継承
体が軽い。視点が低い。父親代わりの男と一緒に住んでいた一軒家の内装が、白と灰で彩られてこの目に映る。これだけの情報が揃っていれば、今見ている景色が夢なのだと、すぐに理解することができた。
孤独を好む少年の、五歳の時の記憶。そしてその少年が、バベル・アルカナムという名の一人の人間として歩き始めた時の記憶だ。
手を引く友人に追いつこうと踏み出したこの足はしかし、どこにも行くこともできず、孤独へと戻ってきた。一人に慣れていたこの頃の自分ならばきっと、今の気持ちを理解することもなかっただろう。
夢の中の少年が、扉の方へと視線を動かした。それに合わせて、バベルの意識も扉を捉えた。誰かが来たらしい。
「ガストン、おるか」
耳の中で水が膜を張っているのか、篭ったノック音と声が聞こえた。
「ヨーギルか。一体何の用だ?」
テーブルに茶器を置き、席に着いていたガストンは、椅子からすっくと立ち上がると扉の方へと向かった。その光景は記憶通りで、この後入ってくるのがヨーギル一人ではないと、幼いバベルの視線を通して眺めていた現在のバベルの意識は知っていた。
扉が開かれ、つぶらな瞳の大男が姿を見せた。今でも大きく見えるその男の姿は、小さい頃の視線で見ると、まるで山が人の形をして動いているような、そんな奇妙な感覚に襲われていた。
畑で作業をしてから来たのか、作業着には土汚れが目立ち、頭の上には日除けのつば広帽子がちょこんと乗せられていた。そんな大男の右手の中には、とても弱くて柔らかそうな小さな手が包み込まれている。手を辿って行くと、そのさきには日焼けのしていない真っ白な肌をした小さな少年がうつむきがちに立っていた。
「ほう。今日はタンゴも一緒か」
ガストンもヨーギルの連れている子供に気付き、幼き日のタンゴの前にしゃがんで目線を合わせる。記憶通りの景色を横目に、バベルはテーブルの上で開いていた本へと視線を落とした。
この時読んでいたのは『バクラバ遺跡からの知らせ』という、遠く離れた地で発見された新しい遺跡の構造や出土品の説明と、当時の暮らしや文明を推察した研究者の文献を綴った堅苦しい物だった。そんな歳不相応な書物に目を通すバベルを見たヨーギルは、癖のあるいつものしゃべり方で声をかけてきた。「そんなムツカシイ本読んじょるとは、将来は学者か」と。続けて「タンゴは英雄譚が好きでな」と言ったヨーギルの声で、少年バベルは本から視線を挙げてタンゴを捉えた。
ヨーギルと繋いでいるのとは反対の腕の中。小さな体だからか、より大きく見える本は、確かに英雄譚『炎剣のフレイル』だった。
そして、タンゴと言葉を交わし、友人としての日々が始める。
「えいゆうがすきなの?」
それからというもの、バベルはタンゴと共に集会所の二階に設けられている図書館へと通うようになった。そこで多くの英雄譚を一緒に読んだ。正直、そんな御伽話よりも、もっと別の話が読みたかったというのが当時のバベルの感想なのだが、タンゴの楽しそうな顔を見ると言い出せなかった。
タンゴと読んだ英雄譚の中には、最愛の人を奪われた一人の男が仇を取って英雄になる。そんな血生臭い復讐劇もあった。しかし、物語と現実は全く別なのだと、今のバベルは思う。
物語の最後、英雄と彼に寄り添った友人や仲間は皆、満面の笑みを見せて幕を下ろす。では、現実はどうだろうか。友人も、想いを寄せていた人も死んだ。物語のように笑みを浮かべ、肩を叩き合う相手は、皆英雄によって殺されたのだ。
残されたのは復讐を果たしたという空虚な達成感で、空っぽだった胸の中に冷風が入り込んでは、冷ややかな唸り声を上げていた。
「バベル」
「バル」
重い瞼を持ち上げると、そこには人間ではない二人の友。エルフのルシオンと、フラクシスの子供、魔物のハーゲンティが立っていた。どうやら、ウィリアムの死を見届けた後、気を失ってしまっていたらしい。灰色一色だった空は、いつの間にか雲の隙間から茜色の空をこちらに見せていた。
「まだ森に帰ってなかったんだ」
「こんな状態の友を一人残して、帰れるわけがないだろう」
ルシオンの言葉にフッと力無く笑ったバベルは、今自分が、地面に横たわっている状態なのだと気づき、痛む体を少々強引に引き起こして、地面に座り込む形で起き上がった。
彼らは友ではあるが、笑みを浮かべて互いを称え合うようなことはしない。それを行うのは人間の文化で、魔物の文化ではないからだ。魔族の文化はどうか知らないが、魔物の文化が違うのはこれまでの経験から明らかだった。
ハーゲンティは今、右手に握っていた金の杖の代わりに、肉の塊を握っている。何の肉なのかなど聞く必要はなくて、バベルは静かに肉塊から視線を外した。
ハーゲンティの頭部の年輪がパックリ割れると、そこから鋭利な牙が覗く。どうやらそこが口なのだと、今更ながらに知った。
食事を楽しむハーゲンティの隣に立つルシオンは、たった今解体されたであろう英雄の亡骸から、一振りの両手斧を拾い上げ、その手中に収めていた。
「これは、今の人間には過ぎた物のようだ」
「そうだね」
疲労の極地に立つバベルは、ルシオンの言葉の意味を理解していないながらに相槌を打ち、茜の陽光を全身で受け止めた。
とても薄い布で全身を包まれたかのような心安らかな温かさを感じる。
「バル、落し物」
ハーゲンティの木の根を捻った腕の中に、曇り空を浮かべた短剣の刃が握られていた。
「所有者を失った事で、アルマは現在、次の所有者を待つ継承状態になっている」
ルシオンの言葉を理解するのに、バベルは数秒、あるいは数分の時を要した。
「…………ガストンが、死んだ?」
「私が喰った」
バベルの呟きに、ハーゲンティが英雄の肉を咀嚼し飲み込んでから答えた。
「何で——」
何で殺したの? 何で戦ったの? そんな疑問が口を動かしたが、その答えをとっくに知っていたバベルは、続く言葉を飲み込んだ。
「やらなければ、こちらが喰われていた」
ハーゲンティの顔を見て、バベルはようやく理解した。丸太を斜めに切り倒したような年輪を見せるその顔にある、三つの輝き。それは、オルソ、トルシア、そしてガストンの瞳と同じ輝きを放っていたと。
「そっか……オルソと、トネさんも食べたんだ」
「強かった」
「そっか…………」
不思議と、ウィリアムに対して抱いていた怒りの感情が、ハーゲンティ相手には湧いてこなかった。大切な父親と、その友人が殺されたにも関わらず。
疲労が頂点に達しているからか、それとも別の要因からなのか。霞む頭の中でいくつもの文字を組み合わせては、バラバラに崩して行く。答を得ようとしても、それは人間の文字では組み上がらなかった。
バベルの脳は答えを出す事なく、ただ茫然と中空を見るめる。そんなバベルを前に、ルシオンは唐突に言った。
「アルマは君が継承するべき物だ」
ルシオンは言う。柄を握り、その刃の中へと意識を集中させろと。しかしバベルは、地べたに腰掛けたまま、微動だにしなかった。
「僕には必要ないよ。ルシオンが受け取って」
元々は、ルシオンが友人のために打った大切な短剣だ。元の持ち主の手に戻るのは至極当然で、冒険者になる気のない、それどころか、明日を生きる気のない者が持つ意味は皆無だと、バベルは語った。
「この中には、記憶が保管されている」静かに説くルシオンは、バベルの目を通してその胸の空洞に、何かを流し込もうとしていた。暖かなそれは、今バベルに必要なのだと、マゼンタ色の瞳が語る。「私の友、フレイ・ユーリングだけでなく、君の父の記憶も」
「ガストンの、記憶……」
バベルの胸の奥底で、空色の光が仄かに瞬いた。
「そうだ。そして、記憶はこちらに語りかけてくる。どうしたいのか。どうなりたいのか。これから先の未来を問うて来る。そのように私が作った」
友の歩む道の先にいつかは現れるであろう、彼と同じ輝きを携える者のために。そんなルシオンの言葉に、バベルは口端を微かに持ち上げた。
「なら、その人に渡せばいいでしょ。僕は、ルシオンの友人みたいにはなれないよ」
「そうだな。しかし、だからこそ今の君に必要だと判断した」マゼンタの輝きが、バベルの瞳を真っ直ぐに射抜く。「私はこの短剣に願った。私の友が道に迷い、己を見失わぬようにと。バベル、君はこの時代にできた私の新たな友人だ」
ハーゲンティが、木の根を絡めて握る短剣をバベルの手中へと押しやり、絡めていた根を解いた。
「ハーゲンティ、僕は——」
ハーゲンティは空いたその手に残りの肉塊を載せ、黙々と食事を再開した。空腹が限界を越えたのだと理解したバベルは、渡されたアルマを見下ろし、それからもう一度ルシオンを仰ぎ見た。
「大切な友人だったんでしょ」
「ああ」
「もう一度、会いたいとは思わないの?」
バベルの質問に、ルシオンは即答する。
「会いたいさ。もし叶うのならば、もう一度言葉を交え、そして、笑い合いたい」
「なら——」
「しかし、それは叶わない」
バベルの言葉を制して紡がれたルシオンの声音はとても寂しそうで、バベルは口を閉じるしかなかった。
「その短剣の中にいるのは、私の友人の記憶だ。本人ではない。もし私が彼の記憶に執着し、現実を見失っては彼に笑われてしまう」
それでも、もしそうだとしても、やっぱり会いたいじゃないか。
バベルの思いが吐き出される事はなかった。それでも、ルシオンには伝わった。
「命あるものの終着点は皆同じだ。どのような道を辿っても、結局は同じ場所に行き着く」遥か遠くを眺めるルシオンは、静かに語る。「再会は必然で、それまでにどれだけを拾い上げ、物語を紡ぐ事ができるのかが重要なのだ。再開した時、互いに語り合う物語は、多いに越した事はなのだから」
ルシオンの想いは固く、そして何よりも尊ぶべきものだとバベルは思った。
タンゴやレイン、そしてガストンに再開した時、一体どれだけの話ができるだろう。そう思えば、先ほどまでの虚無感は不必要な錘に感じられ、暴れ狂う獣はそこにいるだけでも物語なりえる呪いなのだと思うことができた。
「彼の記憶から多くの事を学ぶと良い」
アルマを握るバベルを見たルシオンは、バベルの胸中を察して笑む。バベルははにかむように笑い、頷いた。
眼前に広がる世界には、見覚えがあった。前回来た時は快晴だったが、今日生憎の曇天で、分厚い雲が空全体を覆い光を遮っていた。
足元に広がった鏡の水面には、バベルの動きに合わせて波紋が広がる。
「来たんだね」
前にも聞いた青年の声が、背後から聞こえた。今回はしっかりその出所が分かった。
「はい。フレイさん」バベルは笑顔で振り返る。「ルシオンの友人が会いにきました」
胸を張って告げたバベルは、その存在を確かに捉えた。ルシオンの旧友にして、御伽話の主人公の記憶を。
「ふふっ。あのルシオンに友人なんて、僕以来だね」
赤い髪に緋色の瞳。その風貌は幾分か本人の方が端正な顔立ちではあったが、確かにバベルが昔読んだ、炎剣のフレイルの表紙に描かれた絵と同じ人物だった。どうやら、あの本の全てが出鱈目というわけでは無いらしい。
「アルマの継承って、何をするんですか?」
かつての英雄と向き合い、バベルは右手に握る曇り空の短剣を持ち上げる。
「そうだね。簡単に言えば、僕との話し合い。かな」
答はそれだけだと言うように、フレイの体が揺れた。
灰色の空を反射する水面の上で赤い線が一筋走り、バベルの正面へと迫る。
「——っ!」
右手に持ったアルマを振り上げたのは、咄嗟の判断と本能が動かした反射とが半々だった。
「うん! 良い反応。ガストンの息子なだけはある」
アルマがもう一振り。バベルの持つ曇り空のアルマと、フレイが持つ茜に染まった夕暮れ時のアルマが、火の粉の花を咲かせた。
「話し合いって——」右腕に力を込め、フレイへと刃を押しやる。「言ってませんでしたか!」
「これがそうだよ。ここで、アルマの所有者として適正か判断するんだ。命のやり取りの中で!」
ルシオンが語った内容から想像した人物像と、眼前に迫る英雄の記憶とは随分と乖離していた。タンゴのような陽気な人だろうと思っていたが、実際は随分と血の気の多い冒険者だったらしい。
しかし、御伽噺にまでなった人物。その実力は確かだった。学校の授業以外で習っていないバベルの稚拙な剣術は、そのどれも簡単に見破られた。
「君の剣は軽いね。軸がブレているからだよ」
「そう言われても、しょうがないでしょ!」
碌に剣術を習ったことがないのだから。そう言おうと開いた口を歯噛みし無理矢理閉じたバベルは、アルマを逆手にフレイから距離を取った。
言い訳を吐いたところで惨めになるだけだ。バベルはアルマを正面に構え、佇む一人の英雄を直視する。瞬きも忘れ、青年の一挙手一投足を見落とさないよう凝視する。
剣術の練度も、戦闘経験もどれも足元にも及ばない。それでも、勝ち筋はある。攻撃をいなして躱し、隙を見つけることができれば。そんなバベルの考えを見透かすしているかのような微笑を浮かべるフレイは、茜に染まったアルマを一度大きく振り、その切先をバベルに向けた。
「君の中では、勝ちの目はたった一つだと思ってるだろう。でも、もしそれが通用しなかった場合、君はどうする? 他の策は考えてあるのかな。防御に徹して、望み薄のいつかを待つつもりかい?」
大きく踏み出し、頭上から振り下ろされたフレイの斬撃をギリギリで避けたバベルに反撃の余裕などなく、選択の余地など無い事を、否が応でも思い知らされた。
体を縛る時間の鎖を引き千切り、バベルは胸中で嘲笑う獣の見せた世界へと自ら踏み込んだ。
世界が切り替わる瞬間、バベルの耳にフレイの凛と透き通った声が届いた。
——時代の流れにまでは抗えないよ。
世界が止まって見える。正確には周囲の動きが遅くなっているだけなのだが、水面を走る波紋以外に動くものがないここでは、その実感が持てなかった。
——水面以外に、動くものが無い?
脳裏に引っかかった疑問が、バベルの体を前へと倒した。背後で一陣の風が吹き、バベルの体を大きく煽る。
「——っ、ホントに人間かっての」
頸のあった位置を通過した茜の凶刃を、下から掬い上げるように持ち上げた灰色のアルマで弾いたバベルは、視界に映る一人の青年に驚愕した。
時間がゆっくりと進む世界から見たフレイは、さっきまでとほぼ同じ速度でバベルの周りを駆け、アルマを振るって来た。
今相手取っているのは人間じゃない。もはや化け物だ。バベルは手に持った曇りの短剣を構えた。無闇に動けば、視界の外から攻撃される。だから、構える。さっきと同じように、向こうから仕掛けて来るのを待つ。
「そこっ!」
真紅と橙の螺旋が、灰色にくすんだ短剣を弾く。異常な速度で迫る短剣は、バベルの右腕を吹き飛ばす衝撃を放ち、輪郭の崩れた姿で、鏡の水面を揺らして迫る。
掠っただけで手を切り落とされる。そんな想像が脳裏に張り付いた頃、バベルの正面でフレイが立ち止まった。
真っ赤な瞳がこちらを射抜く。何かを訴えるように、もしくは何かを試すかのようなその視線に、バベルは体を硬直させた。
「やっぱり駄目だね」
水面に仰向けに倒れたバベルに、フレイがあっけらかんと言い放つ。
結局、一撃も入れることができなかった。フレイの振るアルマを捌くのでも精一杯なのに、アルマを囮にした絡め手を加えたフレイの戦術に、バベルはなす術なくアルマを弾き飛ばされ、波紋の揺れ広がる水面に転がされてしまった。
フレイはいつの間にかアルマをどこかに納め、素手でこちらを見下ろしていた。
「駄目、ですか……」
分かってはいたが、面と向かって言われるとやはり引っ掛かるものがある。大きく息を吐き出したバベルは、灰色の空を仰ぎ見た。
「勘違いしないで欲しいから言っておくけど、継承自体は問題ないんだ」
落ち込むバベルに、フレイは変わらぬ明るさを見せた顔を見せてきた。
「じゃあ、何が駄目なんですか?」
「君が、君自身のことを理解していない事が、だよ。それじゃあ君たちの規格で例えて、真級止まりってとこかな」
フレイの目が、真っ直ぐこちらを射抜く。透き通った宝石のようでいて、その内側には猛々しい炎が揺らめく真紅の瞳は、濁りのない純粋な光を宿していた。
真っ直ぐフレイの目を見つめ返すバベルは、一つの事実を直観的に見出した。
(ああそっか。ガストンの師匠ってこの人なんだ)
おそらく、アルマの継承を行った時に出会ったのだろう。
「僕は、何を理解していないんですか?」
体を持ち上げ、立ち上がったバベルは、同じぐらいの背丈のフレイと向かい合う。そんなバベルに、フレイは「君が人間では無いことを」と、さらりと告げた。
「僕が、人間じゃない……?」
無意識に足元の水面に視線を落とした。揺れる水面には困惑を貼り付けた見知った顔が反射する。昔から知っている普通の人間の顔だ。亜人や魔族のような牙や角は見られない。耳も、ルシオンのような鋭角さを持っていない。
「外見じゃないよ。君の獣痕は」フレイは、こめかみを人差し指で二度、三度突き答えた。「脳だ」
「……脳?」
言われても全くわからなかった。今の今まで「お前は人間じゃない」などと言われたことがないバベルにとって、フレイの言葉はどれも信じ難いものだったから。そんなバベルの胸中を察していたフレイは、今から詳細を話すと一つ一つ語り出した。
「君は、脳そのものが獣痕なんだ。だから人間とは違う価値観を持っているし、世界がゆっくりに見えるあの世界を観測できるんだ」
「確かに、ガストンやタンゴと意見が食い違う事はありましたけど、それって他の人でもそうじゃないですか」
バベルの非難にも等しい言葉を受け止め、フレイは一つ頷いた。
「そうだね。人ってのは、それぞれがそれぞれの価値観で生きているから。一緒にいればぶつかるのは必然だ。でもねバベル。普通の人間は、魔物の心配なんてしないんだよ」
親のような優しさを秘めた顔に、教師のような口調のフレイはバベルに一歩近づいた。
「冒険者が魔物を襲っただなんて、誰も考えない。誰も、魔物の棲家に攻め入っただなんて言わない」
バベルを中心に円を描いて歩き出したフレイは胸を張って片腕を腰の後ろに、片腕は胸の高さに持ち上げ、人差し指を立てた。
いかにも、教師が教鞭をとっています。といったそんなフレイの姿勢に、バベルは苛立たしさを感じた。話の内容と雰囲気が一致していないのだ。そんなバベルの胸中を知ってか知らずか、フレイは口角を緩やかな曲線を描き授業を続ける。
「誰も、魔物を殺す事を悪とは考えないんだ」
フレイの語った『悪』という単語に、バベルは思わず反応した。
「なんで、その事を」
「知っているのか?」フレイは先回りできたことが嬉しいのか、少年のような明るい笑みを浮かべた。「レインって子に言ってたじゃないか」
「話聞いてたの?」
片眉を吊り上げ不機嫌を全面に押し出すバベルに、フレイは飄々と返した。
「僕はアルマで、アルマは君が持っていたからね」
盗み聞きとは、趣味が悪い。
「君にとっては嫌なことかもしれないけれど、君が亜人だと気づいたのも、君の獣痕が脳だと思ったのも、僕がアルマの中にいたからだっていうのは、理解してもらいたいな」
言い返したいが事実であろうことが窺えるだけに、バベルは歯噛みし鼻を一度フンッと鳴らし、話の続きを促した。
「話を戻すけど、人間は魔物や魔族を快く思っていない。対して君は、そんな彼らに同族意識って言うのかな。人も魔族も、そして魔物も亜人も違いはないのだと感じている」
「確かにそうですけど、生きてるっていう点では、皆同じでしょ」
腕を組んだバベルは学生時代も授業が好きではなかったことを思い返した。
「そうだね。でも、そう考えられたのは、人間と魔族が一緒に暮らしていた頃話だよ。今の時代、そう考えられる人間は存在しない」
古い記憶へと沈みかけていたバベルの意識が、水面の上へと戻ってきた。その脳内では直近の記憶が光の速度で過ぎ去った。
ガストンが微笑を浮かばせながら語った冒険譚の数々を。あの時、確かにガストンは楽しげで、懐かしさを噛み締めていた。その中には、魔物を狩った罪悪感も、魔族を殺した後ろめたさも無かった。
しかし、それが当然なのだ。露店で買った串焼きを食べる時、ドレッドボアに対して後ろめたさを感じただろうか。断言できる、否だ。
魔物は生きるために他の魔物や人間を襲う。人間も同じなのだ。人を守るために魔族を殺し、生きるために魔物を狩る。
バベルは考える。この世界を作った神と呼ばれる存在がもしいるのなら、きっと彼あるいは彼女は、生物を作る過程で他種族を殺すことへの罪悪感を取り払ってしまったのだろうと。だから人は、同種の人間を殺してはいけなというルールを作った。だから人は、魔物や魔族と戦う事を是として今代まで生き延びて来れたのだ。
「僕が人間じゃ無いのはとりあえず理解しました。でも、それでなぜ僕が亜人で、獣痕が脳だと言えるんですか?」
バベルの背後に回ったフレイは、とうとうと語る。
「君の生きる時代の人間はね、体の機能を全体の一から二割程度までしか使用していないんだ」
突然の語りに、バベルは思わず言葉を挟んだ。
「ちょっ、ちょっと待ってください。いきなり何の話ですか。獣痕の話は?」
バベルの右側に並んで立ったフレイは、楽しげに笑いながら横目でバベルを見た。
「もちろん君の獣痕の話だ。今の時代、家畜や愛玩動物だって二割程度なんだけど、そんな中で魔物や魔族は十割完全に使用しているんだ。何故だと思う?」
フレイと並んで水面に立つバベルは、ただただ首を傾げるしかなかった。
「無駄だと気づいたからさ」
答えられないバベル横目に、フレイは貼り付けた笑みをさらに深めた。
「時代の流れとともに絶対数を減らした魔族の逆を取るかのように進化を繰り返した人間は、その数を増やして国をいくつも建てると同時に、魔物の脅威を取り除く術も磨き上げた。そうして生命の均衡を崩すことに成功した人間は、自身の力を完全に使用し続けることが無駄だと考えるようになり力の制御に入った。そうして現代、代替わりを経るたび無意識に力を封じられるよう進化した人間は、余力を他の事に使うようになったんだ」
「他のことって例えば?」
「新たな技術の発明や研究。そして、生物として何よりも大事な後世に種を残す、繁殖だね」
「魔物や魔族は、力を余らせることはしないかったんですか?」
バベルの質問を嬉しそうに聞いたフレイは頷き、答を投げた。
「しなかったのではなく、できなかった。って言った方がいいかな。魔物達の生活には、常に死が寄り添っているし、魔族達は急速な変化を求めなかったから」
「それは、人間だって同じですよ。いつ死ぬかわからないし、自分の周囲が目まぐるしく変化するのは嫌だ」
「そうだね。人間も魔族も、そして魔物も。皆同じだ。いつ死ぬかもわからず、障害物だらけの道を進まなきゃいけない。いつか訪れるであろう死へ向かって、進まなきゃいけない。だからこそ、生命は次代を重視し、種の存続を強く願うんだ。今より良い未来を築けるようにって」
フレイは大きく息を吐き、いつの間に空いていたのか、曇天を描いた灰色のキャンバスに開けられたかのような青い穿穴を見上げて目を細めた。
「いつしか、種の存続は守りにこそあると見た人間は技を磨き、未来を築こうと考えた。対して魔物は武を選び、魔族は不変を望んだ。そうして、彼らの世界は分かたれた」
視線をバベルへと戻したフレイは、抑揚もない声で続ける。
「人間は忘れてしまったんだ。かつて魔族と共に観測し、干渉していたあの世界を。自分の手で、この世の理を覆せる可能性を持っていた事を」
でもね。とフレイは続ける。
「身体から抜け落ちたその記憶はしかし、一点に留まり燻り続けていた。それを証明したのがバベル。君だったんだ。君は欠落していたはずの古の記憶を引き起こし、死という名の理を覆して見せた。久遠の時を魂とでも呼ぶべき場所で寝ていた無限の可能性を君は掴み取ったんだ」
熱に浮かされているかのようなフレイの言葉に、しかしバベルは付いては行けず、その場で静かに話を聞いていた。
「そんな事、急に言われても……」
「君があの世界に入ると体が重くなったり意識を失うのは、過度な負荷に体が耐えられないからだよ。当時の人間でも耐えられるのは五人に一人ぐらいの割合だったけど、もう今の人間の体では耐えられるものではなくなってしまっているんだ」
フレイの話はどれも突飛で、夢物語ばかりだ。それならば、ルシオンは常にあの世界にいるというのだろうか。
「信じられないみたいだね」フレイは困ったように笑ってすぐに、頭を振った。「まぁ、正直この辺は深く考えなくていいかな。今回の件に関してはそこまで重要じゃないからね」
フレイはすぐに明るい笑みを向けて来た。この青年の纏う雰囲気は、どこか異質だ。見ているこちらの考えが鈍る。彼の笑みを見ていると、考え事をしていてもしょうがないと思えてくる。目の前の青年のように、軽く構えても良いのかもと考えてしまう。
「重要なのはここから」
「勿体ぶらずに早く話してよ」今更ながらに思う。この男、現状を楽しんでいる。こんな何も無いところにいれば当然かもしれないが、バベルにとっては自身の根幹に関わる話だ。もう少し真面目に話してくれても良いはずだ。
「ごめんごめん」謝る気のない謝罪を口にして、フレイは本題に入った。「君が亜人なのはほぼ間違いない。その決定的な証拠は、価値観だ」
「それはさっき聞いた」
やはりふざけていると、バベルはため息を一つ零した。
「まぁ落ち着いて。さっきの価値観ってのは、魔物に対しての君の価値観。これは人間によっては共感してもらえるものだ。まぁ、ほぼほぼ無理だろうけど。でも、僕が言いたいのはそこじゃあない」
「話が、全く見えないんだけど?」
自然と、この男に敬語は必要ないのではと考え始めた。
「人間に対する価値観だよ」
対して、フレイの顔が真剣なものに変わった。これまでの話は前置きだと、その顔が語っている。
「君は今日、大切な人を多く失ったね」
ガストンとタンゴの他にはパッとは出てこないが、あとはレインだろうか。
「真っ先に思い浮かべたのは、きっとガストンとタンゴだけだろう?」
「う、うん……」
「他にもレインやグリッドだっていたはずなのに」
レインは次に思い浮かんだし、グリッドは自分で殺したのだからと、バベルは言い返そうとした。が、それよりも早く、フレイは続けた。
「人間はね、親しい人の死をそんな簡単には乗り越えられない生き物なんだよ。三日三晩泣いて喚いて、人によっては、後を追う者だっている。これは、どれだけの年月を経ても克服することができなかった人間の弱点だ。だのに君は、数時間ちょっとで元通り。これは、正直言って異常だよ」
フレイの言い方には棘があるように感じられた。これまでの軽い雰囲気などどこかに投げてしまったかのようで、そんなフレイの態度が気に食わなかったバベルは、強気にフレイに詰め寄った。
「そんな人間だっているだろ。そもそも、あの時は殺し合ってたんだ。それどころじゃなかった!」
バベルの態度に、フレイは怒るでも笑うでもなく、悲しげに眉を下げた。頑固な生徒を見守る優しい教師の眼差しだった。
「だから、それだよ。状況なんて関係ない。大切な人が目の前で死んだ。それだけで人間は、簡単に絶望して膝を折る」
「全員が全員、そうじゃないでしょ?」
「確かに。でも、君のような思考を持っている人間ってのは、大抵が救いのようのない屑だって決まってる」
バベルの強気がどこかへと霧散する。
(そこまで言われるものなのか……)
「言い方が少し強かったね。でも、命を大切にできない人間に、アルマは預けたくないんだ」フレイの言葉が、胸に刺さる。「大切な、友からの贈り物だから」
「つまり、僕みたいな屑には、継承できないってこと?」
「継承は問題ないって言っただろう。君自身の認識不足が問題って話」
「認識不足……」
ここまでの話は、納得はできずとも理解はしているつもりだ。フレイの言っていたことは全て当てはまってしまうが為に、これが自分ではないと振り払うことができなかった。
「亜人の中には、共食いするのもいるんだ」
「共喰い? 何で?」
フレイの発した『共食い』を、バベルはどこかで知っていた。その言葉を口にした瞬間、バベルは答を聞くまでもなく理解してしまった。その行動の理由も、実用性も。それが尚更、自分を人間では無いと突きつけて来ているようで胸が苦しくなった。
「栄養補給だよ」
フレイの言葉は、バベルが考えていた理由と全く同じだった。
あれだけの疲労だ。脳の機能を十割使い続けるなんて、そう簡単なことではない。そしてフレイは言った。倒れるのは体が負荷に耐えられないからだと。そんな体を修復し生命活動を続けるには大量の栄養が必要になる。栄養補給の一番効率の良い方法は、近くにいる無防備なものを食らう事だ。
バベルの中で一つの解が組み上がる。
「僕が共食いするって、そう言いたいの?」
「君がそうではないと思いたいのが本音だよ」フレイはその明るい顔にほんの少し、影を含んだ。「大切な弟子が育てると決めた時、誰もがそれを間違いだと指差した。それでもあの子は君を育てたんだ。師匠の僕が、信じないわけにはいかないだろう?」
「誰もがって、誰の事?」
聞いていて、バベルの頭には二人の老人が浮かんだ。
「オルソ、ヨーギル。そしてトルシアだ」
ガストンの冒険者時代の仲間で、コーラルに居を構えた事で冒険者を引退した英級たちだ。彼らは知っていた。バベルが亜人だと。そして、少しショックだった。あの温厚なトルシアまで、反対側だったことが。
「そっか。だから、僕にライセンスを発行してくれなかったんだ」
「そうだね」
「だったら、何でタンゴもライセンスを貰えなかったの?」
「その辺は、後で本人に聞けばいいんじゃないかな」フレイはそれよりも、と話を戻した。「継承の件だけど、それは問題なく終了したよ。もう時期、アルマの使用が可能になる」
「使用?」
空暦剣アルマの魔法は、所有者の経験を記録として保存するものだったはずだ。一体何を使用するというのか。
「ただし、今回の継承には条件を付けさせてもらったよ」
「条件?」
聞く夜も先に、フレイは話を進ませた。何かに急がされているかのようで、バベルは疑問を一度飲み込んだ。
「バベル。君が亜人として生きるのか、それとも人間として生きるのか。それを決めずに命を踏み躙った時——」フレイの緋色が、バベルを真直ぐ射抜く。「僕が——アルマが、君を殺す」
「僕を、殺す……」
右手の中の曇り空を浮かべた短剣が空に開いた一点の穴から零れた光を反射し煌めいた。
バベルは混乱していた。急に亜人なんて言われて、その上人間か亜人、どちらで生きていくか選べなど、いくらなんでも話が急すぎると。
フレイはそんなバベルの考えを見透かし柔和に笑う。
「死んだ者を悲しみ、抱え込めとは言わない。ただ、どちらの道を行くのか、この世界を知った上で決めて欲しいんだ」
「頭に入れとくよ」
そう答えるのが精一杯だった。考えも覚悟も定まっていないバベルは、不安に押し潰されないようアルマを握る手に力を込めた。
右手に持った曇り空に、熱が籠るのを感じる。決して熱いものではなく、安心感を伝えてくる温もりに近いそれが、右手を通してバベルの中へと溶け込んだ。
「分かった」短く答えたフレイは、満足げな笑みを浮かべ、アルマを持ったバベルの右手を、胸の高さまで持ち上げた。「継承完了だ。おめでとう、父親との再会だよ」
「えっ?」
バベルが驚いている間に、快晴を取り戻したアルマから、一粒の光が零れた落ちた。それは水面を揺らし、飛び上がった雫が中空まで浮かび上がる。雫は徐々に大きくなり人の形へと、バベルの知っている人物へと変わった。
「ガストン!」
驚きと喜びが混じり合い、上擦った声が飛び出した。
「バベル。師匠と会えたようだの」
「うん!」
「久しぶりだね、ガストン」
そこからしばらくは、三人で談笑した。二人の出会いや、修行の内容を聞き、二人から稽古だと、基本的な剣術に加え二刀流や長槍、その他の武具の扱いや体術も学んだ。時間を忘れたアルマの中の空間はとても心地の良いもので、バベルはこっそりと、この時間ができるだけ長く続きますようにと祈った。
「ねぇガストン」
「何じゃ?」
快晴を見せる空と、それを反射する水面との間で、バベルとガストンは水面に腰を下ろし、横に並んで話していた。
「何で僕だけじゃなく、タンゴの冒険者ライセンスも発行しなかったの?」この言葉に、こっそりとタンゴは亜人じゃないのに、と別の言葉を潜ませる。
「オルソの提案じゃった。あの子は優しい。じゃからきっと、バベルだけライセンスを持てぬと知れば、自分も要らないと身を引いたじゃろうとな」
「そうだね」
タンゴは優しい人間だ。自分のことを後回しにして他人を優先してしまう超が付くくらいのお人好し。
「じゃから、オルソが納得するまで、二人には発行しないと話し合って決めたのじゃ。儂とオルソ、ヨーギルとトネさんの四人でな」
「タンゴには、申し訳ないことをしちゃったな」
「そうじゃのう」
つまり、自分が居なければ、カルカロから嫌がらせを受ける事もなく、普通に冒険者になって、二人で散々語り合った冒険が実現できたはずなのだ。
「…………何で、僕を拾ったの?」
できる限り軽い調子で聞こう。フレイのように、グリッドの軽薄そうな雰囲気で。そう思っていたが、いざ口を開くと、どうも重くなってしまった。
「そうじゃのう」ガストンは一度大きく息を吐き出すと、快晴の空を瞳に重ねた。
ガストンの瞳に映る二つの空は、どちらも綺麗だった。
「お前を見つけたのは、街と町を繋ぐ森の中にあったレギュルの巣の中じゃった。最初に見つけたのはオルソで、きっとどこかの商隊が襲われたのだろうと皆そう思っておった」
昔のことを思い出す時、ガストンは決まって遠くを見つめる。他人には見えない当時の景色が、きっと今のガストンには見えているのだろう。
「お前の親はきっと、レギュルに襲われて生きておらんとも思った。じゃが、親族の一人くらいならば見つかるかもしれないと、オルソが言い出したのじゃ。その頃の儂はひどく荒れていてな、どうせ見つかるはずがないとオルソとぶつかった」
静かに語るガストンの瞳からは今にも悲しみが溢れそうなほど潤んでいた。それを横目に見たバベルは、ただじっとガストンの話に耳を傾ける。
「結局儂は、オルソの話を飲むことにした。そして隣町のサーマルへと向かうと、そこで昔お前を見たという者がおった。なんでもお前を抱いた夫婦が、魔族領に行こうとしていると。そこで気付かされた」
「亜人だ。って?」
言いにくかろう事を、抑揚なく言ったバベルの目を見て、ガストンは小さく頷いた。
「うむ。人間の赤子だと、皆勝手にそう思い込んでおった」
「それで、探すのをやめたの?」
バベルの質問に、ガストンは目を伏せ、数秒黙り込んだ。ガストンの呼気だけが水面の上を滑り、周囲に響いた。
「そうじゃ。しかし、正確にはそうではない」目を伏せたまま、震えた唇でガストンは答えた。「お前が亜人だと知った時、儂はお前を殺そうとした」
バベルは何も言えなかった。
「その頃の儂は大切な人を魔族に殺され、生きる意味を見失っておった。そこに現れたのがバベル、お前じゃ。もちろん、お前を殺したところで意味はない。彼女は帰ってこない。そんなこと、頭では分かっていた。が、心では割り切れんかった」
バベルの頭の中で、ガストンの声が幾重にも響き、言葉の意味を掴もうと必死に手を伸ばしていた。しかしそれをうまく掴めずにいたバベルは、頭の中に溜まって行くガストンの言葉を、ただ溢さぬようにと抱え込むことに注力した。
「儂はお前を殺そうとした。じゃが、できなかった。無邪気に笑むその顔を見た瞬間、胸の内で巣喰っていた真っ黒な塊が解けてしまったんじゃ。一度迷えば、もうそこから刃を振るうことなどできない。儂は、お前を殺せなかった」
「そっか……」
なんとか返せたのは、その一言だけだった。乾燥した口から出されたその声は、自分のものとは思えないほど平坦で希薄だった。
「…………その後、元々引退を考えておった儂は、お前を理由にコーラルに住むようになったのじゃ」ガストンの声が震え、鼻の詰まった声色に変わる。「一度は殺そうとした赤子を理由にするなど、無様でしかないと分かっておる。しかし、あの時の儂には、それ以外の選択が分からなかったんじゃ…………すまない」
両手で顔を覆い啜り泣くガストンを、バベルはそっと抱きしめた。
「そんな事ないよ。ガストンのおかげで僕は、今日まで普通の人間として生きてこれたんだから」バベルは、大粒の涙を零すガストンの目を真直ぐ見つめた。「ありがとう」
短く、そしてとてもありふれた言葉。それでも、人の抱えるたくさんの想いを詰め込む事ができる言葉を、バベルはガストンに送った。
「……バベル」
驚いていないと言ったら嘘になる。それでも、これまで育ててくれたガストンのその姿に、ウィリアムや自分が抱えていたあの黒い感情がなかった事を知っているバベルは、幾つも渦巻く感情の中にある一つの本音をガストンに渡した。
「ありがとう、ガストン」
「それで? アルマの使用って結局何だったの?」
親子の会話中、姿をまったく見せなかったフレイは、暫くして何もなかったかのように姿を現した。
「ああ、言ってなかったけ」忘れてた。と赤い髪を雑に掻き、ガストンと一緒にこちらを見る。「アルマの記録は、条件を満たせば何度でも閲覧できるんだ。まぁ、条件を満たしても自分の意思でとはいかないから、正直こうして会えるかは運次第って感じだけど」
肩を揺らすフレイは、また軽い調子に戻っていた。稽古だと剣を持った時の真剣さはどこにやったのやら。この男は、直ぐに真面目や真剣といった堅苦しいものをどこかに放る癖がある。
「じゃあ、ガストンともまた会えるの?」
条件の内容次第だが、こうしてまた会い話せるのならばと、バベルは喜色を浮かばせた。
「会える。じゃが」ガストンは、少し寂しげに眉を下げた。「儂はただの記録じゃ。本物ではないぞ」
「分かってる。記憶と現実を曖昧になんかしない。約束するよ」
ルシオンが言っていた事だ。
「そう。ちなみに、ここの記録は僕含めて君の先代、つまりはガストンまでの記録が残っている訳だから、君にとって有益なのは間違いないよ」
横から差し込んできたフレイの言葉に、バベルの中で一つの疑問が浮かんだ。
「アルマの記録って、何人分あるの?」
フレイは今から数千年は前の人間だ。そこからガストンの手にアルマが収まるまでの時間は途方もない。使用者が冒険者ならば、かなりの数になるはずだ。
「人間の数も確かに多いけど、魔物や魔族の記録もあるから、もう正確な数はわからなくなってるんだ」
「そうなんだ」
ルシオンは言っていた。前の所有者が死亡して、次に触れた者が継承すると。恐らく、冒険者を殺した魔物か死んだ冒険者の懐から拾い上げたのが魔物だった。そんなところなのだろう。
「魔法武器の詳細はルシオンに聞くと良い。彼が付与したものだから、僕より詳しいはずだよ」
「分かった」
もう直ぐ元の世界に戻る。そんな雰囲気が、フレイとガストンから出ていた。バベルも、何となくそんな気がしていた。
ここにどれくらいいたのかは曖昧だ。フレイとの出会いに、ガストンの記録との邂逅。そこから稽古をしてから親子の会話など、相当居座っていたことだろう。
「バベル」と、ガストンは声をかけてきた。最後に伝えなければいけないことがあると、その目が語っていた。
「儂は、確かにあの時お前を殺そうとした」
「うん」
「しかし、できなかった。お前の無邪気な笑みを見た瞬間、自分のしていることの愚かさに気付かされたからじゃ」
ガストンの目にはあの時の悲しみは映っておらず、今は大切な家族の出立を見届ける父性に満ちていた。
「あの時の事を後悔しておる。お前に刃の切先を向けた事を。じゃが、お前をこれまで育ててきたのは、その時の後ろめたさや贖罪のつもりなどでは決してないのだと、知っていておくれ」
ここにいるのはガストンの記憶で、アルマの記録だ。これがもし本人ならば、きっと今の言葉を紡ぐことは決してなかっただろう。詳細を語ることは決してせず、ただこちらの成長を願い、見守っていただろうとバベルは思った。
「ガストン。僕はガストンを恨んだことなんて一度もないよ」
バベルは一歩ガストンに近づき、稽古を続け固くなったシワだらけの父の手を取った。
「僕はガストンにずっと感謝してるんだ。今日まで一人の人間として育ててくれたこと。亜人だと知って、それでも愛してくれたこと」
命は一つだ。ここに残っているのは、ガストンの記憶であって、ガストンの命ではない。それは理解している。それでも伝えたい。そんな想いから、バベルはガストンに笑みを見せた。
「そろそろ来る頃だね」
突然の話題の切り替えと共に、フレイの明るいまなざしがバベルに向けられた。その顔が語っている。「何が?」と聞けと。
「……何が?」
その要望通り、バベルはフレイに質問する。殊更明るい笑顔を見せたフレイは意気揚々と、重要な事をさらりと言った。
「因果、かな」
「何? それ」
「全ての始まりじゃよ」ガストンもわかっているらしい口ぶりで続ける。「向こうに帰ったら、ちゃんと向き合うのじゃぞ」
「分かった」
二人が向ける視線を前に、バベルはそれ以外に何も言えなかった。一目見れば分かるだろう。そんな気がした。
快晴の世界に広がる空色がだんだんと色を無くし、靄がかかってきた。どうやら時間のようだ。
「それじゃあ——」色が抜けて行くアルマの中で、バベルはおそらくこの場で最も適しているであろう言葉を、二人分の記録に送った。
「行ってきます!」




