの方が合っておる』

 ガストンの言葉だ。

「はぁあ!」

 茜の空の下で、赤黒の軌跡が鉛色の壁にぶつかり大きな花を咲かせた。次いで飛び散る火の花が、金属音を辺りに響かせてはその花弁を中空に散らす。

「グゴギャ!」

 鈍く光る斧の刃が、タンゴの大剣にぶつかりその身を削る。両手斧を右手のみで振るミルミクスの怪力には驚いたが、バベルにはもう一つ驚くことがあった。

 ミルミクスの持つ斧に見覚えがあった。使い込まれたその斧には細かな傷がいくつも見られるが、丁寧に手入れをしていたであろう輝きを放つその一振りは、前回森に行った時に見た冒険者の持ち物だったはずだ。

「——!」

 次の瞬間、バベルは地面を転がっていた。

(速い。わかってはいたけど、魔物(むこう)からすれば、亜人(こっち)の動きなんて見てから対処できるくらい遅いんだろ)

 追撃が来る。すぐに立て直せ。脳が発する警告に従い、地面を転がす速度を落として素早く立ち上がる。と、ミルミクスの横に伸びた瞳孔が、バベルの視線と絡み合った。

 バベルを転がしたであろう左腕を前に突き出した姿勢で、その場に留まっている。追撃は無い。

 本気で殺す気つもりなら、この瞬間は必要のないものだ。

(お前は何を考えてんだ?)

 そんな疑問はすぐに吹き飛んだ。理解できた。できてしまった。

 楽しい。心の底から這い出て来る獣が口角を吊り上げ、体に巻き付いてくる。毛むくじゃらのその足で握り締めてくる心臓が、バクバクと早鐘を打つ。頭の中が真っ白になり、心地良さが春風の如く舞い込んでくる。

「ッ! 違うっ!」

 頭を振り、バベルは目を覚ます。未だ獣はバベルの体にその身を巻きつけているが、バベルの脳ははっきりと人間の思考へと持ち替えた。

 本能に引っ張られる。闘争を望む獣の痕が、頭の内側で疼く。

「僕は、確かに人間じゃないのかもしれない。でも、本能で動く獣になるつもりはない」

 殺し合いに楽しさなど必要ない。必要なのは、相手を敬う気持ちと、その命を奪ってでも明日を生きる覚悟だけだ。

 かつて、ガストンがそうしたように。フレイが教えてくれたように。

 ミルミクスは、変わらずそこにいる。こちらをじっと見つめて動かない。

 待っているんだ。命震える、全てを出し尽くせるその瞬間を。

 目の前の魔物にかけられた魔法は、とっくに解けたと思っていた。が、どうやらそうではなかったらしい。だからこそ、フレイもガストンも向き合うよう言ってきたのだ。胸の奥底に突き刺さった錆だらけの釘を引き抜くために。

「すぅー……ふっ!」

 バベルは、一呼吸でミルミクスの懐へと飛び込んだ。タンゴのように鍛えていれば、もっと早く走れただろう。ガストンのように経験を積んでいれば、もっと鋭く突き出せただろう。

「くっ!」

(駄目だ、対応される)

 前へと突き出した大剣の切先は、ミルミクスが横に振る斧の刃の上を滑り、方向を無理やり変えられてしまった。

 互いの眼前で交差する得物を振り抜いた一人と一体は、その場で体を捻り、得物の刃を相手に向けて振る。

 火花を散らしてぶつかる大剣と斧のその外側で、二対の瞳がそれぞれ敬意と快楽を込めてぶつかり合う。

(力で押し負ける)

 どれだけ踏ん張っても、腕を伸ばそうとも、ミルミクスは微動だにしない。斧を構えたその向こうで目を細めている。

「ゲギャ」

 ミルミクスが短く唸る。

 分かっている。ミルミクスの中ではこの程度、全てを出し切れるものではない。遊びにすらならない攻撃に、呆れているのだろう。

「ぐぁ、だぁあ!」

 バベルは剣を斜めに構え直した。力で負けていても、それを補う技術をフレイから教わっている。

 刃を斜めに構え、斧の腹を滑る大剣の下に自身を滑り込ませ、バベルは体を大きく回転させた。入り込んだのはミルミクスの右脇の下。大剣が体の回転に追従して、その刃が綺麗な弧を描く。

 一瞬の隙、斧と右腕に遮られた一点に体を捩じ込んだバベルは、大剣を大きく振り上げた。

 眼前に血飛沫が広がる。それらを顔にあたるよりも先に左腕で受け止めながら、バベルはさらに追撃を加えようと片手で大剣の柄を握り、体を倒した。

 振り上げた力で体を回転させて、ミルミクスの背後へと回る。

 アルマでは簡単には殺せない。どれだけ鋭くとも、ミルミクスの分厚い筋肉を切り裂き切断するには、長さが足りない。だからこそ、タンゴの大剣を拾ったのだ。

 背後に回ったバベルは、生物が共通して持つ弱点がある中空へと視線を向けた。頸、もしくは心臓。しかしどちらも狙うのが難しい。その原因は背の高さもそうなのだが、硬い毛皮に覆われているのも理由の一つだ。

 アルマや大剣の切れ味ならば突破できる鎧だが、貫きその内側に辿り着くその一瞬、ミルミクスが大人しくしてくれるはずがない。

「はぁあ!」

 バベルは地面を蹴り空へと飛び出すと、ミルミクスのう頸に狙いをつけた。

 脳からの命令を送る唯一の道を断ち切る。重力と質量を掛け合わせた威力で断ち切れば、反撃の隙もないだろう。

 バベルの取った選択は、ミルミクスの中では異例のことだった。正面からその爪や牙を突き立てる魔物や貧弱な冒険者では、そもそもその強靭な肉体に傷をつけることも叶わなかった。だからこそミルミクスは、地震に傷をつけることができるバベルを脅威だと感じていた。自身の鎧を易々と裂くこちができる刃は、確実に心の臓に届くと考えていた。

「ゴゲギャバグゥ!」

 首に触れるかどうかにまで迫った大剣が、空を切る。

「くっ!」

 警戒していたミルミクスはバベルの行動を先読みし、その巨躯を折り曲げ、バベルの攻撃を避けた。

(反撃が来る。速く立て直せ)

 膝を折って姿勢を低くしたミルミクスの目と、焦りをにじませたバベルの瞳が交差する。

「ゴギャア!」

「ぐっあぁあああああ!」

 叫び声と共にバベルの脇腹を貫いたのは、螺旋を描き捻れた一本の角だった。角の螺旋に沿って、バベルの血がミルミクスの顔へと伝わる。

「ゴガァ!」

 バベルを刺したまま、ミルミクスは巨躯を伸ばして雄たけびを上げる。その声には怒りが含まれ、ミルミクスの胸中に抱える思いをバベルへと運んだ。

 茜の空に持ち上げられたバベルは、角を掴み脇腹からの痛みに耐える。寸での所で身を捩ったが、完全には避けられなかった。しかし、心臓を貫かれていないだけマシだ。まだ体は動く。

「だぁ!」

 タンゴの大剣を振り上げ、腹に穴を開けた角の根本へ振り下ろす。不安定な空中、大量の出血、霞む視界の中で、バベルは渾身の一振りを出せた実感と奇妙な浮遊感を、風が通り抜けて行く脇腹で痛みと共に感じ取った。

 


「お前は強いんだから、冒険者向いてると思うけど?」

 真っ白な世界で、タンゴが一人腰を下ろしてこちらを見ていた。その顔は、いつもの親しい笑みを貼り付けていた。

「強くなんかないよ。今もこうして、気を失ってるんだから」

 戦闘中の気絶。下手すればこのまま死んでしまうが、あの魔物の望みからそれはないとバベルは思った。タンゴの隣に腰掛け、バベルは真っ白な空間を眺める。

「何もないな。死後の世界もこんな感じなのかな?」

 ハーゲンティに知らせたら、喜ぶだろうか。

「いや、分かってるんだろ? ここはお前の夢の中だ」

 脳が勝手に作ったタンゴの完成度は、相当高かった。本人が口にしそうな言葉を放ち、本人がしそうな仕草をする。

「タンゴはなんで、ウィリアムと戦ってたの?」

 答の帰ってこない質問をしていることはわかっている。ここは夢の中だ。自分で作ったタンゴは、自分の知っていることしか話せない。

「なぁバベル。お前はレインのこと、どう思ってたんだ?」

 やはり、答は帰ってこない。それどころか、よくわからない質問を返してきた。確かに昔のタンゴは、レインについて聞いて来ることが多々あった。がしかし、それは学生時代の話だ。今の見た目のタンゴは、その質問を口にしたことはなかったはずだ。

「どうって、別に何も無かったよ」

「本当かよ」

「本当だよ。好きではあったけど」

「やっぱ、あんじゃん」

「それはタンゴに向けてたものと同じだったよ」

「……あっそ」

 つまんねぇな。と呟いたタンゴの声を、バベルは聞き逃さなかった。

「そう言うタンゴはどうなんだよ。随分、勇者様といい雰囲気だったみたいだけど?」

 また帰ってこない質問をしてしまった。そう考えたバベルは、髪を雑に掻き乱し、立ち上がろうとした。

「どう、なんだろうな」視線を下に向けて、タンゴはそう呟いた。「でも、彼女の助けにはなりたいと思った……んだと思う」

 予想外の回答に、バベルは立ち上がる途中で動きを止めた。夢の中のタンゴが、自分に予期しないことを口にしたからだ。バベルは、元の位置にすとんと腰を落とした。

「あの子はさ」そう言って話し始めたタンゴの顔には、夢か現実かわからなくなる立体感があった。

「あの子は、自分を出せないんだと思う。勇者の使命とか、運命とか。そんな曖昧で形のない物に繋がれて、年頃の女の子らしい一面を押し殺しているみたいだった」

 それは知っている。祭りの中でタンゴと肩を並べていた彼女を見ていたから。やはり、このタンゴはただの記憶でしかない。一瞬戸惑ったが、こちらの知っていること以上は教えてはくれない。

「それだけだった。そう、思ってたんだけどな……」 

 目の前にいる友人の顔に影が差す。あまり見ない表情だ。少なくとも、バベルが知っている中では見たことがない落ち込み方をしていた。

 何を言えばいいのだろう。こんな時に友人にかける言葉を、バベルは知らない。ガストンからも教わらなかった。

 沈黙が二人の間に落ちる。周囲を取り巻く白色が、だんだんぼやけて霧になる。もう直ぐ戻る時間だ。

 何を言うかと悩んだ結果時間切れとは、人間力の足りなさにバベルは何度目かの無力感を感じた。

「彼女は被害者だ」

 タンゴの呟きが霧の中で反響する。

 とても悲しげで、とても寂しく聞こえるその声に、バベルは隣を見た。そこには誰もいない。これ以上ここにはいられないという事だ。

 バベルはゆったり立ち上がった。白霧の中で佇み、考える。一体、何の被害者だと言うのか。

 夢にしては現実味の強いタンゴだったが、ここでの記憶もすぐに消えるだろう。夢とは、儚く脆いものだ。

 白霧がバベルの体を包む。温かくも冷たくもない空気だが、乾燥した土埃を含んだ匂いが、現実の世界から流れ込んできていた。

 白霧が薄らぎ、向こう側から茜色の光がこちらに顔を覗かせた。

——グガァガグゴォ……。

 茜に染まる向こう側から、鳴き声が聞こえる。とても苦しそうだ。

「……行かなきゃ」

 白霧をかき分け、バベルは走る。まだ互いの願いを叶えていない戦場が残っている。

 

 

 目を覚まして目にしたのは、頭を押さえてよろめくミルミクスだった。左の蹄の生えた手で、右の角があった部分を抑えている。

「ググ、グゥ……」

 ギリギリと音を立てながら歯を食いしばり、その隙間から唸り声を漏らしていた。

「戻ったよ。ミルミクス」

 こちらの出血も酷い。英雄との戦闘でそもそも血を流していたのに、ここに来ての大打撃だ。

 頭がフラフラする。耳の奥でキーンと、虫が鳴いている。視界が時々白く消える。

「グググ、ゴガァ!」

 斧を振り上げ、ミルミクスは咆哮する。ここからは本気で殺しにくる。バベルの肌が、それを感じ取った。

 バベルはよろけながらも立ち上がり、心臓の音へと耳を傾ける。ドクン、ドクンと一定のリズムを刻む心臓は、まだ動き続けていた。体全体に、血を巡らせている。

「——ッ、来い!」

 意識を集中させたバベルは、脇腹に突き刺さったミルミクスの角を一息に引き抜くと、大剣を構え直した。

 ミルミクスがバベルの声に呼応して、その巨躯の輪郭を揺らす。

(使わずに勝つのが理想だ。でも、今の僕は弱い。だから)

 ミルミクスの入った世界に、バベルも侵入した。

 茜の空に浮かぶ雲が、その動きを遅くする。周囲で舞い上がる砂塵の渦が、ゆっくり螺旋を描く。中空を踊る砂の一粒まで視認できた。

 唯一、視界に映るミルミクスが、通常時以上の速度でこちらに斧を振り上げ迫りくる。

「はあぁあ!」

 こちらも大剣を振りかぶり肉薄する。ここからは、互いの体力がなくなるまで続く、出し惜しみ無しの消耗戦だ。

 赤黒と鉛の流線がぶつかっては、中空へと花を咲かせる。何度もぶつかり、その度にバベルが吹き飛ばされる。タンゴの大剣も、細かな傷やヒビを作っていた。

「くっそ!」

 バベルは地面から起き上がり、大剣を構え直した。

(力を込めろ。地面を駆けろ!)

 剣を振るいつつ、バベルは自分に念じる。タンゴのように力強く、ガストンのように鋭く、フレイのように素早く。

「ゴガァ!」

 上から振り下ろされた斧を、バベルは正面から受け止めた。

「ぐぅう——」

 上からの重圧に、バベルは片膝を突いた。鉛色の塊が、徐々にこちらへと近付く。

「グゴガォ!」

 バチンッ! と、耳の奥で何かが弾ける音が響いた。目の前に迫った斧に映ったバベルの顔は、瞳と耳から血を流していた。体がこれ以上は危険だと悲鳴を上げる。

「ぐぅぁあああ!」

 それでもバベルは力を込め、迫る鉄の塊を上へと跳ね上げた。

 黒く濁った赤が閃き、幾つもの点と流線を空に残す。その先で斧は色を失った茜の空に照らされ、その刃は上空を向いた。

 押し返した。押し返された。その事実が互いの脳を駆け巡るより前に、双方次の行動に移っていた。

 後ろにのけ反ったミルミクスは、左の蹄で薙ぎ払い牽制するが、バベルはそれを予見し大剣から手を離し、姿勢を低くして躱す。軽くなった体でミルミクスの左側面に回り込んだバベルは、腰に刺していた空色の短剣を引き抜きその脇腹にアルマの空刃を深々と差し込んだ。

「グガァォ——!」

 ミルミクスの悲鳴が近くと遠くで聞こえる。世界が彩りを取り戻し始めた。

「ぁぁぁあああ!」

 アルマの柄を握りしめ、バベルは上へと振り抜いた。と同時に、眼前に赤い傘が開かれた。アルマを振り上げたバベルには、そう見えた。

 アルマがつけた傷は確かに深い。肋骨も切断したし、内臓にも届いたかもしれない。故に、出血の量も多かった。眼前に広げられつつある血の傘を前に、バベルは動きを止めてしまった。

 ミルミクスの姿が見えなくなった。

「ゴァバグゴガォ!」

 自身の腹を裂いた者への礼儀だと言うように、ミルミクスは今までで一番大きな声を発し全身の毛を逆立てた。

 バベルの顔の左半分を隠した影が、そのままバベルの顔を撫で去った。

 顔の左側面から、骨の折れる音共に何か柔らかな物が潰れる音がバベルの脳に響き、ミルミクスとの距離を開けるように宙を舞った。

「グ、ゲゲゲゲ!」

 ミルミクスの笑い声が遠くに聞こえる。とても楽しそうだ。腹から血肉を溢しているとは思えない元気の良さだ。

 獣が鎌首をもたげ、バベルを見下ろした。

「わ、わかる……よ。楽、しいよな…………ナァア!」

 地面から顔を引き剥がし、左半分を失った視界で前方の敵を見据える。悲鳴よりも断末魔に近い声を体の節々から鳴らしながら、バベルは起き上がりミルミクスへ笑いかけた。

(左側が見えない。目を潰されたか)

 頭では冷静なバベルの胸が、怒りと興奮で膨れ上がるほど高鳴る。頭上から見下ろす獣も、バベルの鼓動に呼応するように笑みを深く彫り、バベルの頬に擦り寄った。

 右腕と両膝が震える。これ以上は無理だと、身体中が軋み叫んでいるようだ。だのに、止まらない。止められない。命を賭けた一瞬一秒が、バベルの中に心地の良い風を送ってくれる。

「ァァアアア! 痛ってぇナァ!」

 頬にすり寄っていた獣が、顔の左半分と重なる。すると、それまで塞がっていた左半分の視界がするりと晴れた。とても詳細に、とてもはっきりと崩壊した街並みを確認できた。まるで、別の眼球でも放り込まれたかのような妙な気分だ。

 依然、ゆっくり進む魔物の世界を眺めるバベルは、ふと額に手を当てた。

 (痛みが、引いてる……)

 額だけでなく、体全身の痛みが和らいでいる。興奮状態故ではない。

 分かっている。これ以上、人の道は踏み外せない。魔物の世界ですらギリギリの状態で、魔物の瞳と皮膚など、身体が受け止め切れない。この反動がいつ訪れるのか。怯えなければいけない場面だ。しかし、分かっていても、獣に引きずられる。毛むくじゃらな手足が離してくれない。バベルは道を外れ続ける。

 血塗れの顔に笑みを貼り付け、ミルミクスと十メートルの距離で向かい合う。互いに興奮しきった笑みを浮かべ、肩で息をする。口から溢れる熱気が空気に溶け込み、舞い上がる土煙を歪に踊らせた。

 視界は良好。頭もスッキリ晴れ渡っている。武者震の止まらない右腕を振り、バベルはミルミクスの横に伸びた瞳孔を直視する。

 語らなくともわかる。互いに生を実感している。この世界に生まれた意味を今、理解する。今日、この一瞬のために生きてきた。胸を張ってそう言えるだろう。

(………………違う)

 バベルは、ミルミクスを睨め付けた。笑みに形を変えた口を、歯を食いしばることで抑えつけた。

 ミルミクスの瞳に反射して、自身の体に纏わりつき不気味なほど裂けた口を広げる獣が、こちらをじっと見据えてその視線を外さない。

「僕は、お前にはならない」視線をミルミクスに戻す。「僕は、お前には取り込まれない」その瞳を通して、こちらを見る獣を見る。

「ソレガ、コタエカ」

 ミルミクスは笑みを引っ込め、少し残念そうに口元を下げて呻いた。

(わかる。わかるよ。お前の気持ちは……)

 しかし、それではいつか戻ることのできない一線を越えてしまう。バベルはそれに怯えて、故に踏みとどまろうとしていた。

「だからこそ、僕はお前を越える!」

「コイ! ボウケンシャ!」

 ミルミクスの雄叫びを聞きながら、バベルは脳内の魔物図鑑を開いた。そのページは、探す必要がないくらいくたびれていた。何度も何度も、開いた者がいたからだ。



<ミルミクス>

 山羊頭の二足歩行型の魔物。体長は二メートルを越え、中型魔物に分類されている。頭部は山羊だが肉食で、人間の肉を好んで食す。鳴き声に挑発魔法を含む個体も確認され、冒険者協会では推奨討伐階級『真級』に分類されている。

 ミルミクスは生まれて直ぐに自分の親を食い殺す。その理由は栄養補給だと考えられている。また、生まれながらに狩りの知識を持ち、自身の体躯より大きい者でも喰らいに行く獰猛さが確認されている。


<挑発魔法>

 周囲にいる魔物の注意を引き、格下であれば簡単な命令を送る事も出来る。



 昔刺し込まれた釘の正体を、バベルは知っていた。だからこそ、不可解だった。図鑑に書かれた内容では、魔法の効果を受けるのは魔物だけのように記され、タンゴは何ともなかった。それがますますバベルを混乱させた。

 亜人を人間とは認めない。冒険者協会の考えだ。今のバベルには、これが正しい考えだと声高々に言えた。亜人のバベルは、挑発魔法の適応内だった。

 背後の獣の正体も、今なら何となくわかる。自分の中に巣くった魔族の部分が、ミルミクスの魔法に触発され凶暴化しているのだろう。だから、二度目の邂逅で思考を乗っ取られた。格下だったから。そして今、胸に残る錆だらけの釘を頼りに、ミルミクスはこちらの居場所を把握しやって来た。

「生まれて直ぐに親を食い殺す。か」

 目の前にいる魔物は、孤独に見える。孤高であれば、どんなに良かっただろうとも思う。そうすれば、戦闘に生を見出すこともなかったのではないかと。しかしこれは、傲慢な考えだ。自分も本当の親を食ったかもしれない。その可能性があるが故に、目の前の魔物を重ねて考えている。ただそれだけだ。

「これで最後だ」

 心臓の音色が不安定になってきた。もう時期、魔物の世界から出て元の世界に戻る。だからその前に、この充実した戦場に幕を下ろす。

「コチラノスベテデ、オウジヨウ!」

 こちらの意図は通じている。ミルミクスも斧を捨て去り、腰を低く両腕を広げて構えた。こちらを正面に見据えるその目が、これで決めると語っていた。

 アルマを左手に放り構えるバベルと、蹄と手を広げるミルミクス。互いに視線を切らずに見つめ合う。

 互いに力を溜める。宴の最後に相応しい一撃を、目の前の好敵手に披露するために。

 二人の間を、ゆっくり土煙が横断して行く。形を一定に留めず絶えず変形を見せる土煙は、今のバベルの心臓にも似ていた。鼓動に合わせて血が巡る。あやふやな土煙のように、乱雑な勢いで流れて行く。そのあやふやが一際大きく胸を打ったその時、バベルもミルミクスも同時に地面を蹴った。

「——フッ!」

「ガァアアアア!」

 二人の距離は一瞬で縮まった。

 ミルミクスの両腕が眼前に迫る。蹄の鈍器のような先端が、バベルの命を奪おうと黒く閃き、バベルの胸部と頭部に狙いをつけた。

 対するバベルも、ミルミクスの動きを映す鏡のように、右腕を前へと突き出した。

 魔物の皮を被ったその腕でも、ミルミクスの蹄は止まらない。右掌に突き刺さった蹄が、バベルの右腕を引き裂き鮮血が宙を舞った。右腕を犠牲に、バベルはお返しにと、アルマをミルミクスの右掌に突き刺した。

「ぐぅううう——!」

「ゴァアアア——!」

 互いに声を上げながら、どちらも一歩も引かない。右腕の二の腕まで貫き裂いた蹄をその腕で受け止めたバベルは、左手のアルマの刃をミルミクスの胴体方向へと、捻り押し込む。それを押さえ込もうと、ミルミクスは右腕の筋肉を固め、アルマの進行を妨害する。

 どちらも一歩も動けない。互いの攻防に全神経を注ぎ、視線を切ることなく交わされる瞳の火花が狂い咲く。

 これは、ただ互いの力の押し付け合いだ。空刃を押し込み、ミルミクスの筋骨隆々の右腕を滑り切る。

(このまま振り抜く!)

 その思いで、バベルは全身に力を込める。対するミルミクスも、熱気を吐き出し左腕をバベルの胴へと近づけるため、バベルの右腕を切り裂き進める。その進行を完全に止めることはできない。何とか押さえつけてはいるが、確実にバベルの命を刈り取ろうと迫る。

 右手の中指と薬指の間から入った蹄が、縦に両断するように二の腕まで侵入している。これが終わって生き残ったとしても、右腕が以前通り動くかなど、もうわからない。そんな事を考えている暇も、今のバベルには無かった。

「ガァああああ!」

「グギャガアア!」

 互いの顔が触れ合う寸前の距離に縮まったバベルとミルミクスが、同時に咆哮する。それに呼応するように、互いの傷口が深く切り開かれ、地肌を見せる中央広場に大きな赤い水たまりを作った。

「アアァゴガァ!」

 ミルミクスの蹄が一段と深く入った瞬間、右腕から聞こえた骨の断末魔を最後に感覚が無くなった。

 ミルミクスの蹄がバベルの右鎖骨まで深く差し込まれ、停止した。もう背中から蹄が飛び出しているのではと思えるくらい深く、左の親指も、バベルの胸骨真上に突き立てられていた。

(…………届いた)

 アルマが、ミルミクスの右腕から左胸にまで進み、空色の剣身が完全に隠れるぐらい深く突き刺さっていた。

 バベルの左手には、確かな感触がある。心臓に達した。その情報が、左手を通して脳へと送られた。

 ミルミクスは、目を細めてバベルを見続ける。その口からは熱気と共に、泡立った血を垂れ流す。しかしそんな状態でも、今までで一番大きく、そして満足げな笑みを顔に貼り付けていた。

「僕の、勝ちだ!」

 バベルはそう言い、アルマを引抜き、溢し落とした。アルマは軽い音と共に、捲れ上がり砕けた石畳の上を滑る。

 バベルはアルマには目もくれず、空いた左手で右鎖骨まで迫ったミルミクスの左腕にそっと触れた。

「……さよならだ。僕の最初の、魔物の友だち」

 働かない頭で、バベルは瞳孔が横に伸びた友の瞳を見続ける。自分の右腕はもう上がらずだらりと垂れ下がり、地面の水たまりに追加の雨を、シャバシャと降らせていた。

「ナ、ナマ、エ……ナマエ、ハ……」

 最後に呟いたミルミクスの鳴き声に、バベルは応えた。

「バベル・アルカナム。一人の亜人だ」

 フッ、と息を吐き出したミルミクスは、バベルを見つめたまま息を引き取った。横に延びた瞳孔の瞳は、もう何も映さない。くすんだガラス玉のように、ただこちらにその半光沢を見せつける。

 周囲の状況が、バベルの元に押し寄せる。ゆっくりと流れていた土埃も、肌を打つ風も、鼻腔をくすぐる煙臭さも元通り。

 充実した戦場は、幕を下ろした。

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