一話 黒猫のミー
アグリ子爵令嬢であるエレンの日課は庭を見て回ることである。
貴族の娘として蝶よ花よと育てられ外界との関わりを絶たれている彼女にとっては、例え小さな庭だとしても心安らぐ数少ない場所なのだ。
いつもの様に庭で育てられている花を見て回る彼女だが、今日はその顔に不安が浮かんでいた。
彼女の父は極めて優秀だ。
その器は子爵に収まるものではなく、アウロシュルツ家を伯爵に陞爵すべくありとあらゆる手段をとっていた。
寝る間を惜しみ働く父の姿には心配こそすれど、邪魔をしようなど思いはしない。
だが彼女にもこればかりは譲れないというものが存在した。
「エレン様、お手紙が届いております。」
呼ばれて振り返ると、使用人が此方を伺う様に立っている。
彼女は不安げな顔を急ぎ隠し差し出された手紙を受け取った。
封は既に解かれており何者かがこの手紙を先に見たことが明らかだが、そんなことは気にもならない。
先程とは打って変わった笑顔で手紙を取り出し目を通す。
初めは嬉々として読んでいた彼女は、次第に表情を曇らせる。
思わず涙が溢れそうになるが既の所で絶え手紙の送り主に想いを馳せる。
「あぁ、レオ様。どうして会う事すら叶わないのでしょう...」
悲壮に暮れる彼女の目に留まったのは猫だった。
「どうしてこんな所に猫が...」
王都において猫は良き隣人とされ、害する事を禁じられている。その上個人的な趣味で餌をやる人間も少なくない。
猫の楽園と化した王都だがそれでも野良猫は毛並みが良い訳ではなく、今目の前にいる猫は丁寧にブラッシングされた誰かの手付きである事が伺える。
美しい黒の毛並みにどこで付けたのか葉っぱを添え、此方を静かに見つめている。
本来ならば使用人を呼び丁寧に退去して貰うところだが、傷心しているエレンはつい一歩踏み込んでしまった。
「猫さん...貴方は自由で楽しそうですね...」
ついそう溢してしまう。
猫が自由なのは普通の事だし、貴族の娘である自分は自由と引き換えに様々な特権を得ているというのに。
そんな当たり前のことを口にしてしまう自分に嫌気が差す。
「そうでも無いのニャ。」
どこからか声が聞こえた。
いや、分かっている。私がおかしくなったわけでなければ目の前の猫から聞こえたはずだ。
しかし如何に広い世界といえど喋る猫は見た事も聞いた事も...いや、そう言えば風の噂で喋る子猫なるものを聞いた記憶が。
「さっきからおみゃーの様子は見させて貰ったにゃ。にゃに、皆まで言うでにゃい。恋の悩みだにゃ?。」
うんうんと一人で頷いている。
本人は格好のついたイメージなのかもしれないが、黒猫が頭を振っている姿はそれなりに滑稽だ。
笑いを堪えているのに気づいたのか、或いは悦に浸るのに満足しきったのか。元の表情を取り戻し分かったような態度で提案してくる。
「みゃあ、ミーに相談すると良いにゃ。」
その姿が愛らしく、汚れるのも厭わず抱き抱えてしまう。
「む。もしかしてミーの事ただのネコだと思っているんじゃあにゃいか?」
やれやれと言った様子で腕から抜け出す。
エレンの足を踏み台に大きく飛び、クルリと回転するとそこには黒い髪の人、それも猫の耳の付いた獣人が立っていた。
「えぇぇぇぇ!」
黒い髪を分けて生えた特徴的な耳は今では劇的に数の減った獣人の証である。
外見から伺える年齢の割には少し小柄な体躯と、キリッとした目に縦長の瞳が人の姿でも猫の面影を持たせている。
エレンの驚く姿を見てむっふふと息が漏れるほど満足しているようだ。
そのまま右手をまっすぐとこちらに向けてこう言った。
「美味しいお菓子を用意するのニャ!」
砂糖は貴重品である。貴族といえども、使う金ばかりなエレンの家ではちょっとした贅沢品だ。
その砂糖をたっぷりと使ったクッキーが次から次に口の中に消えていく。
お嬢様であるエレンはまだしも、その使用人達はそろそろ冷や汗が垂れて来そうだった。
そんな様子を察したのか、また一枚手に取った駄猫の手を制す。
「あの、猫さん?私はまだ貴方のお名前も聞いていないのですが。」
ゴゴゴと背後から滲み出るオーラに思わず咽せる猫獣人。
バンバンと胸を叩き、注がれた紅茶を一息に飲む。
「ミーの名前はミーにゃ。お散歩をしてたらため息が聞こえてにゃ、思わず来てしまったという訳だにゃ。」
そう話すと、またクッキーに手を伸ばすが今度は流石に遠慮したのか二枚だけを持って行った。
「ミーさんですか。」
「ミーでいいにゃ。」
「私の名前はエレンです。よろしく、ミー。」
何故こんなにも無礼な猫相手に礼儀を尽くすのか。
それは猫の首飾りについた宝石の価値を見抜けたからである。並の宝石では無い、相当な稼ぎか信頼が無ければ買おうとする事すら難しいような一品だろう。
そんな物を目立つ首飾りにするという事は彼女の後ろ盾は上流階級の可能性が高い。
それに貴族の家に無断で侵入し、ましてやその屋敷の令嬢と一緒にお茶をするなどまともな神経の持ち主では無理だ。そのような横暴を許される環境で育った真のお嬢様なのかもしれない。
「そんにゃことよりも、おぬし悩みを抱えているんじゃ無いかにゃ。それも恋の悩みを。」
にゃっと真剣な目で見つめられると、何故だかわからないが初めて会ったこの人に話してもいいのではないかという気がしてくる。
「私にはお慕いしている方がいるのですが。」
真剣な目をきらきらと輝かせ野次馬根性丸出しだったが、カップの紅茶に目を落とすエレンには知らぬことであった。
「父はその相手との結婚を認めません。ヴァルタット伯爵の次男との結婚を強制してくるのです。」
「勿論、他ならぬ父の言うことです。家の為にはその方との結婚が最善だと分かっています。しかしどうしても諦めきれず、せめて最後に一度だけでもお会いしたいとお送りした手紙でさえ父の手が入り、彼は我が家からの圧力で会いに行けそうに無いと言うのです。」
エレンは話しているだけで溢れてくる涙を止められそうになかった。
ミーは美しい瞳でそんな彼女をじっと見つめる。
そして、何かを決めたのか口を開いた。
「エレン、明日は暇かにゃ。暇にゃらミーと一緒に出かけないかにゃ。」




