闇に落ちた者の末路
ガウラは噂通りの人物であった。
神経質そうな青白い顔にひょろりとした長身の男で、どこか硬質な人形を思わせる。そしてそのしゃべり方はまるで物を相手にぶつぶつと独り言をつぶやいているような……。一言で言って、とっつきにくい。
だが今回の一件において、ガウラ博士の作り出したあの怪しげな色の液体はまさに勝負を決する一手であった。
「それであの液体は?」
目の前には先ほどの液体が、ゆらゆらとフラスコの中で揺れている。色は緑、というよりは苔色といったほうがいいだろうか。なんとも不気味な濁った液体である。
「タデルという名前の薬草でね、デルベに生息しているらしい。悪魔の花を無毒化するたったひとつの植物だよ。今朝船便が着いてね。これだけの液体を精製するのに苦労しましたよ」
銀縁の眼鏡のつるを人差し指の背で押し上げながら、忌々しげに愚痴るガウラ。イレウスはやれやれといった表情で、でもようやく一息ついたという表情で両の手を胸の前で組んでいる。
「タデルはコニアとはまったく逆の組成をしていましてね。まぁいってもわからないでしょうから細かい説明は省きますが、とにかく悪魔の花の毒性を無害化するただひとつのものなのですよ。手っ取り早く言えばこの植物からとれたしぼり汁が、悪魔の花の毒を分解したのです。あの瓶の中身は、それを濃縮したものです」
ダンベルトには化学的なことは一切分からないが、ガウラとイレウスとで対策を講じていたということか。
得意げなガウラの様子に、イレウスがこれみよがしに大きなため息をつく。
「でもそれは直接花粉にかけない限り、効果がないらしくてね。どうしようかと思ったよ。それにあのポケットに入っているかどうかは賭けだったからさぁ。撒かれた液体をみた瞬間顔色が変わったから、タデルだと分かって観念したようだけど」
イレウスがようやくいつもの口調を取り戻しつつ、肩をすくめて見せる。
「噴霧器なんて用意する時間なかったんですよ。まったく人使いの荒い……」ぶつぶつと不平をこぼすガウラに苦笑するダンベルト。
「しかしよくそのタデルという植物を突き止めたな。デルベにしか生息していないんだろう?どこからその情報を?」
「それなんだよね。実はこの情報主は、エディオン侯爵の一人娘なんだよ。名前をリリアというんだが、父を止めてほしいとのたっての頼みでね。大量のタデルとその精製方法を、ガウラ氏のもとに持ち込んだのさ」
――だからあの時侯爵はついに娘にも見捨てられた、と言っていたのか。
「娘は知っていたのか?父親が悪事に手を染めていることを」
「遺書めいた手紙が残されていたらしいし、役人連中から今回の一件について色々と聞いて、父親が死ぬ覚悟で何かをしようとしようとしていると悟ったようだ。タデルに関しては、娘が屋敷から研究文献を探し出したらしい。現侯爵家でタデルも栽培されていたようだ」
「毒と対になるものもあわせて研究していたのか」
ダンベルトは驚きの声を上げる。
その娘は自分の父が隣国で国を揺るがすような犯罪を首謀していると知って、どんな思いだったろうか。父親を恨んだろうか。それとも……。
「爵位を継いで結婚したものの、数年後に妻は自殺。一人娘のリリアは、別邸で数人の使用人たちとともに暮らしていたようだ。不自由のない暮らしぶりだったようだが、親子の愛情には飢えていたかもな。年々精神を病んで壊れていく姿に心を痛めていて、完全に壊れてしまう前に止めて欲しかったようだ。妻が自殺する前は子煩悩だったという話だからな。悪い父親ではなかったのだろう」
「娘に裏切られたと思った侯爵は、それを知って壊れてしまったというわけか。娘の愛は父親には届かず、か。どこまでも哀れだな」
――両親を奪われ、国から疎まれ、娘からも見放されたと思い込んで、最後には自分自身を失ったというわけか。
しかし少なくともその娘の父への思いが、この国を救った。大量殺戮者になる運命だけは免れたというわけだ。それだけが救いかもしれない。
だが、一人残された娘のこれからを思うと、ダンベルトは胸が痛む。
まだ十八歳の少女だという。エディオン侯爵家という名はおそらくこの先もずっと、少女についてまわるのだろう。それはきっとどこまでも重く、デルベにいる限りついてまわる。だからと言って後ろ盾もなく国を出て一人生きていけるほど、貴族の娘は強くはないだろう。
「なんにしてもその娘とガウラ博士のご尽力によって、この国は救われたというわけですね。この国を守る任を預かる者の一人として、御礼申し上げます」
ダンベルト、イレウスが揃い、最敬礼をとってみせるとガウラ氏はまんざらでもない様子で、でもどこかくすぐったそうな表情でぷいっとそっぽを向いてしまった。
思わず下げたままイレウスと顔を見合わせて、笑いをこらえるダンベルトである。
その後ガウラ氏の研究室を辞して、二人は地下牢へと足を運ぶ。
カツン、カツンと石造りの牢の階段を一歩ずつ降りていく。二人の足取りは重い。
「ご苦労様です。こちらです」
見張りの衛兵に案内され、その男の牢へと向かう。
ここは王族や高位の貴族が収監される、いわばいわくつきの牢だ。
「……声が聞こえるか?エディオン侯爵」
牢の中の男からは言葉らしい言葉は返ってこない。かわりに、ぐぅぅ、とかあぁ、といった言葉とはいえないうめき声が聞こえてくるだけだ。もはやその顔には、穏やかな中に狂気を忍ばせていたあの表情はない。
イレウスもまた、その姿を言葉なく見つめている。
最後の手段である悪魔の花の花粉を無害化されたと知った時に、長年積み上げてきた恨みや憎しみが一度にはじけてしまったのだろうか。自分の精神と引き換えに、この男はすべてを失ったのだ。
「お前の娘はお前を裏切ったわけでも、見限ったわけでもない。お前の手が悪事に染まるのを止めたかっただけだ。これ以上、お前が壊れないように……。わかるか?お前は娘に思われていたんだよ。もともとお前はこうなることを分かっていたんじゃないのか?でなければ、タデルを焼き払って国を出てしまえばよかっただろう?そうすればお前を止めるものはなかったはずだ」
返事はない。相変わらず意味をなさないうめき声だけが地下牢に響く。
「……また来る」
ダンベルトはそう小さくつぶやくと、重い気持ちを引きずるようにしてイレウスとともに地下牢を出る。
もしかしたらエディオン侯爵は、死に場所を探していたのかもしれない。これからの先の人生と自分をつなぎ止めるものが、もう自分の手にはないと思ったのかもしれない。
そして、人生の幕引きに娘にその引導を渡して欲しかったのだろうか。だとすればなんと残酷だろう。
「少しうちへ寄って飲んでいくか?」
イレウスの誘いをダンベルトは断って、町へと戻る。
ようやく事件は終わった、のだろうか。ひとつ残っているとすればエディオン侯爵家の私兵であるあの男だが、雇い主がああなった今、どこにいるのか所在もつかめない。あの言いようではおそらく忠誠心から仕えていたわけではないだろう。今頃はすでにデルベへ戻っているかもしれない。この国にいる限り、追われる立場なのだから。
ダンベルトは、夜空を見上げて深い息をつく。
「ラルベル、終わったよ。もうここへ戻ってきて大丈夫だ。お前は今頃、何をしているのかな……」
ダンベルトはラルベルのあのはじけるような笑顔を思い浮かべながら、どこか離れた場所にいるラルベルに思いをはせるのだった。
その頃、ヴァンパイアの集落では――。
ラルベルはしなびていた。しなびる、という表現でなければ干からびているといってもいい。
ヴァンパイア仲間たちは、ラルベルの居場所がここにはもうないことを知っていた。
ラルベルにはもう、ここでの暮らしは寂しすぎた。
ものがないことが寂しいんじゃない。分かり合える、分かち合える相手がいないというのは寂しいものだ。だからこそ、ヴァンパイアたちもこうして仲間同士身を寄せ合って暮らしているのだから。
家族同然に暮らしてきた仲間たちだからこそ、心から願った。
――一日も早くラルベルがあの町に戻れますように。そして、あの町でいつまでも穏やかに暮らせますように。
ヴァンパイアの集落の夜は更けていく。
ダンベルトのいる町の夜も更けていく。
二人がまた会えるのは、もう少しあとの話――。




