赤い薔薇と赤い瞳
日曜日の午後2時。
残暑と呼ぶにはまだ早く、連日の猛暑日だ。
元気な者でも倒れそうな日差しの中、ヨウヘイはサックスブルーのTシャツにネイビーの半袖シャツを羽織り、白い七分丈のクロップドパンツという気合いの入った服装で現れた。
普段着の黄色と白のボーダーTシャツに、カーキ色の短パン姿の僕とは大違いだ。
あからさまに緊張した様子のヨウヘイは、思い悩んだ挙げ句――よりによって見舞いの手土産に薔薇の花束を持ってきた。
蕾がひとつと開花した花が二輪、いずれも赤い薔薇だ。
――プロポーズでもするつもりかよ。
花言葉に疎い僕でも、赤い薔薇の持つ意味は知っている。
「……お前さぁ、この花、花屋で何て言って買ったんだよ?」
「――えっ?! 『大切な人に渡したい』って言ったんだけど……」
『お見舞い』が抜けている。
只でさえ、緊張でコチコチのヨウヘイだ。デートで彼女にでも渡すと踏まれたんだろう。
そりゃあ、花屋も薔薇を勧める訳だ。
夏美さんは、流石に大人だから誤解しないだろうが……僕は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「――赤い花、ってのは不味かったかな?」
僕が微妙な顔をしたせいか、ヨウヘイは不安気に手にした花束を見た。
……まったく。どこまでもズレてるんだよ、コイツは。
「いや……大丈夫だろ。病室じゃないんだし」
「そうかー! 良かった!」
問題は色じゃない。面倒になった僕は適当にあしらって、『早川』の表札下のインターホンを押した。
――ピンポーン。
「……はい……?」
返事はすぐにあった。
インターホン越しに、聞こえた夏美さんの声は、突然の来客に戸惑っているとはいえ、確かに力ない。
「……と、突然伺ってすみません!」
「その声は、陽平君ね?」
彼女が目の前にいる訳でもないのに、ヨウヘイはピシッと背筋を伸ばした。
「はっ、はいっ!」
「……こんにちは、僕も来ました」
緊張感を和らげるべく、会話に横入りした。
「――マモル君? どうしたの、二人して?」
僕はヨウヘイをつつく。
「あ、あのっ! 夏美さんが、最近体調を崩されてると聞いたので――お見舞いに来ましたっ!」
沈黙――インターホンの向こうで、返答に困っているのか、すぐに言葉がない。
「突然で、すみません。迷惑でしたら――」
「ううん、迷惑ではないわ……。でも」
再び、沈黙――かと思うと、短い間を置いただけで、彼女は女性らしい言い訳をした。
「……でも、さっきまで横になっていたから、見せられる格好じゃなくて」
「それじゃ、一旦出直して来ましょうか」
具合が悪くても僕らを気遣う夏美さんに申し訳なくて、僕は独断で仕切り直しを提案した。
ヨウヘイが、あからさまに落胆した目付きで僕を見る。
「……待って。暑い中悪いんだけど、5分だけ待ってくれるかしら?」
少し落ち着いた、夏美さんの声。
「はいっ!!」
萎れかけたヨウヘイは、分かりやすく復活した。
それから5分も待たせずに、夏美さんは玄関に現れた。
白いTシャツに、ギンガムチェックのグレーのガウチョパンツ。
全体的に風通しの良い、ゆったりとしたスタイルだ。
少しだけ濃い目のファンデーションは、本来の顔色を隠してのことに違いない。
それでも母さんや近所のオバチャン達の厚化粧を見慣れている僕らには、透明感のある上品なメイクだった。
「散らかっているけど――どうぞ」
多分、僕らは二人して夏美さんに見惚れていたのだ。
手にしたお見舞いの品も渡さずに、玄関先に立ち尽くしていたので、夏美さんから招き入れてくれた。
「……あっ。すみません、お邪魔します」
「し、失礼します!」
まるで職員室に呼び出された生徒のように、ぎこちなく一礼して、ヨウヘイは敷居を跨いだ。
夏美さんの表情が、少し緩んだ。
リビングに通されて、男二人が小さなソファに並んで座る。
元々は古い家だが、焦げ茶色のフローリングの床は、秋吉さんが住んでいた頃に畳から張り直していた。
夏美さんは、フローリングの上に、六畳くらいのゴザ製ラグを敷いている。
エアコンはなく、部屋の中央近くで、大きめな扇風機が灯台みたいにゆっくり首を振っていた。
障子や襖も取り外したようで、風通しは良いが、何だかガランとした雰囲気だ。
むしろ、リビングの隣のキッチンの方が、ダイニングテーブルや冷蔵庫やレンジが揃っているだけ生活感がある。
「ごめんなさいね、独り暮らしだから……家具が少なくて」
小さな白いローテーブルに、麦茶の入ったグラスを3つ置く。
多分、クマのぬいぐるみがいたベランダから運んできたテーブルだ。
「マモル君家みたいに、気の利いたものもなくて」
言いながら、彼女はテーブルセットのチェアに腰掛ける。
ひじ掛けの間にちんまり収まっている彼女を見ると、あのクマが大きいものだと再認識した。
「いえ、かえってすみません。僕ら、お見舞いに来たのに。体調、大丈夫ですか?」
「心配かけて、ごめんなさい。暑さはちょっと弱くて……もう少し涼しくなれば元気になるわ」
自ら麦茶を一口飲んで、笑顔を作るが、どこか弱々しい。
「あ、夏美さん。これ、母さんが持ってけって」
お中元で届いたマスカットゼリーのお裾分けだ。
『食欲が無いときは、こんなのがいいのよ』
気取らずにコンビニのレジ袋に入れたのは、母さんなりの気遣いに思える。
「すみません。この前いただいたスイカのお礼もまだなのに」
「あー、気にしないでください。母さんは世話焼くのが好きなんで」
頭を下げる夏美さんに、僕はヒラヒラ手を振った。
「――あのっ!」
突然の大声に、僕も夏美さんもギョッとした。
緊張したヨウヘイは、ボリュームというものが壊れている。
僕らのやり取りの間中、どう割り込もうか迷っていたようだが――結果、会話に渋滞を引き起こした。
「……あの、夏美さん。オレも……これっ、お見舞いですっ!」
ヨウヘイは、ついに清水の舞台から飛び降りた。
ソファから立ち上がり、薔薇の花束を両手で差し出す様は、やっぱりプロポーズみたいだ。
彼は『半年後に告る』と言っていたが、やることは今と大して変わらない――と、隣で冷静に眺める僕だった。
「……ありがとう、陽平君。早速飾るわね」
目を丸くした夏美さんだったが、差し出した薔薇より真っ赤に俯くヨウヘイを優しく見上げ、『お見舞い』を受け取った。
夏美さんは、ゆっくり席を立ち、キッチンにゼリーと花束を持っていった。
「――座れよ」
直立不動の友人に囁く。
ヨウヘイは、僕の存在なんか忘れていたように、ハッとした表情で、まじまじと僕を見た。
「……何だよ」
「――いや……他言無用だからな」
「おう。貸し、2つな」
「1つだろ」
「付き合ったのが1つ。口止め1つ」
「――ちぇっ、分かったよ」
狭いソファでの下らない取り引き。
その間、夏美さんはキッチンで僕らに背を向けている――が、その肩が震えているように、見えた。
「……おい、ヨウヘイ」
「何……あ」
つつかれたヨウヘイは、視線の先に気付く。
シンクに向かっている夏美さんの表情は分からないが、やや俯いているようで、小さな背中がちょっと上下している。
俄に、ヨウヘイはキッチンへ駆けた。
「――おい」
「大丈夫ですか?!」
デリカシーのない行動に思え、引き留めようとしたが、その前にヨウヘイのバカスピーカーが唸る。
「まだ具合悪いんじゃ――」
「――来ないで!」
涙声なのに、拒絶する。
ビクン、と一度は足を止めたものの、すぐにヨウヘイは夏美さんの側に並んだ。
追い詰められたウサギみたいに怯えた表情で、彼女はヨウヘイを見上げた。その頬が濡れている。
「ごめんなさい、夏美さん。オレ、バカだから――あなたの顔が見たくて……無理に押し掛けて」
「……違う、違うの。あなた達が悪いんじゃない」
ヨウヘイを見つめたまま、何度も首を振る。
「私は、陽平君にも、マモル君にも、マモル君のお母さんにも……優しくしてもらう資格なんてないの」
少し離れたリビングとキッチンの境界にいた僕からも、夏美さんがポロポロと流す涙が見えた。
「優しくされるのに、資格なんているんですか」
ガキなりに、熱い言葉だ。僕が女なら、ホレたかもしれない。
夏美さんは目に見えて動揺していた。
ヨウヘイの誠意に満ちた一言は、彼女の何かを砕いたらしい。
青白い頬に、一筋、朱が差したようだった。
「――ありがとう……でも、今日は帰って。二人とも本当にごめんなさい……」
帰り際、夏美さんに笑顔はなかった。大きな瞳が、ヨウヘイの薔薇よりも赤く見えた。
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夏美さんが泣いたことは、暗黙の了解で僕らのトップシークレットになった。
「やっぱ、オレじゃ頼りないんだよな」
「いや――お前、カッコ良かったよ」
「……嬉しくねぇよ」
傷心のヨウヘイを僕なりに労り、近所の公園の前まで送った。
「マモル、オレ、諦めねぇからな」
「――おう。逆転サヨナラホームラン、期待してるぜ」
「……任せとけ」
軽口に乗せていたが、僕はヨウヘイを見直していた。
先刻、強引にキッチンへ踏み込んだ情熱を、かなり本気で応援していた。
「じゃあ……また明日な」
「ああ。サンキュ、マモル!」
公園の入口ゲートの前で、僕らは別れた。
ヨウヘイは近道するため、公園の中を突っ切って行った。