0000 Reconnaissance 偵察
夏ももう終わりだと思った。
だから足下の空き缶を力任せに蹴っ飛ばした。
耳鳴りがするほどのしじまが破れて、赤々しい空の下、間抜けな発射音が校庭に小さく響いた。暮れ方、一九〇〇時ちょっと前――誰もいない運動場で、幸徳明海はたったひとり夏の終わりと戦っている。西の方では熟れきった太陽が苦しげに歪みはじめていて、もはや自重をすら支えきれそうにない。間もなくぐじゅぐじゅに潰れて夜の向こう側に落果するだろう。
見上げる夕空、空っぽの校庭。
むかしテストで読めなかったその漢字の意味が、やっと理解できた。
明海は空しかったのだ。
夏休み最後の一日。
今日という日は、クラスの悪友たちと「時間無制限一本勝負FIFAって何の略? 夏休み記念杯」を開催することに決まっていた。
いっとう近所のたっちゃんが去年のW杯モデルのキッズボールを用意してくる手筈だったし、ゼッケンとラインカーはミステリオタクの陽介と体操クラブの教子が体育倉庫から失敬することになっていた。今朝ラジオで天気予報を確認したときだって、通り雨如きに遠慮することはない、今日は特別のお楽しみだ、そう思っていた。
夕立がやむと校庭へ急いだ。
ところが、一番乗りはいいものの、待てど暮らせど誰も来ない。
今日は特別のお楽しみ、だからみんな来る、きっと来る。往生際悪くそう信じて待ち続けたけれど、下校時刻を告げる物悲しいメロディが聞こえる頃にはいやでも諦めがついていた。
どうしてこの記念すべき日に、選手団欠席で試合不成立などという体たらくなのか。
理由は単純明快だった。
夕立のあいだ鳴りっぱなしだった空襲注意報。
戦況の落ち着いてきた近頃では、最早半年に一度あるかないかのレアものだった。そうでなくとも横須賀の住人はもともと防衛意識が高い。まともな親なら今日一日は様子を見て、子どもを表に出させない。とっくに知れたことだった。今日はもう誰も来ない。
当然。
当然なのだ。
その当然が気に食わない。
カモメどもの投下していく汚い爆弾を除いて、この町に爆弾が落ちてきたことなど、明海が生まれてからただの一度もありはしない。事実上の騒音公害に成り下がってしまった空襲注意報ごときに、夏休み最後の神聖な乱痴気騒ぎを邪魔する力がまだ残っていようとは、明海にはどうしても信じられなかったのだ。
明海はがばと大空を睨みつけ、ちきしょう、と毒づいた。
二筋の汗が頬を伝う。汗ったら、汗なのだ。
食いしばった奥歯が、胸内のなにかと一緒になって、みしりと音を立てた。
――どいつもこいつもビビりばかりだ。あしたがっこうにきたら、みつけたじゅんにけりをいれていって、どこかにきんたまおっことしてきてないかたしかめてやる。もしこれでおりこうさんにもしゅくだいをすませたふとどきものがいてみろ、そのときはなさけようしゃなどいるものかチョークまみれのこくばんけしでそのアホづらをぱふぱふして――
「あ、いたいた。おーい、明海」
考えるより先に体が動いた。怒っていたわけではない。背後からのキラーパスにファンタジスタの本能が鋭く反応し、振り向きざま渾身のボレーシュートを打ちこんだ、だけだ。
キーパーチャージがゴールデンボールにクリーンヒットでカカも真っ青の黄金の右足だった。
少年はダンゴムシのように体を丸めて突っ伏したまま微動だにしない。丸めた背中を見下ろして一分が過ぎ、二分が過ぎて、闇が水位を上げていく。
「だ、だいじょぶ?」
「……………き……てき……」
「なに? はまも、なに? よくきこえない。きゅうきゅうしゃ?」
「……金的は……だめ……だめ……」
「はまも、ごめんね。でも、よかったね、ついてて。はまも、ちゃんとついてるよ」
「……なに……が……」
「あしたは、はまもだけはけらないであげるから。よかったね、ごめんね」
ようやく生気を取り戻した少年は、仰向けになって大の字に身体を伸ばした。
制空権は既に夜の手にあった。
少年は眼を細めて、横須賀の星月夜を全身に浴びた。片隅に突っ立った非常灯のかすかな遠映えで、体操着の白い胸元がぼんやりと明らんでいる。4―2 浜本浩隆。新学期に向けて洗濯しなおしたばかりなのだろう、お日さまの匂いがした。
明海もそのまま仰向けざまに脱力して、少年のとなりに寝ころんだ。厚手の体操着が泥水を吸い、体温が大地に逃げだしていく。パンツまで浸み上がってきた冷やっこい気持ち悪さにくすぐったくなってけらけら笑うと、連られて少年も吹き出した。
二人並んで地球を背負い、ひとしきり笑った。
それから明海は、胸のあたりに詰まった汚穢をことばに丸めて吐き出した。
「……待ったって誰もこないってわかってた。でも、くやしかったの」
汐風学区最強の女が弱音を吐くのは浜本浩隆の前でだけで、それは保育園から変わらない。
こういうとき浩隆は何も言わない。明後日のほうを向いて黙って聞いている。
よくよく考えてみれば浩隆だって他の連中と事情は同じ。ここへは親の目を盗んで抜け出してきたに違いない。誰もこないとわかっていたとは、明海の大嘘かもしれない。
しばらくして、声変わり前の男の声が明海の耳に届く。
「注意報のあとはたいてい哨戒機が飛ぶもんだけど、なんか今夜は飛ばないみたいだね」
浩隆が身じろぎすると、夏の太陽の残り香が漂い出る。
「武山に新型のオライオンが配備されたばっかでさ、まだ誰も見たことないんだけど、今日なら飛ぶかもって思った。学校なら哨戒コースの真下だし、それで見に来たんだ。志郎のお兄ちゃんからの又聞きなんだけど、コールサインはバイオレットっていって、もうアラートハンガー入りしてて、だからつぎ注意報があったら飛ぶかもって」
見たかったなあ、新型、そう言って浩隆は体を起こし、右腕、左腕と柔らかに伸びをした。
明海は頬が緩むのを感じた。
明海は知っているのだ。
一週間と二日前に武山入りしたP-3Cは沖縄米軍が使っていた旧型機だということを知っているのだ。だからコールサインもブラックオライオンだし、そもそもそのロートル機じたい補給のためにタケヤマに一時寄港はしたものの、とっくの昔に米本土へ帰投しているということも知っているのだ。だいいち、志郎の兄貴は横須賀総監部のいち陸警隊員であって、ジョイントフォース隷下のタケヤマ混成航空施設とは下の毛一本ほどの関係もない。
浩隆のあいかわらず下手くそな嘘だった。ありあわせのことばだけで作った気の利かない絆創膏。すぐはがれるくせに、大した効能もない。
――でも、ばんそこっていうのは、はってくれるひとがいることがだいじなんだ、きっと。
一息ついて、大の字から勢いよく立ち上がる。
大胡坐でいた浩隆も続いて、湿り気と一緒に太陽の香りが舞い上がった。
夏は死んだ。でも、その欠片を残していった。だから、明海はもう夏を引きずってはいない。
ふたりは泥水を滴らせながら、くしゃみをしいしい校庭を後にした。
ひとつ、汐風小に通う者なら誰もが知っている怪談がある。
宇宙人の仕業か新種の妖怪の悪戯なのか、ある年の始業式の朝、グラウンドに、ひとのかたちをした小さな水たまりがふたつ、仲睦まじく並んでいたというのだ。
のちに「ゾーリンゲン事件」と命名され、尾鰭どころか足鰭胸鰭まで生えて町内の小学生をちびらせて回ることになる汐小七不思議のひとつが生まれた理由は、ちいさなふたりのちいさな思い出なのだけれど、それを知るのは、この世にたったふたりしかいないのだ。




