風景に色
第3話です。
一人で走る、休日の朝の風景です。
過去の思い出を思い出したり。
一人きりのジョギング中って色々考える。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
次の休日。僕は一人、いつものコースをゆっくり走りはじめた。
相生橋を渡り、県立図書館を横目に、旧市民会館の解体作業中のグレーの囲いの横を走る。
僕は高校の時、吹奏楽部だった。弱小校ではあったが、夏のコンクールの県大会はいつもこのホールだった。
ステージ袖に楽器を持って待機すると独特の緊張感があった。周りの部員と目が合ったり、今演奏している高校を袖から見てあんなにうまい演奏ができるのだろうかと不安になったりした。また、演奏が終わった高校と入れ替わりの際の客席のざわめきは少しほっとする音だった。歩いて自分の席に座ると覚悟が決まる。
しかし先生が指揮台に上がるまでの足音で緊張感がドッと押し寄せてくる。タクトを振り上げた瞬間の静寂で始まるんだと楽器を構える。腕の筋肉の張りや動きは正常か。指先は震えていないか。自分の体をチェックしていく。
演奏が終わった後、廊下で先輩や後輩たちと、どうでもいい会話をする。もう終わったと思う安堵感の反面、寂しさがこみ上げてくる。その寂しさを埋めるためにどうでもいいような会話をしているような気がする。
なかなか言えない辛い思い出もあるが、それも今となってはどこかいい思い出だと思える。
そんな感傷に浸りながら石山公園に入る。旭川のほとりをゆっくりと走る。
この辺りはリニューアルされた岡山城を背景に、優美な月見橋が綺麗に見える絶好の撮影スポットだ。月見橋は武骨な鉄骨の橋だが、不思議と威風堂々とした城の姿と調和している。
考えてみれば、岡山城も中に入ればエレベーターが設置されている現代的な建物なのだ。見た目と実態とのギャップがあるのだが。そんなことを考えながら、鶴見橋を渡る。
太陽はすでにかなり昇っていて、日差しが容赦なく照りつける。やはりサングラスをしてきて正解だった。
橋の上で、アジア系の観光客らしい二人組とすれ違った。彼らもまた、濃い色のサングラスをかけている。日差しから目を守るという行為に、国境はないらしい。
後楽園の交番前、郵便ポストの上には二羽のタンチョウが翼を広げている。もちろん作り物だ。
翼を広げていると言えば、相生橋から見える川の中州、水辺のももくんのあたりに時々、一羽の鳥がいる。彼は時折その黒い翼を大きく広げ、まるで天を仰ぐかのようにじっとしている。
濡れた羽を乾かしているのだと誰かから聞いたことがあるが、鳥には鳥の事情があるのだろう。
僕がこの街に越してきて、もう十年が経つ。十年前から彼はあそこで翼を広げ続けている。きっと同じ鳥に違いない。
彼の孤独な姿に、僕はいつしか自分を重ねていた。
蓬莱橋を渡り、旭川沿いのさくらみちを通ろうと思ったが、早朝にしては意外と車の通りが多かった。仕方なく、土手から河原のランニングコースに降りることにする。
だが、いざ階段を前にすると、走って降りる気力が湧かなかった。一度止まってしまうと、もう再び走り始めることができない。
結局、そこから自宅までは、とぼとぼと歩いて帰った。
次の休日がやってきた。
今日は五時半に起きた。妻と子ども二人はまだ眠っている。
昨日はローソン限定の缶ハイボールを飲んだ。『ビッグピート』という、アイラ系ブレンデッドウイスキーのハイボールだ。
本家ウイスキーのビッグピートを知っている自分にとっては、少し物足りなさを感じた。アードベッグよりもかなりピートが効いていて、少しアルコールのピリつきがあるのが本家だと認識しているからだ。
それに比べると缶ハイボールは、ピートの風味こそ感じられるものの、強烈な個性は鳴りを潜め、驚くほど角が取れてまろやかだった。少し物足りなくはあるが、これはこれで充分美味しい。
――そんなものを夜に楽しんでいたせいだろうか。今日は一段と体が重い。
いや、ここで一つ白状しなければならないことがある。
以前、「体重が三、四キロ増えた」と書いたが、あれは嘘だ。実際には五キロ増えていた。そんなに変わりがないと思い、つい見栄を張ってしまった。申し訳ない。
さあ、着替えよう。
ジョギングウェアに着替え、マグカップの水を二杯飲み干す。五分ほど準備運動をして玄関を出た。
やはりこの時間帯は、ちらほらと走っている人がいる。ジョギングの目的はまちまちだろう。ちょうど秋に開催される「おかやまマラソン」の当落結果が出た頃だ。本番に向けて走り始める人も多いはずだ。
相生橋を渡り始めると、向こうからいかにも「本物」といった風情のランナーがやってきた。本格的なウェアで固め、流れるような美しいフォーム。
すれ違った瞬間、ビューンという鋭い風切り音と共に、風圧が僕の顔から肩、体幹を撫でていった。
橋の中ほどのところでは、白髪混じりの、七十歳は過ぎているだろう男性とすれ違った。ややがに股気味で、懸命に腕を振って走っている。
平然を装ってはいるが、半分開いた口からは苦しそうな呼吸が小さく漏れていた。走る速度もそれほど速くはない。
だが、彼の視線は、先ほどすれ違ったあの綺麗なフォームのランナーの背中をまっすぐに捉えていた。まるで「わしを馬鹿にするな」と言わんばかりの、力強い顔つきだった。
県立図書館の手前を右に曲がり、烏城みちを走る。
この短い並木道は、犬の散歩コースとして人気だ。飼い主は手にスコップとうんち処理袋を持ち、前方の安全を確認しながら、同時に足元でくんくんと匂いを嗅ぎまわる愛犬の動向にも注意を払う。犬の散歩とは、意外と高度なマルチタスク能力を要求される行為なのかもしれない。
中川横太郎君碑の辺りには野良猫が一匹と、鳩が二羽ほどいた。僕が走っていくと、猫は碑の後ろに隠れるようにゆっくりと歩き去り、鳩はバサバサと音を立てて一斉に飛び立った。
目安橋を通り過ぎたところで、街路樹の柳の葉が僕の頬を柔らかくかすめた。
――その瞬間。不意に、猛烈な便意を催した。
僕は烏城公園の駐車場にあるトイレに駆け込んだ。ここは二十四時間開放されていて、本当にありがたい。しかも岡山城のリニューアルに合わせて綺麗になった。以前は古い和式トイレだったので、涙が出るほど嬉しい。
風のない個室で用を足していると、汗が滝のように流れてくる。
トイレから出ると、額を伝う汗に風が当たって心地よかった。
物理的にも精神的にも、体が軽くなった気がする。しかし、やはり足は重たい。いつになったらジョギングに慣れるのだろう。このままずっと足が重たいまま、本番の六時間リレーマラソンを迎えるのだろうか。それは嫌だ。
そんなことを考えながら、アートスペース「ラビットホール」の前を通り過ぎる。窓に飾られた色とりどりの風船が目に入った。面白そうな展示をやっているらしい。
行ってみたいなと思いながら、もう何年も前を通り過ぎるばかりだ。近所だといつでも行けると思って、つい後回しになってしまう。
今のジョギングと同じだ。いつでも走れると思っているうちにどんどん遠のいて、足が重くなっていく。六時間リレーマラソンが終わったら、ここへ行こう。
瀬戸内国際芸術祭にも、一度行って楽しかった記憶がある。だが、結婚してからは行けていない。妻も子ども二人も、現代アートには全く興味がないのだ。せっかくの休日に家族を置いて一人で出かけるわけにもいかず、ずっと遠のいている。
でも、ラビットホールなら二時間もあれば見て回れるだろう。そのくらい家を空けたって、バチは当たるまい。
今日は少し家を出るのが遅かったせいか、日差しがいつもより高い位置から照りつけてくる。
日差しを避けるため、コースを変更することにした。鶴見橋を渡った後、後楽園に沿って右に曲がる。本来ジョギングコースではないかもしれないが、朝の早い時間なら人通りも少ないだろうと思ったのだ。
しかし、意外と人が多い。ジョギングやウォーキングをしている人たちだ。隣が後楽園で、茂った木々が日陰を作ってくれることを、皆よく知っているのだ。
月見橋の辺りで、リュックサックを背負った観光客らしき人たちが地図を広げて話し込んでいた。
いつも思うのだが、なぜこんな朝っぱらから観光をしているのだろう。しっかりリュックを背負っているということは、もうホテルをチェックアウトしたのだろうか。それとも散歩用で、スーツケースはホテルに置いているのだろうか。
碧水園が見えた。
ここは昔、クラシックギターを習っていた先生が時々演奏会を開いていた場所だ。結局一度も聴きに行くことはできなかったけれど、行きたかったな、と思う。その先生はもう教室を閉めてしまったと風の噂で聞いた。元気にしているだろうか。
碧水園には、ギター教室で知り合った友人が働いていたこともあり、子どもが小さい頃に何度か食事に来たことがある。観光地にしては意外とリーズナブルで、窓から見える景色も良く、味もおいしい。たまにはまた、家族で食べに来たいなと思う。
坂を下ると、後楽園の南門に出る。ここを過ぎると、観光客の姿は消え、地元の人しかいなくなる。
河川敷に降りるため、階段を下る。目の前の旭川には、対岸へと渡るための木造の簡易的な橋が架かっている。
友人はこの橋を「流れ橋」と呼んでいた。台風で川が増水すると、跡形もなく流されてしまうからだ。
橋の幅は、人が一人やっと通れるくらいしかない。向こうから人が来れば、どちらかが渡り終えるのを待たなければならない。
そういう時、自然と軽い会釈が交わされる。相手も小さく頷き返してくれる。
ただそれだけのことなのに、少しだけ心が温かくなる。ジョギングを頑張ろうという気持ちにもなる。
後は河川敷を走って、相生橋まで戻れば本日は終わりだ。
第3話、最後までお読みいただきありがとうございました!
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