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玄関

本作は、怪我からの復帰や、日常の中にあるちょっとした葛藤、そして「一歩を踏み出すことの途方もない億劫さ」を書きました。


朝の慌ただしさや、ついつい言い訳を探してしまう主人公の姿に、少しでも共感していただけたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。

 膝の中で何かがわずかに動くような違和感。

 手術の痕はとっくに塞がり、穏やかな日常が戻ってきていた。


 膝の手術をしてから十ヶ月が経った。

 十ヶ月。赤ん坊が母の胎内で形を成し、この世に生まれ落ちるのに十分な時間だ。僕の左膝もまた、再構築された赤子のようなものだった。


 屈伸をすると、少し左膝に違和感があった。ぎ、ぎ、と錆びついたブリキのおもちゃが動くような、頼りない音が頭の奥で響く。

 痛み、というほど明確なものではない。もっと曖昧で、掴みどころのない不安だった。まるで薄曇りの空のように、晴れでもなく雨でもなく、ただ心を湿らせる。


 しかし、手術をする前より足の調子は確実に良かった。

 歩くことも階段を上がることもできるようになったし、日常生活では痛みを感じない。短い距離であればジョギングもできるまで回復していた。


 だが、二ヶ月半も職場を休んだ負い目がある。「もう職場に迷惑をかけられない」と思い、フルマラソンに出場するのはやめようと心に決めていた。


「走れるようにするために手術をしたんですよ。あなたの半月板をまた走れるようにするために形を整えたんですから」


 ドジャースのごつい腕時計をした若い医者は、MRIの画像を眺めながらそう言った。

 しかし、わかってくれるような職場ではない。これ以上、僕の個人的な趣味で迷惑はかけられないのだ。


 第一、僕の職場は「いいねえ、マラソン!自己実現ってやつだね!」なんて言ってくれるような、風通しの良いIT企業ではない。もし再び膝を壊しでもしたら、「だから言わんこっちゃない」という無言の視線が、槍のように背中に突き刺さる。想像しただけで胃が痛くなった。


 そんなふうに思っている矢先だった。

 違う部署の、以前から時々マラソンに誘ってくれる部長さんが、昼休みの食堂で僕の向かいに座り、カツカレーを頬張りながら唐突に話しかけてきた。


「今度、会社のクラブ活動で六時間リレーマラソンに出ようと思うんだけど、人数が足りなくてね。一緒に出てくれないか」


 リレーマラソン。

 その単語に含まれる「マラソン」という響きが、古傷をえぐるように疼いた。


 無理です、と即座に断るべきだった。まだ膝が万全ではないので。そう言えば、この話は終わるはずだった。だが、僕の口から出たのは、そんな正直な言葉ではなかった。


「あ、いえ……僕が走っても、今は本当に遅くて、皆さんにご迷惑をおかけするだけですから……」


 僕は職場に迷惑をかけてはいけないと思った。膝のせいじゃない、僕が遅いからだ、と。自分自身と、誘ってくれた部長さんへの、卑屈な言い訳だった。


 部長さんは、大きな口の周りについたカレーをナプキンで拭いながら、豪快に笑った。


「いやいや、遅くていいんだよ! これはそういう本気のやつじゃないから。ゆっくりみんなでタスキを繋いで、六時間後のビールを美味しく飲もうっていう、ただの口実なんだからさ。それに人がいないと、単純に一人が走り続ける距離が長くなるだろ? そっちの方が大変なんだよ。頼むよ」


 その言葉には、嘘や建前が微塵も感じられなかった。純粋な善意と、ほんの少しの切実さ。僕は、その圧力に抗う術を知らなかった。


「……そうですか。では、本当に、ゆっくりでいいんであれば……参加、させていただきます」


 承諾の言葉が口をついて出た瞬間、僕の胃はきりりと痛んだ。安請け合いだった、とすぐに後悔の波が押し寄せた。


 六時間リレーマラソン。合計でどれくらい走ることになるのだろう。

 メンバーの人数にもよるが、おそらく一時間、いやそれ以下だろう。休み休みリレー形式で走るのだから体への負担は少ないはずだ。そうだ、きっと大丈夫だ。


 自分にそう言い聞かせる一方で、心の奥底では別の声が響いていた。


 どうするんだ。本当に走るのが恐ろしく遅いのだぞ。

 そして何より、一年半も遠ざかっていた「走る」という行為を、再び始めるのが途方もなく億劫だった。


 まずは、早起きから始めてみようと思った。

 夜は、僕の時間ではなかった。仕事から帰り、慌ただしく子どもと食卓を囲み、風呂に入れ、寝かしつける。その一連の流れが終わる頃には、僕の体力は限界を超えていた。子どもの寝顔は、僕にとって一日の終わりを告げるものである。


 だから、走るなら朝しかない。


 アラームが鳴る午前五時。まだ青いインクを溶かしたような闇が薄く窓の外に広がっている。

 妻と二人の子どもは、静かな寝息を立てている。


 僕は抜き足差し足で寝室を抜け出した。クローゼットの奥から、埃をかぶったランニングウェアを引っ張り出す。吸水速乾のシャツと、下肢にぴったりとフィットする黒のタイツ。以前はこれを身に着けてジョギングすることに、一種の高揚感を覚えていた。

 だが今は、それがまるで僕ではない誰かのためのウェアのように思えた。


 とりあえず、着替えてみる。

 ひんやりとした化学繊維の感触が、眠気の残る肌をかすかに刺激する。それだけだ。


 リビングで屈伸をしてみる。ぎし、と左膝が小さな悲鳴を上げた。やはり違和感がある。手のひらで膝を包むように押さえてみると、右膝に比べて心なしか熱っぽく腫れているような気がした。気のせいだ、きっと。そう思い込もうとしても、一度生まれた疑念はじっとりと肌に張り付いて離れない。


 開脚をするのが怖い。膝関節を庇うようにそろそろと回してみる。時々、コキッと乾いた音が鳴るがこれは怖くない。


 玄関のドアまでが恐ろしく遠い気がする。一歩前に踏み出す足が、鉛のように重たい。


 ウェアに着替えて、準備運動をした。今日はここまでにしよう。

 僕は窓際に倒れこみ、窓の外が白み始めるのをぼんやりと眺めていた。


 次の休みの日は、何とか玄関のドアを開けようと心に誓った。

 ウェアに着替え、準備運動を済ませ、僕は結界のように見えない膜のような玄関のドアの前に立った。ドアノブに手をかける。ひんやりとした金属の感触。

 そして、ドアを開けた。


 サーッという音が耳に入った。

 七月上旬、梅雨前線はまだこの街の上空に居座ることを決めたらしい。静かに降る雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。


「残念だよ」


 リビングに戻り、目を覚ました妻に、僕はわざとらしく肩をすくめてみせた。しかし、心の中ではガッツポーズをしていた。

 ラッキー、と。走らないで済む正当な理由ができた。


 朝早く起きたので、朝食は僕が作った。

 おにぎりとウィンナーと卵焼き、あと、インスタントの味噌汁。レタスにミニトマト、輪切りのきゅうりを置いた。


「このおにぎり、まんまるじゃないとイヤ!」


 下の娘の要求に、僕は苦笑いを浮かべながら、三角に握ってしまったおにぎりを、彼女の注文通りに作り直した。

せっかく早起きして着替えたのに、雨が降って内心ホッとしてしまう主人公の気持ち、お分かりいただけますでしょうか。

忙しい平日の朝も、子どもの突然の「まんまるじゃないとイヤ!」というリクエストに応えたりと、親にとっては毎朝が戦いですよね。


次回、果たして彼は無事に玄関を越えられるのか。

引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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