第70話 文化祭当日、校門前から少しだけ嫌な予感
文化祭の朝は、いつもの登校時間とは少し違う。
まだ空気に眠気が残っているのに、校門の向こうだけが妙に明るい。
昨日の夕方まで準備途中だった看板が立ち、正門には飾りつけがあり、昇降口のあたりでは実行委員らしい生徒たちが早口で何かを確認している。
学校なのに、学校じゃない。
真白は校門の手前で、一度だけ足を止めた。
早めに来たつもりだった。
それでも、すでに人は多い。
在校生。
保護者らしい人。
卒業生らしい人。
先生。
準備のために走っている実行委員。
そして――少しだけ、学校の空気に馴染んでいない人。
真白は、その違いを見つけてしまった。
別に派手な格好をしているわけではない。
むしろ、普通に見える。
ただ、視線の動きが違う。
校舎を見る。
掲示を見る。
人の顔を見る。
何かを探すみたいに、少しずつ視線を移している。
その見方に、真白は覚えがあった。
配信イベントの会場で、出演者を探す人。
ライブ会場で、関係者導線を気にする人。
何かを“見に来た”人。
「……」
嫌な予感、というほど大げさではない。
でも、少しだけ胸の奥が重くなった。
「真白」
背後から声がした。
振り向くと、澪がいた。
いつもより少し早い時間なのに、もうきちんと制服を整えている。
その顔は平静だが、目だけは真白と同じ方向を見ていた。
「おはよう」
「おはよう」
「……見た?」
「見た」
「だよね」
それだけで通じた。
校門前の人影。
少しだけ学校外の視線。
まだ何も起きていない。
でも、ただの文化祭の朝とは少し違う。
「何も起きないといいね」
真白が言うと、澪は少しだけ笑った。
「何も、は無理じゃない?」
「昨日も同じこと言った」
「文化祭だから」
「予定外を予定する行事」
「木乃葉さん、地味に名言残してるね」
笑いながら言うと、少しだけ肩の力が抜けた。
けれど完全には抜けない。
今日、この学校には外の人が入る。
その事実だけで、いつもの教室の壁が少し薄くなった気がした。
◇
校門をくぐると、すぐにさやかがいた。
腕章をつけ、バインダーを持ち、すでに実行委員として戦っている顔だった。
「おはよう」
真白が声をかける。
「おはよう。二人とも早いわね」
「委員長こそ」
「私は集合が早まったから」
「もう疲れてない?」
澪が聞くと、さやかは一瞬だけ黙った。
「疲れてるけど、まだ序盤だから認めない」
「それはもう認めてる」
真白が言う。
「言わないで」
さやかはそう返してから、校門の外へちらりと視線を向けた。
「……少し多いわね」
「やっぱりそう思う?」
澪が聞く。
「思う。まだ一般入場前なのに、校門付近で待ってる人が多い」
「学校関係者じゃなさそうな人もいる」
真白が言うと、さやかは小さく頷いた。
「先生たちも見てる。だから変にこちらから動かなくていい」
「先生たちも?」
「風間先生が、朝から校門付近を一回見てた」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ息を吐いた。
「やっぱり見てるんだなって」
「見てる。かなり」
さやかが、少しだけ苦笑する。
「だから、今日は本当に無理しないで。何かあったら先生か実行委員に回して」
「うん」
「一ノ瀬さんも、朝倉さんも」
「わかってる」
澪が答える。
「わかってるけど、念押しされると少し安心する」
真白が言うと、さやかは一瞬だけ表情をゆるめた。
「それならよかった。念押しした甲斐がある」
その声は、いつもの委員長だった。
学校の現実を支える人の声。
真白は、それだけで少し救われた。
◇
A組へ入ると、教室はすでに半分だけ文化祭になっていた。
机は動かされ、掲示は貼られ、入口には手書きの案内がついている。
昨日まで準備途中だったものが、朝を越えたことで“本番の顔”になっていた。
「おはよー」
ひかりが振り返る。
彼女はすでに腕まくりをして、飾りの位置を直していた。
「早いね」
真白が言う。
「寝てない」
「だめじゃん」
「違う。寝たけど、脳が寝てない」
「もっとだめじゃん」
「褒めてる?」
「違う」
「でも元気」
「それは見ればわかる」
教室の奥では絵麻が小さなカードを並べている。
木乃葉は机に伏しているが、今日はちゃんと来ていた。
音々はスピーカーの前で、少しだけ首を傾げている。
「木乃葉さん、来たんだ」
真白が言う。
「人類として」
「えらい」
「褒めてる?」
「かなり」
「なら起きる努力をする」
「今して」
ひかりが笑う。
その笑いが、いつも通りで、少しだけ安心した。
「外、どうだった?」
絵麻が静かに聞く。
真白は少しだけ言葉を選んだ。
「人が多い」
「学校っぽい人と、そうじゃない人が混ざってる?」
「うん」
「そっか」
絵麻は、それ以上聞かなかった。
でも表情だけで、ちゃんと受け取っていた。
音々がスピーカーの位置を直しながら言う。
「廊下の音も、いつもより外が混ざってる」
「音でわかるの?」
ひかりが聞く。
「わかる」
「強いなあ」
「褒めてる?」
「かなり」
「受け取る」
そこで、A組のドアが開いた。
長谷川琴葉と鳴海詩音だった。
◇
「おはよう」
長谷川が入ってくる。
いつもより明るい声。
けれど、目元に少しだけ緊張がある。
鳴海はその後ろで、静かに会釈した。
「おはよう」
真白が返す。
「二人とも早い」
「B組も準備あるから」
長谷川が言う。
「でも、その前にこっち寄った」
「何で?」
ひかりが聞く。
「なんとなく」
「うわ」
絵麻が笑う。
「何その“うわ”」
「今の、ちょっといい」
「褒めてる?」
「かなり」
長谷川は笑ったが、すぐに少しだけ声を落とした。
「外、見た?」
「見た」
澪が答える。
「やっぱり?」
「うん」
「私目当てっぽい人、たぶんいる」
「……」
教室の空気が一段だけ落ち着く。
長谷川は肩をすくめた。
「少ないと思う。多分、ほんとに数人。でも、わかるんだよね」
「見られ方?」
真白が聞く。
「そう。学校の文化祭を見に来た人じゃなくて、私が学校でどうしてるかを見に来た人」
「……」
「嫌?」
鳴海が短く聞いた。
「うん」
長谷川は少し迷ってから頷いた。
「今日は、ちょっと嫌」
その言い方が、変に飾っていなくてよかった。
ひかりがすぐに言う。
「じゃあ、基本ひとりにしない」
「昨日の会議」
絵麻が頷く。
「うん」
さやかはいないが、たぶん聞けば同じことを言うだろう。
鳴海も小さく言った。
「私も、できるだけ一人で廊下に出ない」
「その方がいい」
音々が言う。
「今日の廊下、声が拾われやすい」
「……」
「何その、音響的に言われると妙に怖い感じ」
長谷川が言う。
「でも助かる」
鳴海は静かに答えた。
真白は二人を見ながら思う。
始まったのだ。
昨日までの準備ではない。
今、もう本番が始まっている。
◇
一般公開の時間が近づくにつれ、校舎全体の音が変わった。
廊下の足音が増える。
階段のざわめきが広がる。
どこかのクラスから呼び込みの声が聞こえ始める。
A組も、少しずつ本番の空気に入っていった。
「入口、準備いい?」
ひかり。
「いい」
絵麻。
「掲示」
真白。
「曲がってない」
澪。
「木乃葉さん」
ひかり。
「概念的に起きてる」
「物理的に起きて」
「努力する」
「今」
「はい」
木乃葉がゆっくり顔を上げる。
そのあまりの遅さに、教室が笑った。
笑える。
まだ笑える。
真白は、それを少しだけ大事に思った。
そのとき、廊下から来場者の声がした。
「ここ、二年の企画?」
「そうみたい」
「へえ、結構ちゃんとしてる」
普通の声。
普通の来場者。
けれど真白は、思わずそちらを見てしまう。
「真白」
澪が小さく呼んだ。
「うん」
「見すぎない方がいい」
「……そうだね」
澪の声は落ち着いていた。
でも、澪自身も少しだけ緊張しているのがわかった。
学校の中に、外が入ってくる。
その感覚は、想像していたよりずっと生々しかった。
◇
午前の早い時間は、まだ大きな問題は起きなかった。
A組にはぽつぽつ来場者が入り、掲示を眺め、感想を言い、出ていく。
ひかりが軽く案内し、絵麻が説明を補足し、さやかが時々顔を出して全体を確認する。
真白は奥側で、必要なときだけ紙を渡したり、案内をしたりしていた。
普通に動けている。
普通に文化祭をしている。
それが少しうれしかった。
だが、安心しかけたころ、長谷川がA組の入口に現れた。
「ごめん、少しだけ」
「どうしたの?」
真白が聞く。
長谷川は笑っていた。
でも、笑い方がいつもより少し硬い。
「B組の前、ちょっと人が増えてきた」
「……」
「私を見る感じの人?」
澪が聞く。
「たぶん、私の方」
長谷川は軽く肩をすくめる。
「まだ大丈夫。でも、ちょっと息抜き」
ひかりがすぐに言った。
「座る?」
「いい?」
「いいよ。A組の息抜き席、今日は稼働中」
「何その席」
「鳴海さんの定位置」
「勝手に制度化しないで」
鳴海が言うと、長谷川が少し笑った。
その笑いで、空気が少し緩む。
長谷川は鳴海の隣に座った。
「やっぱり、来るね」
「来るね」
鳴海が答える。
「隠してないのに、今日はちょっと隠れたい」
「……」
「何その顔」
長谷川が真白を見る。
「いや」
真白は静かに言った。
「その言い方、かなり本音だなって」
「うん」
長谷川は頷く。
「本音」
そのまま、少しだけ沈黙が落ちた。
でも、嫌な沈黙ではない。
誰も無理に笑わせようとしない。
それが昨日決めたことだった。
◇
長谷川が少し落ち着いたころ、鳴海が立ち上がった。
「私、B組見てくる」
「一人で?」
真白が聞く。
「廊下だけ。すぐ戻る」
「なら私も行く」
澪が言った。
「……」
「何その顔」
鳴海。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、自然だったなって」
「ひとりにしない」
澪。
「昨日の会議」
「そう」
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海は少しだけ笑った。
澪と鳴海が廊下へ出ていく。
長谷川はそれを見送り、ぽつりと言った。
「ありがたいね」
「うん」
真白も頷いた。
「かなり」
文化祭はまだ始まったばかりだ。
けれど、昨日決めたことはちゃんと効いている。
ひとりにしない。
声を張らせない。
会話で流す。
危なかったら先生。
あとで無理に元気づけない。
全部、ただの作戦ではなく、学校で普通にいるための約束だった。
◇
昼前になるころ、校門の方から新しい人の流れが入ってきた。
それまでより、少しだけ外の音が濃くなる。
真白はA組の入口近くで、そのざわめきを聞いた。
来場者の声。
知らない足音。
誰かのスマホの通知音。
笑い声。
廊下を歩きながら何かを探す気配。
そして、遠くで誰かが言った。
「二年B組ってこっち?」
その瞬間、真白の背筋がほんの少し伸びた。
B組。
長谷川が顔を上げる。
鳴海も廊下の方を見る。
澪が静かに位置を変える。
まだ何も起きていない。
でも、嫌な予感は、少しだけ輪郭を持ち始めていた。
真白は小さく息を吸う。
文化祭当日。
校門前から始まった違和感は、いよいよ廊下の中へ入ってきた。




