夏祭りの夜
期末考査の結果は、まあまあ悪くなかった。
劇的に成績が上がった訳ではないけれど、このままの偏差値をキープすれば、志望校合格も現実味を帯びてきた。
全国模試の結果が月末に郵送されてきて、志望校合格可能性が87%という予測値で、これも僕のエンジンを温めるには十分だった。
8月。
夏休み期間中は、10時から5時まで、学習塾の集中講座を受講した。
家と塾を行き来する単調な日々。
うだる暑さを回避した涼しい環境と、周りも自分も勉強しかすることがない状況に追い込まれたことは、元来マイペースの僕には向いていた。
あれこれ『学習計画』なるスケジュールを、自分で管理しなくて良いところも有難かった。
「――なあ、マモル」
「うん?」
昼休み。塾の休憩室で弁当箱を開く。
母さんは夕飯の残りの焼肉を豪快に詰めていた。いわゆる『男めし』、スタミナ重視の茶色い弁当だ。
「帰り、夏祭り行くだろ?」
隣でコンビニの唐揚げ弁当を頬張るヨウヘイは、ポテトサラダをカップごと僕の弁当箱に移した。
「――玉子焼きも」
「ちぇっ、仕方ないな」
横暴な要求にも、素直に従った。つまり、ヨウヘイは夏祭りに付き合って欲しいのだ。
白と黄色で、僕の弁当箱が少し華やぐ。何より味のバリエーションが増えて嬉しい。
「お前、今日の内容、頭に入ってんの?」
早速、戦利品の玉子焼きを平らげる。うん、甘い。
「……うるせぇよ」
友人の狙いが、夏祭り会場で遭遇するだろう夏美さんなのは、火を見るより明らかだ。
「母さん、浴衣用意してたなー」
然り気無さを装おって、ポテトサラダをつつく。
「婦人会は、毎年浴衣だろ」
「そうじゃなくて。オバチャンの浴衣姿なんて、どうでもいいよ」
ニブイな、こいつ。
「――えっ?」
「ヒカリ姉ちゃんから浴衣借りてたんだ。多分、夏美さん用だな」
分かりやすく頬がニヤケる。鼻の下も伸びたかもしれない。
「……マモル、唐揚げもやる」
「おう」
僕は遠慮なく、一番大きな唐揚げをさらい、口に放り込んだ。
おかずが減ってしまった弁当を前に、けれどもヨウヘイは幸せそうだった。
この頃、僕は人を好きになることについて考えてしまう。
受験生という立場上、気を散らされる『恋』なんてものは、害としか思っていなかった。
でも――ヨウヘイを見ていると、『恋』がもたらす心の変化は強さにもなるんだと教えられる。
少なくともヨウヘイには、困難を乗り越える原動力になっている。
その証拠に、彼は夏休み前の期末考査で学年順位を50も上げて、担任も周囲も驚いた。
実は本人が一番驚いたらしく、努力に結果が伴ったことが、更なるモチベーションになっていることは想像に難くない。
僕のモチベーションは、この町を出ることだ。
この閉鎖的な地域を離れて、もっと伸び伸びと生きていくんだ。
でも――この想いが岩をも貫く原動力になるかというと、正直自信はない。
『誰かのために』という力の方が、後に退けない覚悟を生むんじゃないだろうか……?
昼食後の『現代文』の授業中。
僕にからかわれたヨウヘイの横顔は、キリリと引き締まっていた。
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心臓破りの石段を昇り切ると、賑やかなざわめきが流れてきた。
まだ明るい境内に、灯っていない提灯がぶら下がり、氏子の名の付いた幟旗があちこちに立っていた。
社の前に設けられたテントでは、神社の職員が参拝客にお神酒を振る舞っている。
社の左手――社務所の向かいの広場は、普段はベンチなんかが置かれている空き地だが、祭りの期間中は簡易ステージが設置され、イベントが催される。
今は、祭り太鼓の奉納だろうか――ステージの方向から勇ましい音が聞こえていた。
広場と参道を囲むように、所狭しと出店の屋台が並ぶ。
定番の綿あめ、リンゴ飴、アメリカンドッグ、フランクフルト、お好み焼き。大型ギョーザのシャーピンや、小さな卵形の東京カステラ。
ヨーヨー釣りに、射的、型抜き、アイドルやキャラクターの景品が当たるくじ引き。
なけなしの小遣いを握りしめた小学生が品定めに駆け回り、小・中学生の女の子達は三々五々、通路のあちこちで固ってお喋りしている。
高校生――ましてや受験を控えた3年生の姿は、ほとんど見られない。
「……あ、夏美さんだ」
婦人会の緑色のテント。
夏美さんは、母さんの隣で、おでん串の乗った発泡トレイを、客のオヤジに渡している。
「やっぱ……キレイだな」
ポツリ、呆けたようなヨウヘイの呟き。
軽口で返そうとしたが――僕は言葉を失った。
深い紺色に朝顔模様の浴衣には、見覚えがある。ヒカリ姉ちゃんが随分前に着ていたが、記憶の中のシルエットとは異なる。
夏美さんの色白な肌が浴衣の色に映えて、華奢な体つきが際立っている。
クラスの女子達にはない、大人の女性のたおやかさに、僕まで息を飲んだ。
「――加賀美クンと嘉山じゃない?」
ドン、と背中をどつかれて、手にしていたフラッペを落としそうになる。
「……何だ、吉田か」
振り向くと、クラスの女子、元野球部マネージャーの吉田彩花が立っていた。
眼鏡顔はいつも通りだが、彼女も水色の浴衣姿で、裾と袖に金魚が泳いでいる。
「何だとは何よ。男二人でムサイわね」
「るせぇよ。お前こそ女独りか? 寂しいな」
「違うわよ。弟達が連れてけって煩くて」
彼女は小・中学校も一緒の幼なじみで、昔は僕のことを『マークン』なんて呼んでいたが、いつの頃からか『嘉山』なんてよそよそしく呼び捨てにする。
「チビ達、相変わらず元気だな」
射的のテントで騒いでいる凸凹コンビが彼女の弟達だ。
「もう『チビ』じゃないわよ。小6と中2。生意気で煩くて」
姉、というより母親の顔で、吉田は首を振った。
彼女の家は駅前で薬局をしている。小さい頃から、両親が店に出ている日中は弟達の世話を任されていた。吉田本人も、母親みたいな感覚なのだろう。
「あの女性――早川さん?」
僕らの視線を辿って、吉田は夏美さんを示した。
ヨウヘイが敏感に反応する。
「知ってるのか?」
「そりゃあ……」
言い掛けて、彼女は口籠る。チラ、とヨウヘイを見遣った。
「――美人の噂は早いから」
取って付けた妙な間に、僕は違和感を覚えたが、鈍感なヨウヘイは『美人』というワードにウンウンと納得している。
「噂って、どんな?」
代わりに僕が突っ込むと、吉田は眼鏡の奥の瞳を固くした。
――聞いてくれるな、はっきり拒絶した眼差し。
「噂は、噂よ」
フウン、とヨウヘイが気に止めなかったのを幸いに、僕もその話題に触れるのはやめた。
「――ねぇちゃん、200円ちょうだい!」
凸凹コンビの下の凹――小6の和樹が吉田に向かって駆けて来た。
「ダメ! 小遣いあげたでしょ」
再び母親の顔になり、彼女は諌める。
「型抜き、一回だけでいいから〜!」
微笑ましく見ていたが、ヨウヘイは僕をせっついて、それから吉田に手を振った。
「吉田、オレら行くわ。じゃあな」
「――あっ、うん。またね」
和樹にせがまれたままの格好で、吉田も手を振った。僕もつられて片手を挙げた。
「夏美さんとこ行こうぜ」
ボソッと早口に告げて、ヨウヘイは大股でテントに向かう。
その時――。
「やっぱり、アンタ、清瀬さんとこの子じゃろ?」
町内のシーラカンス、80幾つになる竹田の爺さんが、嗄れ声を上げた。
「――えっ……違います。私は早川と言います」
「いいや! ワシャ、年寄りじゃが、ここはシッカリしとる! アンタ、清瀬さんとこの子じゃ!」
竹田の爺さんは、自分の頭を指差して、ますます声を張り上げた。
『清瀬』という名前に反応したのは、夏美さんの隣にいた母さんも一緒で、まさか、という表情で彼女と爺さんを見比べている。
夏美さんの周りに見えない壁が張り巡らされたように、婦人会のオバチャン達がぎこちなく固まった。
「あのね……竹田さん、この方、最近遠くから越してらしたの。多分、よく似ているだけじゃないかしら」
母さんが、興奮した爺さんを宥める。
この時程、僕は母さんを誇らしく感じたことはなかった。
「――いいや! ワシャ、清瀬さんとは親しくしてたんじゃ! アンタには利三さんの面影がある!」
爺さんは、頑固だった。仲介の母さんを押し退けるようにして、譲らない。
「……困ったわ」
夏美さんは首を振るばかりだ。
妙な注目が集まり、テントの周囲に緊張が高まる。
古い地域だ。会場に来ている人々の中には、ニュースにまでなった当時の噂を覚えている人も少なくないだろう。
「あらあらお爺ちゃん、こんな所にいたの! カラオケ大会が始まりますよ!」
張り詰めた場を救ったのは、竹田さんのおばさん――爺さんから見たら、息子のお嫁さん――だった。
竹田の爺さんは毎年、夏祭りのカラオケ大会の最年長出場者で、記録を更新中だ。
カラオケ大会は、エントリー制だから、順番が来るまでに会場にいなければならない。
おばさんは、爺さんを連れに来たのだ。
「おっ! そうかそうか! アンタ、名前は?」
「早川……夏美です」
「そうかそうか」
竹田の爺さんは、口の中で何度か「そうかそうか」を繰り返すと、おばさんに手を引かれて去って行った。
「……何だったんだ、今の?」
ヨウヘイが呆気に取られて、爺さんを見送る。
いつの間にか夕闇が境内に忍び込み、あちこちに吊るされた提灯にもぼんやり柔らかな魂が宿っていた。
テントの中の夏美さんは、もう笑顔ではなかった。
薄闇の中ではあるが、いつもより顔が白く見える。
隣の母さんが何事か囁くと、頭を下げてテントを離れ、足早に社務所に入って行った。
「……行かない方がいいよな」
「うん……」
鈍感なヨウヘイも、流石に何かを感じ取ったのか、ただ夏美さんが消えた社務所を見つめていた。
目的を失って、僕らは早々に神社を後にした。
「じゃ、また明日な」
手を振って去っていくヨウヘイの背中が寂しそうだった。