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『学校では誰にも知られずに卒業したい 〜うちのクラス、隠し事が多すぎる〜』  作者: 御上常陸介寛浩


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第2話 教室では無口、コメント欄では無双

翌朝、起きた瞬間に真白は思った。


 ――昨日の配信、夢じゃなかったんだ。


 ベッドの中で天井を見上げたまま、数秒固まる。


 昨夜の配信終了後、自分は確かに五分くらい枕に顔を埋めて暴れたし、さらに十分くらいベッドの上で「無理」を連呼していた。冷静になろうとして白湯を飲み、スケジュール表を見直し、結局もう一度「無理」と呟いてから寝た記憶がある。


 だから夢ではない。


 夢ではないのだが、それにしたって現実感が薄い。


 スマホを取る。通知が積み上がっていた。事務所連絡、マネージャーからの朝一メッセージ、配信の切り抜き報告、SNSの反応、そして昨夜のアーカイブを見たファンの熱量の高すぎる感想。


 トレンド入りの単語まで見えて、真白はそっと画面を伏せた。


「朝から重い……」


 小さく呟いて、布団から抜け出す。


 洗面所で顔を洗い、鏡を見る。そこには、配信のあとに情緒をぐちゃぐちゃにしていた女ではなく、いつもの一ノ瀬真白がいた。黒髪は整えられ、表情は薄い。感情の振れ幅を極力小さくした、学校用の顔だ。


 この切り替えだけは、我ながら職人芸だと思う。


 制服に袖を通し、朝食をきっちり食べ、鞄の中身を再確認し、家を出る。駅までの道、電車の中、乗り換え、校門。生活の流れに身を乗せているうちに、少しずつ頭が学校用に整っていく。


 教室に入る前には、ほぼいつもの自分に戻っていた。


 少なくとも、そう思っていた。


     ◇


「おはよー」

「おはよう、昨日のあれ見た?」

「見た見た、めっちゃやばくなかった?」

「年末やばいよねー、楽しみすぎる」


 朝の教室は、昨日より少しだけ騒がしかった。


 十一月でも十二月でも、年末が近づくと人は浮つく。特番だのランキングだの音楽番組だの、世の中全体が「今年も終わるぞ」という雰囲気になるからだ。二年A組も例外ではなく、芸能ニュースや冬休みの予定やらであちこちがざわついている。


 真白は自分の席に着きながら、あくまで何も関係ありませんという顔を作った。


 昨日の配信のことを思い出すな。トレンドのことも思い出すな。紅白の文字を脳内で再生するな。平常心。平常心でいけ。


「一ノ瀬さん、おはよう」


 前の席の女子が振り返る。


「……おはよう」


 短く返す。いつも通り。よし。


「ねえ、一ノ瀬さんって年末の音楽番組とか見る?」

「……たまに」

「今年さ、いろいろ豪華って噂だよねー」

「そうなんだ」


 平坦に返す。よし。普通。たぶん普通。


 しかし内心は全然普通ではなかった。


 こういう何気ない話題が一番怖い。別に誰も真白を疑ってはいない。芸能の話をしているだけだ。でも、本人がやましいことを抱えていると、すべての会話が地雷原に見える。


「一ノ瀬って、そういうのあんまり見なさそうだよね」


 斜め後ろから声がして、真白はわずかに肩を揺らした。


 振り向くと、柊木乃葉が半分眠ったみたいな顔で教科書を立てていた。今日も朝から眠そうである。いや、朝だから眠そうなのか。どちらでもいいが、とにかく眠そうだ。


「見なくはない」

「へえ」

「……なに」

「いや、なんとなく。仙人みたいな生活してそうだったから」

「してない」

「そっか」


 木乃葉はそれ以上広げず、また本に目を落とした。


 相変わらず省エネで助かる。助かるが、たまにこういう刺し方をしてくるから油断できない。


 真白は前を向き直る。


 教室の反対側では、朝倉澪がバスケ部の後輩らしき女子に囲まれていた。


「朝倉先輩、今日の昼練メニューって昨日と同じですか?」

「基礎は同じ。最後だけ少し変える」

「了解です!」


 きびきびしたやりとり。よく通る声。誰に対しても対応が安定している。朝から眩しい。


 真白は、ほとんど無意識に目を逸らした。


 昨日までは、ただの「同じクラスのすごい人」だった。バスケ部主将で、学内でも有名で、たぶん社交性もあって、こっちとは別世界の人種。


 けれど今は、その澪の姿を見るたびに、頭の隅で別の可能性がちらつく。


 ――いや、まさかね。


 昨夜、資料を見て勝手に連想しただけだ。肩を回す癖がある女子高生なんていくらでもいる。スポーツをやっていればなおさらだ。声だって、澪の普段の声とMIOの歌声は印象が違いすぎる。ステージや録音では、音の見え方なんていくらでも変わる。


 落ち着け。勝手に同級生を国民的歌手認定するな。失礼にもほどがある。


 そう自分を叱って、真白はノートを開いた。


 そのときだった。


「一ノ瀬さん、これ昨日のプリント」


 横からふわっとした声がして、紙が差し出される。


 桃園絵麻だった。柔らかい栗色の髪を肩口で揺らしながら、どこかぼんやりした笑顔を浮かべている。


「あ、ありがとう」

「ううん。先生が机の上に置いてたやつ、落ちそうだったから」

「助かった」

「よかった」


 それだけ言って、絵麻は自分の席へ戻る。


 歩き方までのんびりしていて、見ているとこちらの時間感覚がおかしくなりそうな女子だ。美術の課題だけ異常に完成度が高い以外は、基本的にふわふわしている。いや、その「美術だけ異常」がすでにだいぶ変なのだが、真白はそのことを深く考えないようにしている。


 このクラスは、考え始めると妙な人間が多い。


 眠そうすぎる木乃葉。

 絵がうますぎる絵麻。

 いつもイヤホンをしていて何を聞いているのかわからない瀬川音々。

 流行に強すぎて情報網が広すぎる小鳥遊ひかり。

 そして目立ちすぎるくらい目立つ朝倉澪。


 自分だけが「何かを隠している」異物なのだと思っていたけれど、最近は少し違うかもしれないと感じる瞬間がある。


 もちろん、だからといって踏み込むつもりはない。


 人にはそれぞれ、他人に見せない顔がある。それが普通だ。


 問題は、自分のそれが、ちょっと普通より規模が大きいことだけで。


     ◇


 一限が終わり、二限が終わり、休み時間が来る。


 学校生活というものは、配信や仕事と違って、基本的に静かに時間が流れていく。だからこそ真白は好きなのだ。数字も評価もコメント欄もなく、ただ授業と休み時間が循環していく。その均質さが心地いい。


 ――昨日までは、たぶん。


 今日はその静けさの中に、常にひとつ余分な情報が挟まってくる。


 紅白。


 年末。


 NHK。


 MIO。


 その四文字が、ノートを取る手の合間に何度も脳裏をよぎる。


「……っ」


 思わずペン先が止まり、英単語のスペルをひとつ書き損じた。


 やばい。集中しろ。


「一ノ瀬さん、珍しいね」


 小さな声で言ったのは、隣の列の小鳥遊ひかりだった。椅子を少しこちらに寄せ、明るい茶色の髪を揺らしながら覗き込んでくる。


「何が」

「今、スペル間違えたでしょ」

「……見てたの」

「たまたまー」


 たまたまで見つける位置じゃないだろ、と思うが口には出さない。


 ひかりは人懐っこい笑顔を浮かべながら、どこまで本気でどこまで冗談なのかわからない調子で言う。


「一ノ瀬さんでもそういうことあるんだ」

「ある」

「へえ。なんかちょっと安心した」

「なんで」

「完璧な人いると緊張するから」

「完璧じゃない」

「うん、知ってる」

「……知ってるの?」

「だって人間だし」


 そう言って、ひかりはあっさり離れていった。


 軽い。軽いのに、会話の着地だけ妙にうまい。こういうタイプが一番苦手だと真白は思う。距離を詰めるのがうまいくせに、相手が嫌がるところまで踏み込まない。だから警戒しにくい。


 自分には絶対できない技術だ。


 二限と三限の合間の短い休み時間、真白はトイレへ立つふりをして一度教室の外へ出た。廊下の窓際で深呼吸する。冷たい空気が少しだけ頭を冷やす。


「……落ち着け」


 小さく呟く。


 配信のときなら、これくらいの情報量はさばける。もっとたくさんのコメントを拾い、もっとたくさんの文脈を並列処理できる。なのに学校だと、こういう心の揺れに弱い。たぶん、こちらでは「普通」でいることに神経を使っているからだ。


 普通でいるのは案外難しい。


「一ノ瀬」


 不意に背後から声をかけられ、真白の肩が硬直した。


 振り向くと、担任の風間恒一郎が立っていた。


 今日もいつも通り、無駄のないスーツ姿だった。濃紺のジャケットに、清潔なシャツ。タイの結び目まで妙にきれいで、若いのに落ち着きすぎている。生徒に向ける視線も穏やかなのに、どこか崩れないものがある。


「風間先生……」

「少しいいですか」

「はい」


 別に呼び出されるようなことはしていない。提出物も出しているし、授業態度も問題ない。だが、風間に声をかけられた瞬間、真白の脳は自動的に別方向の警戒を始める。


 風間先生は知っている。


 一ノ瀬真白が、真昼ましろであることを。


 校則に従って提出した校外活動申請書。保護者の同意書。継続的な収益活動に関する書類。必要な手続きはすべて済ませている。つまり制度上、担任である風間が知らないはずがない。


 それは頭では理解している。理解しているのだが、理解と気まずさは別問題だ。


 風間は廊下の端まで歩き、周囲に他の生徒がいないのを確認してから、いつもの落ち着いた声で言った。


「昨日の発表、お疲れさまでした」

「……ありがとうございます」


 死ぬほど気まずい。


 いや、何も悪いことはしていない。正規の手続きで、正規の仕事をしているだけだ。先生もそれを把握しているだけだ。なのにどうして、こんなにも自分の秘密の現場を見られた感覚になるのか。


「補足の書類だけ、一枚追加で必要になります」

「……はい」

「NHK案件ですので、校外活動日程の詳細欄を少し明確にしておきましょう。学校側の保管です」

「わかりました」

「放課後、職員室まで」


 業務連絡だった。


 純度百パーセントの、正しく業務連絡。


 真白はほんの少しだけ安堵する。けれど同時に、その安堵自体が妙に悔しい。自分だけが勝手に警戒して、先生は何でもない顔で事務処理をしている。


 風間はさらに続けた。


「体調管理には気をつけてください」

「……はい」

「学校生活に支障が出るようなら、事前に相談を」

「……はい」

「それと」


 そこで風間は、少しだけ声を柔らかくした。


「誰にも話すつもりはありません。安心してください」


 真白は一瞬、言葉を返せなかった。


 たぶん、顔には出ていなかったと思う。思いたい。だが内心では、その一言が思ったより深く刺さっていた。


「……先生」

「はい」

「その、ありがとうございます」

「当然のことです」


 風間は本当に、当然のようにそう言った。


「秘密を守るのも、学校の仕事のうちです」


 昨日と同じ台詞だった。


 けれど、昨日より少しだけ、重みが違って聞こえた。


 真白は小さく頭を下げる。


 風間はそれ以上踏み込まず、「では授業へ」とだけ告げて去っていった。


 後ろ姿まで妙に無駄がない。何なんだあの人は。本当にただの現代文教師なのか。


 いや教師なのは事実なのだが、雰囲気が時々「教師という職業を演じている、やたら落ち着いた誰か」みたいになるのが怖い。生徒の秘密を知っていても動じないし、何なら最初から全部見越しているような顔をする。


 真白は窓の外を見ながら、そっと息を吐いた。


 安心していい。たぶん、本当にこの人は口が堅い。


 それは間違いない。


 ただ、安心できるかといえば、ちょっと別だった。


     ◇


 放課後、真白は約束通り職員室へ向かった。


 職員室という場所は、単純に落ち着かない。教師たちの会話、プリンターの音、紙の匂い、蛍光灯の明るさ。生徒として完全アウェーな空間だ。しかも今日はそこに、自分の活動関連の書類を出しに行く。


 緊張しない方がおかしい。


「失礼します」


 扉を開けて声をかけると、何人かの教師が顔を上げる。その中で風間だけが、最初から真白が来ることを知っていた顔で小さく手を挙げた。


「こちらへ」

「はい」


 指定された席に座る。机の上には、すでに必要な書類が用意されていた。


「ここに追加日程。こちらに現場滞在時間。保護者の送迎有無は――」

「ありません」

「わかりました。ではチェックを」


 淡々としている。完全に事務だ。真白は言われるままに記入し、確認し、必要箇所に署名する。風間は内容を見ながら、時々「ここは学校保管」「これは写しを返却します」と説明を挟んだ。


 流れ自体は五分もかからない。


 なのに真白の精神疲労は二十分分くらいあった。


「以上です」


 風間が書類を揃える。


「……ありがとうございました」

「いえ」


 立ち上がろうとして、真白は一瞬迷った。


 聞きたいことがあった。


 いや、聞くべきではない。聞かない方がいい。先生を困らせるだけかもしれない。けれど、どうしても気になってしまう。


「あの」


「何でしょう」


「先生って……その、こういうの、驚かないんですか」


 口に出した瞬間、自分でもひどく曖昧な質問だと思った。


 こういうの。つまり、クラスの生徒が実は人気VTuberだったり、継続的な大規模活動をしていたり、そういう全部。


 風間は少しだけ目を細めた。


「有名だから、という意味ですか」

「……はい」

「驚くこと自体はあります」

「……そうなんですか」

「ただ」


 風間は書類を閉じ、整った字の並ぶ紙面から視線を上げた。


「有名かどうかは、この教室では評価基準になりません」

「……」

「一ノ瀬は一ノ瀬です。朝倉は朝倉です。校外で何をしていても、学校ではまず生徒として扱います」

「……」


 真白は、返事がうまくできなかった。


 言っていることは当たり前だ。教師なら、たぶんそう言う。そう言うべきだ。わかっている。


 でも、その当たり前を、本当に当たり前として言える大人は多くない気がした。


「ですから」


 風間は穏やかな声で続けた。


「必要以上に気にしなくていい。規則を守る限り、あなたの活動を否定するつもりはありません」

「……はい」

「ただ、寝不足は減らしてください」

「……はい」

「今朝も少し反応が鈍かったので」

「えっ」


 思わず顔を上げる。


 そんなにわかりやすかったか。


 風間は少しだけ口元を緩めた。ほんのわずかだが、たしかに笑った。


「生徒の様子を見るのも担任の仕事です」

「……見すぎでは」

「職務熱心と言ってください」


 さらっと返されて、真白は言い返せなくなった。


 この人、時々だけど、絶妙に会話がうまい。普段は必要以上に喋らないくせに、ここぞというところで言葉の置き方がきれいすぎる。


「では、失礼します」

「はい。気をつけて」


 職員室を出る。


 扉が閉まった瞬間、真白は小さく息を吐いた。


「……こわ」


 思わず本音が漏れる。


 もちろん、怖いというのは悪い意味ではない。怒ると怖いとか、秘密を握られているから怖いとか、そういう単純な話でもない。


 底が見えないのだ。


 生徒の秘密を知っていても動じず、必要なことだけ処理して、余計なことは言わない。そのくせ、こちらが少し揺れたことはちゃんと見抜いている。


 味方なのだろう。たぶん、かなり信頼できる。


 でも同時に、何者なのかよくわからない。


「一ノ瀬さん」


 不意に後ろから声がして、今日何度目かわからない小さな硬直が走る。


 振り返ると、そこにいたのは二階堂さやかだった。クラス委員長。真面目で常識人で、気配りができて、二年A組の秩序を地味に支えている苦労人。


「二階堂さん」

「先生に呼ばれてたの?」

「うん、ちょっと書類」

「そっか」


 さやかはそこで何かを言いかけ、少しだけ首を傾げた。


「……なんかさ」

「何」

「うちの担任って、妙に余裕ない?」

「余裕」

「うん。何があっても“そうですか”で流せそうっていうか」

「……そうかも」


 真白は内心で激しく同意した。


 そうなのだ。あの先生、たぶん教室に隕石が落ちてきても、最初に避難経路の確認をしそうな顔をしている。


「前にさ、保護者会のときも全然動じてなくて」

「へえ」

「しかも、たまに言葉遣いがさ……なんていうか、上品すぎない?」

「……それは、ちょっと思う」

「でしょ!?」


 さやかは声を潜めつつ、少しだけテンションを上げた。


「普通の先生っぽいのに、普通じゃない感じするんだよね」

「……」

「一ノ瀬さんも思う?」

「少し」


 それだけで、さやかは妙に満足そうな顔をした。


「だよねー。私の気のせいじゃなかった」


 いや、たぶん気のせいではないと思う。気のせいではないのだが、こちらはもう少し別方向の事情まで知っているので、軽々しく同意するのも違う気がした。


 真白は曖昧に頷いておく。


 さやかは「じゃ、私こっちだから」と手を振って去っていった。


 廊下にひとり残され、真白は少しだけ空を見上げる。


 冬の夕方は早い。窓の向こうの光は薄く、校舎の影が長く伸びている。


 静かだ。


 学校はこういう時間が好きだ。


 昼のざわめきが一段落して、教室や廊下に残る気配が少しだけやわらかくなる。誰も彼もが「帰る場所」を意識し始める時間。ここから先、それぞれが別々の顔に戻っていくのだと思うと、不思議な感じがする。


 自分もそうだ。


 このあと帰宅して、機材の電源を入れれば、また真昼ましろになる。


 マシンガントークで笑いを取り、弾き語りで空気を変え、何万人もの前で喋る。


 でも今ここでは、一ノ瀬真白でしかない。


 それでいい。


 それがいい。


 できれば、ずっとそのままでいたい。


 ――ただ。


 真白は、ふと今日の教室を思い出した。


 眠そうすぎる木乃葉。

 ふわふわしているのに絵がうますぎる絵麻。

 妙に勘のいいひかり。

 相変わらず目立つ澪。

 そして全部知っていそうで、実際いくつか知っている風間先生。


「……なんか、落ち着かない」


 ぽつりと漏らす。


 自分だけが秘密を抱えていると思っていた頃よりも、少しだけ教室の見え方が変わってしまったのかもしれない。


 前からそうだったのに、気づいていなかっただけなのかもしれない。


 どちらにせよ、二年A組は思っていたより静かではない。


 表面上は穏やかなのに、内部に何かがたくさんしまい込まれている感じがする。


 まるで、扉の多い箱みたいに。


 それが面倒だとも思うし、少しだけ気になるとも思う。


 その感情の正体を、真白はまだうまく言葉にできなかった。


 ただひとつ確かなのは。


 昨日の配信で紅白が決まり、今日担任に書類を出して、それでも学校はいつも通りに回っていたということだ。


 世界は案外簡単には壊れない。


 少なくとも、今のところは。


 だから明日もたぶん、真白は無口な優等生として教室に座る。

 コメント欄では無双できても、教室では必要最低限だけ喋る。


 そうやって静かに卒業まで辿り着ければいい。


 ――いいのだけれど。


 階段を降りながら、真白はスマホに入った新着通知をちらりと見た。


 マネージャーからの追加メッセージ。

 件名は短い。


【紅白関連/現場打ち合わせ候補日】


 その下に、さらに一行。


歌唱側スタッフより、MIOさんとの事前すり合わせを希望されています。


 真白はその場で立ち止まった。


「……やっぱり、逃げられないか」


 小さく呟く。


 冬の階段は少し冷たくて、手すりに触れた指先がひやりとした。


 紅白は近づいてくる。

 そしてそのたびに、学校の外の世界が、少しずつ教室の内側に影を落としてくる。


 まだ、ほんの少しだけ。


 けれど確実に。

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