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魔女裁判

国境を囲む峻険な山脈から吹き下ろす風は、常に冷たく乾いている。


オルテリア帝国。


それが、中世の面影を色濃く残すこの国の名であった。


なだらかな丘陵地帯に広がる赤レンガの街並み、天を突くようにそびえ立つ重厚な石造りの大聖堂、そしてそれらを囲む頑強な城壁。一見すると、神への信仰と、実直な法秩序によって統治された平和な国家である。天を覆う黒々とした森には、旅人を襲う獰猛な獣こそ潜めど、おとぎ話に語られるような一角獣も、夜の闇を駆ける吸血鬼も存在しない。

この世界には、人間の理解を超えるような異形の類は一切存在しなかった。存在する強者はただ人間であり、弱者もまた人間。この大地は、人間という種だけの排他的な領土であった。


だが、この調和の裏には、人知れず流される膨大な血と、執拗なまでの「異物」への恐怖が張り付いている。


オルテリアの法秩序を裏から支える、巨大な国家機関が存在した。


『安全保安局』。


彼らは国の至る所に監視の目を光らせ、民衆の思想を統制し、そして何よりも「ある存在」の撲滅に執念を燃やしていた。


――魔女。


それは、神が定めた世界の理を乱し、肉体に悪魔の力を宿して超常を引き起こす、呪われた女たちの総称。

しかしその実態は、悪魔のように恐ろしい姿をしているわけではない。彼女たちは人間の親から生まれ、人間と同じ血を流し、人間と同じように笑い、泣く。だからこそ、恐ろしいのだ。隣で微笑んでいる隣人が、昨日まで親しくしていた友人が、あるいは愛を誓い合った妻が、実は「魔女」かもしれないという恐怖。


「魔女は、人間の皮を被った獣である」


それが安全保安局『魔女対策課』の掲げる教義であった。






一方、オルテリアの王都から遠く離れた、地図にも載らない鬱蒼とした深き森。


日の光さえまばらにしか届かないその暗がりに、小さな石造りの暖炉小屋がひっそりと佇んでいた。


パチパチと薪の爆ぜる音が、静かな室内に響く。

テーブルの上には、丁寧に磨かれた銀の燭台と、数冊の古びた革装丁の書物。そして、ハーブの香りが漂う温かいスープが二つの器に盛られていた。


「ユウナ。背筋が曲がっているわよ」


尊大で、しかし耳に心地よい艶を帯びた声が響く。

声の主は、暖炉の前の長椅子に深く腰掛けた美女、ラビスであった。今年で三十九歳になるという彼女は、およそその年齢とは思えぬほどに若々しく、そして暴力的なまでに美しい。


夜の帳をそのまま溶かしたような、深く艶やかな紫色の髪。熟れた果実を思わせる、豊満でグラマラスな肢体を薄手のドレスに包み、脚を組んで不敵な笑みを浮かべている。その瞳には、世界のすべてを見下すような、絶対的な傲慢さと女王の風格が宿っていた。


「申し訳ありません、ラビス様。少し考え事をしておりました」


そう言って、背筋をすっと正したのは、十七歳になる少女――ユウナであった。


華奢な体躯、透き通るような白い肌。

そして何よりも特徴的なのは、月の光をそのまま紡いだような、美しく長い銀髪である。彼女の顔立ちには人形のような整い方と同時に、一切の感情を削ぎ落としたかのような静謐さがあった。その瞳は常に凪いだ湖のように平坦で、喜怒哀楽の揺らぎを見せない。彼女の口から紡がれる言葉は、育ての親であるラビスに対しても、常に非の打ち所のない丁重な敬語であった。


ユウナは、生まれながらにして人間であった。


しかし、まだ言葉も持たない赤ん坊の頃、この森の深奥に捨てられた。


理由は不明だ。銀の髪を不吉と嫌われたのか、あるいは単なる口減らしだったのか。


死を待つばかりだった赤ん坊をたまたま拾い上げ、今日まで育て上げたのが、この森に潜む「世界最悪の魔女」ラビスであった。


「考え事? フン、生意気に。あんたのような小娘が考えることなど、どうせ大したことではないでしょうけれど。ほら、スープが冷める前に飲みなさい」


「はい。いただきます」


ユウナは静かにスプーンを手に取り、スープを口に運んだ。


この森での生活は、完全に自給自足だった。だが、そこに貧しさや不自由はない。なぜなら、二人には「魔法」があったからだ。


ラビスは、この世界に数人しか存在しないであろう、本物の魔女だった。そしてユウナにも、驚くべき魔法の才能が眠っていた。ラビスの苛烈な指導のもと、ユウナは幼い頃から様々な魔法をその身に叩き込まれてきた。植物の成長を促す法、乾いた土地に水を呼ぶ法、怪我の治癒を早める法。


これほどの力があれば、人々の前に立ち、聖女として崇められることもできたかもしれない。


しかし、ラビスはユウナの物心がつく前から、その耳に幾度となく同じ言葉を、呪いのように刻み込んできた。


「いいかい、ユウナ。絶対に、他人の前で魔法を使ってはならないよ」


ラビスはグラスの赤ワインを揺らしながら、底冷えのする声で言った。


「人間どもはね、己の理解を超えた力を恐れる。恐れはすぐに憎悪に変わり、奴らは徒党を組んで、私たちを嬲り殺そうとする。魔女狩りという名の、ただの退屈しのぎの虐殺だ。どれほど強大な魔法を持っていようと、数の暴力と、奴らの底知れない悪意には勝てない。だから、魔法はただ自分を生かすためだけに使いなさい。街の人間たちの前では、ただの無力で平庸な『人間』として振る舞うこと。それが、この狂った世界で生き残る唯一のルールだ」



「はい、ラビス様。よく理解しております」


ユウナは感情のない声で応じた。


だからこそ、二人が人間の暮らす街へ行くことは、数年に一度、魔法ではどうしても手に入らないものを買い求める時以外、ほとんどなかった。


だが、ユウナは十七歳。世間で言えば、思春期と呼ばれる年頃である。


感情を表に出さない彼女であっても、知的好奇心や、自分の知らない「外の世界」への興味を完全に押し殺すことはできなかった。


ラビスが深い眠りにつく夜、あるいは彼女が研究に没頭している数日間。

ユウナはラビスの目を盗んでは、こっそりと森を抜け出し、遥か彼方に見える街の様子を覗きに行くようになっていた。


魔法を使わなければ、ただの人間。


銀の髪を古びた外套のフードで隠し、気配を殺してただ遠くから眺めるだけ。


それならば、決してバレるはずがない。ユウナはそう、静かに確信していた。


その日、ユウナが訪れたのは、森から最も近い辺境の領都だった。


活気に満ちた市場、行き交う馬車、騒がしい物売りの声。


人間たちの営みは、静まり返った森に比べると酷く雑多で、泥臭く、しかし不思議な熱量を持っていた。ユウナは外套のフードを深く被り、人混みの影からその光景を観察していた。彼女にとって、人間の観察は、まるで未知の生態系を観察するような無機質な娯楽に過ぎなかった。


だが、その日常の喧騒は、正午を知らせる教会の鐘の音と共に、唐突に塗り替えられた。


「道を開けろ! 安全保安局『魔女対策課』の執行である!」


甲冑の擦れ合う金属音と、威圧的な叫び声。

その瞬間、市場の活気は一瞬にして霧散し、人々の顔から血の気が引いた。通行人たちは慌てて道の端へ退き、頭を垂れる。

数人の兵士を引き連れ、威風堂々と歩いてくるのは、胸元に『安全保安局』の冷酷な天秤の紋章を刻んだ黒い外套の男たち。その中央に、手枷をはめられ、引きずられるようにして歩かされている若い女性がいた。

女性の衣服はボロボロに引き裂かれ、露出した肌は青あざや生々しい裂傷で覆われている。


「私は魔女じゃない! 神に誓って、私は普通の人間です! 騙されているんです、何かの間違いです……!」


女性は涙と泥で顔を汚しながら、必死に周囲の群衆に助けを求めた。


しかし、さっきまで笑顔で買い物を楽しんでいた市民たちは、誰も彼女と目を合わせようとはしない。それどころか、ある者は忌ましげに唾を吐き、またある者は「悪魔め」と罵声を浴びせた。

ユウナは、群衆の隙間からその女性を静かに見つめた。

その瞬間、ユウナの無感情な瞳が、わずかに細められる。


(……魔力がない)


ユウナには一目で理解できた。


本物の魔女であれば、どれほど魔力を隠そうとも、その魂の奥底に揺らめく特異な「波長」が存在する。だが、引きずられている女性には、それが微塵も存在しなかった。ただの、極めて一般的な人間の波長。彼女は本物の魔女ではない。ただの「人間」だ。


おそらくは、隣人との些細な口論、あるいは彼女の美しさを妬んだ誰かによる「嘘の密告」。


それだけで、彼女は一日にして「魔女」に仕立て上げられ、すべてを奪われたのだ。


女性は広場の中央にそびえ立つ、煤けた木柱――火あぶりの刑台の前へと引きずり据えられた。


「静粛に」


魔女対策課の指揮官と思しき、冷酷な眼差しをした中年の男が手を挙げた。群衆のざわめきがピタリと止まる。


「この女、エリーゼは、近隣住民からの度重なる不審な行動の報告、および聖別された家畜への呪詛の疑いにより、魔女対策課によって拘束された。本人は頑なに容疑を否認しているが、我が保安局は、神の法に基づき、厳正なる『魔女裁判』を執り行う」


「裁判……? 嘘よ、審問なんて受けてない! 私はただ、近所の人と口論を……」


「黙れ、悪魔の代弁者め」


兵士が容赦なくエリーゼの腹部を蹴り上げ、彼女は石畳に這いつくばって激しく咳き込んだ。


「では、魔女を見分けるための、神聖なる儀式を行う」


指揮官が合図を送ると、部下の兵士が革袋から「それ」を取り出した。


ずしりとした重みを感じさせる、長さにして二尺はある、無骨で太い鉄の棒。表面は赤黒い錆と、過去の犠牲者たちのものと思しき乾いた血液で汚れている。それは見る者に、直感的な嫌悪と恐怖を抱かせるおぞましい拷問具であった。


群衆から、ごくりと唾を呑む音が聞こえる。


それは誰もが知る、しかし誰もが目を背ける「魔女裁判」の最も残酷な儀式。


「これより、この『清めの鉄杭』を被告の膣内へと挿入する。真の人間であれば、神の御加護により、どれほどの痛みが伴おうとも神への忠誠を保ち、悲鳴を上げることはない。しかし、悪魔に魂を売った魔女であれば、その肉体が神の鉄に拒絶反応を示し、醜い悲鳴をあげる。……これが、絶対なる魔女裁判の真理である」



あまりにも身勝手な、狂った論理。


未加工の太い鉄棒を無理やり挿入されれば、肉が裂け、内臓が破壊されるほどの激痛が走る。そんなものは、人間であれば悲鳴をあげるのが当然だ。だが、この裁判において「悲鳴をあげる」ことは、すなわち魔女であることの証明とされていた。


生かす気など、最初から皆無なのだ。


ただ合法的に、大衆の目の前で一人の女性を辱め、破壊し、恐怖を植え付けるための、狂った儀式。


「嫌、やめて……! お願い、神様、助けて! 嫌ァァァ!!」


エリーゼは半狂乱になって暴れたが、屈強な男たちに組み伏せられ、石畳に組み敷かれる。衣服が乱暴に剥ぎ取られ、白日の下に彼女の尊厳が晒された。


「執行せよ」


指揮官の冷酷な宣告と共に、赤黒い鉄棒が、容赦なく彼女の身体へと押し込まれた。


「――ッ!!!」


エリーゼの全身が、弓のように激しくしなった。

彼女は歯が砕けるほどに唇を噛み締め、血を流しながら、必死に叫びを堪えようとした。耐えなければ、魔女として火あぶりにされる。必死の、命がけの抵抗だった。


だが、肉を引き裂くような凄絶な激痛を前に、人間の意志の力など無力に等しい。


「あ……が、は……あ、あああああああッ!!」


裂けるような悲鳴が、秋の冷たい空気に響き渡った。


「そこまで」


指揮官が冷徹に手を下ろす。引き抜かれた鉄棒の先端には、鮮血がべっとりと付着していた。


「悪魔の証明はなされた。被告エリーゼは、神聖なる鉄を拒絶し、悲鳴をあげた。これは彼女の肉体が魔女であることの、揺るぎなき証拠である」


「嘘だ……違う、痛い、痛かったのよ……! 人間だから、痛いのよ……!」


泣き叫ぶエリーゼの声は、群衆の地鳴りのような歓声にかき消された。


「魔女だ!」

「悪魔の女め! 焼き殺せ!」

「これで街が救われるぞ!」


人々は熱狂していた。自分たちとは違う「悪」が排除される快感に、正義という名の暴力を振るう悦楽に、完全に酔いしれていた。彼らの顔にあるのは、敬虔な信徒の表情ではなく、血を求める飢えた獣のそれであった。


(……この世界は、狂っています)


フードの影で、ユウナはただ、その光景を静かに見つめていた。


養母ラビスの言った通りだ。


人間たちは、己の理解の範疇を超えるものを恐れ、憎み、嬲り殺すことでしか、己の平穏を保てない。


魔力を持たない無辜の人間が、魔女として拷問され、これから生きたまま焼かれようとしている。


そして、本物の魔法の才能を持つ自分自身は、こうして平然と、彼らのすぐ隣で息を潜めている。


あまりにも理不尽で。


あまりにも、滑稽な。


これが、オルテリアという国の正体だった。


エリーゼが引きずられ、木柱に縛り付けられていく。足元には、油をたっぷりと染み込ませた薪が積み上げられていく。兵士が松明を掲げ、炎が風に揺れた。


ユウナは、自分の胸元にそっと手を当てた。


いつも通り、心臓は静かに、規則正しく脈打っている。怒りも、悲しみも、同情もない。ただ、目の前で行われている「不条理」が、純粋に不愉快だった。


だから。


本当に、ただの気まぐれだった。


ユウナは静かに、群衆の壁を押し分けて前へと進み出た。

細い指先が、頭を覆っていた外套のフードをそっと後ろへ滑らせる。

さらりと流れ落ちた美しい銀髪が、陽光を浴びて、まるで奇跡の光のようにきらめいた。


その圧倒的な美しさに、周囲の人間たちが、一人、また一人と息を呑んで振り返る。


狂気と熱狂に包まれた広場に、突如として、張り詰めた静寂の道ができた。

その道の中央を、ユウナは一歩、また一歩と、凛とした足取りで進んでいく。

その硝子玉のように透き通った、感情の消えた瞳で、壇上の保安局員たちを見据え。


ユウナは鈴を転がすような、どこまでも丁寧な敬語で、静かに言い放った。


「失礼いたします。その人、魔女じゃありませんよ」




時間が、凍りついた。

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