拾われた男と拾った男
男がエディオン侯爵家の影として雇われたのは、まだ先代が当主に座していた時だ。
その時、男の命は消えかかっていた。
仲間たちと暮らしていた集落は、恐怖に支配された人間たちによって襲撃された。ある者は命を落とし、ある者はどこかへと逃げ出し、残ったのはわずか数人。まだ小さな少年だった男はなんとか森の中を逃げ延びた。他の生き残りは、どこか遠くへと新しい住処を探して旅立っていったようだ。
森の中からようやく抜け出したものの、ついに力尽き倒れ込む。
もうここで命を終えるのだ。どうせヴァンパイアなど誰からも必要とされず、追い立てられ、こそこそと隠れて生きるしかない取るに足らない化け物だ。
ならばもうこのまま。
目を閉じた少年が、次に気が付いたのは広い庭の木の洞の中だった。
湿った木の匂いと草の感触。じっとりとまとわりつくその湿気は霧雨のせいだ。
少年はその細い体を洞から起こし、庭を見渡す。
「気が付いた?あなたは誰?どうしてあんなところで寝ていたの?」
鈴のように小さな澄んだ声がして、少年は頭を上げる。
立ち上がる力ももはや残っていなかった少年は地べたに座り込んだまま、その声の主を観察した。年の頃は5歳くらいの子どもだ。すっぽりと頭からかぶるような白い服を着て、ふわふわとした長い髪を無造作に垂らして、こちらを見下ろしている。
「お前こそ誰だ。どうして俺はこんなところにいる?」
「倒れてたのよ、あなた。だから助けてあげたのに、随分生意気なのね!」
その少女は薔薇色の頬をぷぅと膨らませて、仁王立ちしていた。そしてじっと少年の目を覗き込んでにっこりと笑う。
「私の部屋に来る?温かいものを入れてあげる。一緒にココアでも飲もうよ」
その小さな手のひらをこちらに差し出して、ぐいと少年を立ち上がらせる。
――これが、少年と少女の出会い。
その日から、少年はエディオン侯爵家の駒になった。
もっともその役目は時には人の命を奪うこともある薄汚れたものばかりだったが、最初に感じた抵抗は次第に薄れていった。他にいくところもやるべきこともなかったし、正直暇つぶしになればそれでよかった。
少女はエディオン侯爵家の一人娘で、名はリリーといった。
父親と母親の愛情を一心に受けて、健やかに輝くばかりの笑顔でいつも笑っていた。その笑顔は少年にも向けられていた。
だがある時、その穏やかな日常はあっけなく壊れる。
侯爵の妻が、おそらくはエディオン侯爵家を疎ましく思う一部の貴族の手で殺されたのだ。愛する妻の命を奪うことで、侯爵の力をそごうと考えたのだろう。
その日から、侯爵家からは明かりが消えた。
さらにその一年後、リリーまでもが流行り病で命を落とす。
すでにその時、侯爵は正常な状態ではなかった。デルベ国内でも、侯爵家の強大に膨れ上がった力と国の暗部をすべて知る尽くしているエディオンを排除する動きが高まっていく。
その後の記憶は、男にはあまりない。
リリーが死んだあと、男はほとんどの時間をその墓の前で過ごしていたから。
その頃から侯爵は、領地の一角で恐るべき毒花の研究に没頭するようになる。
一面に咲く悪魔の花――。毒々しいという表現がぴったりなその花は、真夜中のわずかな時間だけ赤黒い花弁を広げ、闇にきらめく花粉を舞い上げる。
狂気を描いたようなその庭で、侯爵は日々を過ごした。その数年後、侯爵は息子に家督と悪魔の花の開発を引き継ぎ、国への憎しみと悲しみの中で死んでいった。
その後息子は結婚して娘を一人もうけたが、妻は精神を病んで自死し、あとには狂気と絶望にとりつかれた父親と幼い娘が残されたのだった。
その壊れていく様を見て、男は思った。自分と同じだと。
奪われ、失い、とり残されるその絶望と孤独とに耐え切れず、恨みや憎しみでかろうじて生きながらえているだけの、異形の化け物。
ならば、せめて最後まで見届けてやろう……。どうせろくな最期ではないだろうが、手向けに悪魔の花くらい供えてやる、と――。
この国へ来たのはほんの暇つぶしと、最期を見届けるためだった。
なのに、気が付けばこんなところでこんな馬鹿みたいな茶番を見せられている。目の前に広がるのは、あれほど疎まれ排除されたヴァンパイアが、人間たちにあたたかく囲まれている平和な絵だ。
「どうしてこんなに違うんだろうな、あの女と俺は。なぜあんなふうにへらへら笑ってられるんだ。どうせいつか追い出される。居場所なんてないんだよ、俺たちには」
今さら人間を信じるには、過ぎた時間は長すぎた。
人間の薄汚い裏ばかりを見せられ続けた男にとって、人間はもう簡単に壊れる脆く醜い生き物でしかない。
ヴァンパイアが取るに足らない存在なら、人間はただの汚いごみ屑だ。そしてそのどちらの血も引く自分は、誰よりも価値のない存在だ。
そう思っていたのに、この少女は違う。自分とは絶対的に違う。
ダンベルトが問いかける。
「お前は人間が嫌いか?」
「……どうかな。俺を拾ったのも、人間だったからな。拾った当人は、ただの行き倒れの犬でも拾ったくらいに思っていただろうが。でも救われたのは確かだ。ココアに釣られたんだよ」
「ココア?顔に似合わず、甘いものが好きなんだな」
思わず笑うダンベルトに「まさか。でも、その時は、な」と男は口元を歪ませる。
懐かしむような泣き笑いのようなその表情に、ダンベルトは思う。
――こいつは侯爵と似た者同士だったのか。どちらも孤独で、自分の周りから一人二人と大切なものが消え去っていく怖さを知っている。一人取り残される孤独と苦しさがこの二人を結び付けたのか……。でももしかしたらまだ、こいつには。
侯爵の言葉を思い出す。
ついに娘まで自分を見捨てたか、と。本当は父を思う愛情がそこには確かに存在していのに、それに気づくことができないほど、心を見失ってしまった哀れな父親だ。でももしその愛情にきちんと気づけていたら、運命は変わっていたかもしれない。
「お前にはいないのか?もう誰も。自分とこれからの人生をつなぎ止めるものは」
「つなぎ止める?」
男の脳裏にひとつの影が浮かぶ。
『一緒にココアでも飲もうよ』そういって手を差し伸べたあの少女とよく似た面差しの、一人の少女。
母を亡くし、父も自分から目を背け、その中で一人いつも寂しそうに、でも気丈に笑っていたあの少女。
リリーと同じように、自分に向けて優しく笑いかけてくれたただ一人の存在。
国を出る時、少女は男に言った。
『私はここで待っているから。ずっと待っているから』
なぜか自分にいつも親しげに話しかけてきて、嫌いなココアを差し出して一緒に飲もうと誘うおかしな少女だった。甘いものは嫌いだと何度言っても、二つカップが並ぶのだ。おかげでいつも飲み干すのに苦労した。
今頃どうしているだろうか。主を失くしたあの屋敷に一人取り残されて、それでもまだ気丈に笑っているだろうか。一人でココアを飲んでいるんだろうか。
夜に真っ赤な花を広げる、あの悪魔の花の美しく儚げな、だがどこまでも続く狂気の色を思い出す。
足元でつぶれる赤い花びらを踏みつぶすたび、夜の闇に舞い上がる輝く花粉。
もうあの闇の中にいなくてもいいだろうか?もう、光の当たる場所へ歩き出してもいいだろうか。
――あの少女と二人で。
「誰もいないのか?本当に」
何かを思い出したように瞳を揺らした男に、ダンベルトがもう一度問いかける。
「一人……。いるかもな。まだ生きていればだが」
男の口元には、先ほどまではなかったわずかな笑みが浮かんでいる。ほんの少し、そこに優しさを滲ませて。
「なら会いに行け。もし会えなかったらまたここに来い。俺が鍛え直してやるよ」
ダンベルトは、その表情にふっと笑って男のそばから去っていく。
一人になった男の目の前には、くるくると表情を変えながら楽しそうに笑うラルベルの姿がある。
人間とヴァンパイアか……。自分の集落は人間たちの手によって壊されたが、こんな半端なヴァンパイアのなりそこないでも、生きていける場所はあるのかもしれない。ともに歩んでくれる人間はいるのかもしれない。
――行ってみるか。あいつのところに。リリーによく似て少し気の強い、でも泣き虫な少女のところに。
「ねぇ、あなたも一緒に……あれ?あの人どこに行ったの?」
ラルベルが振り返り男に話しかけた時にはもう、ギリアムの姿はどこにもなかった。
ダンベルトは心の中でつぶやく。あいつも大切な誰かに会えるといい、と。あの男がこの国でしたことといえば、荷馬車を数台とダンベルトを襲ったことぐらいだ。まぁグンニルはあいつの仕業かもしれないが、その他には怪我人はいるとはいえ、どれもひどいものではない。大した罪には問えないだろう。ならば、もう一度チャンスをやるのも悪くない。
「ま、これが一番丸く収まるってやつかね。結局侯爵はデルベに送り返すことになったよ。この国であんな狂った男の面倒はみたくないってさ」
いつのまにか人の輪から離れて、ダンベルトの隣に並ぶイレウス。
「侯爵はどうしたかったんだろうな。たった一人の娘を置いて、こんな茶番をして結局自分がすべてを失っただけじゃないか。そんなに国が憎いなら、さっさと国を捨てて娘と旅にでも出たら良かったんだ。そうすればこんなくだらない結果を招かずに済んだだろうに」
「多分どうでもよかったんじゃないかな。デルベもこの国も自分も。何も残ってなかったんだよ、もう。結局国に食い潰されて終わりだよ。俺たちだって一歩間違えば同じだ」
銀髪の男も同じようなことを言っていた。自分にはもう何もない、と。だが、あの男は一人だけ誰かがいるとつぶやいていた。自分をこの世界に引き留めるひとつのものを。
ダンベルトにとっての引き留めるものは何だろう、と自身に問いかける。
この世界に自分を引き留める大切なもの。大切な存在は――。
「……腹をすかせた行き倒れのヴァンパイア、かな」
そうつぶやいて小さく笑うダンベルト。
その視線の先には、人の輪の中で楽しそうに、幸せそうに笑うラルベルの姿があった。




