第1話 紅白決定、でも学校には絶対にバレたくない
朝の教室は、いつだって少しだけうるさい。
まだホームルーム前だというのに、窓際では昨日のドラマの話で盛り上がっているグループがいて、廊下側では小テストの範囲がどうとか、購買の新作パンがどうとか、他愛もない情報が飛び交っている。笑い声、机を引く音、誰かのペンケースが落ちる音。そういう雑多な生活音が混ざって、二年A組の朝はできていた。
その中で、一ノ瀬真白は静かだった。
静か、というより、余計なものを一切出さない。
自分の席に座り、鞄から教科書とノートを取り出し、筆箱を机の右端にそろえて置く。髪は艶のある黒を肩甲骨のあたりまで真っ直ぐ下ろし、前髪は邪魔にならないように薄く整えている。制服も崩さない。リボンの角度まできっちりしている。
それだけで、すでに話しかけづらい空気が完成していた。
「一ノ瀬さん、おはよ」
前の席の女子が、振り向きざまに軽く声をかけてきた。
「……おはよう」
真白は顔を上げ、必要十分な声量で返す。
相手は悪い子ではない。むしろたぶん、かなり気を遣ってくれている。けれどそれ以上会話は続かない。天気の話を振られても、うまく返せる自信がない。昨日のテレビ番組なんて見ていないし、芸能人の名前だって、知っているものほど知らないふりをしなければならない。
だから結局、真白の返事はいつも短い。
その短さがまた、周囲に「クソ真面目」「堅い」「近寄りがたい」という印象を与えることを、彼女はちゃんと理解していた。
理解していて、なお、そうしている。
その方が楽だからだ。
人と深く関われば、どこかで嘘をつかなければならない。活動日の都合。配信時間の言い訳。喉の使いすぎ。睡眠不足。収録。打ち合わせ。事務所。マネージャー。機材。音源。著作権。案件。炎上対策。数字。再生数。コメント欄。切り抜き。トレンド。
そんなものを、教室の中に持ち込みたくない。
――学校では誰にも知られずに卒業したい。
その一点だけが、一ノ瀬真白のあまりにも切実で、あまりにも慎ましい願いだった。
別に一番になりたいわけじゃない。スクールカーストの上に立ちたいわけでもない。誰かに特別扱いされたいわけでもない。
ただ静かに、穏便に、トラブルなく、高校生活を終えたい。
それだけなのに、神様というやつは、わりと平気でそれを壊しにくる。
「朝倉ー! 今日の昼練って何時からだっけ?」
「十二時四十分。体育館、半面だから早めに集まって」
「りょーかい!」
よく通る声が教室の斜め前方から聞こえた。
真白は顔を上げず、それでも意識だけはそちらへ向く。
朝倉澪。
二年A組の、たぶん一番「わかりやすく目立つ」女子だ。
長い手足。無駄のない姿勢。運動部特有のきびきびした動き。髪は高めの位置でひとつにまとめていて、すっきりした額がよく似合う。朝からエネルギーの総量が違う。別に騒がしいわけではないのに、そこにいるだけで空気がしゃんとする感じがある。
バスケットボール部主将。将来はプロ候補か、なんて噂まである学校の有名人。
真白とは、正直、住む世界が違う。
そういう人だと思っているし、たぶん向こうも、真白のことを「同じクラスの無口な優等生」くらいにしか思っていないだろう。
それでいい。
ああいう、まっすぐ陽の当たる場所に立つ人種と、極力日の当たらない場所にいたい自分とでは、交わらない方が平和だ。
「一ノ瀬、英語の単語テスト大丈夫そう?」
今度は左斜め後ろから、少し眠たげな声が飛んできた。柊木乃葉だ。机に半分突っ伏しかけたまま、細い指で教科書の端をめくっている。
「たぶん」
「いいなあ……私はたぶん終わる」
「寝てたの?」
「まあ……ちょっと」
「……寝たんだ」
「寝たね」
それだけ言って、木乃葉はまた力尽きたように机に額をつけた。
真白は一瞬だけその横顔を見る。
眠そうな文学少女。そんな見た目のくせに、木乃葉はたまに妙に会話の返しが上手い。無駄なことを喋らないし、笑うときも口元だけ少し緩む程度。たぶん気が合うか合わないかで言えば、真白はこういう省エネな人間の方がまだ楽だった。
けれど、それ以上踏み込む理由はない。
真白はノートを開き、小テストの直前確認に視線を落とす。
黒板に書かれた日付、時計の針、朝のざわめき。全部が規則正しくて、そして無意味に尊い。
この時間が、このままずっと続けばいいのにと、思わなくはない。
もちろん続かないのだけれど。
◇
学校が終わる頃には、真白の脳内ではもう帰宅後の段取りが始まっている。
教師の話を適切に聞き、提出物を忘れず、周囲に変な印象を残さず、まっすぐ帰る。寄り道は基本しない。放課後にだらだらと教室に残る習慣もない。
「一ノ瀬さん、さようなら」
「……さようなら」
軽く会釈して教室を出る。
廊下を歩き、下駄箱へ向かい、外に出る。校門を離れてからも、しばらくは油断しない。駅前のコンビニで無駄に校内の誰かと遭遇したくないし、動画に映り込みでもしたら目も当てられない。キャップを目深にかぶり、イヤホンをつけて、人混みに紛れる。
けれど、乗り換えをひとつ済ませ、自宅の最寄り駅に着いたあたりから、真白の身体は少しずつ軽くなっていく。
誰も自分を見ていない。
少なくとも、「一ノ瀬真白」としては。
マンションに戻る。オートロックを抜け、エレベーターで上がり、自室のドアを閉める。鍵を回した瞬間、ようやく今日一日分の緊張が一枚剥がれる。
「はぁ……」
息が漏れる。
廊下に置いた姿見に、自分の顔が映る。学校での自分の顔。感情を抑え、輪郭を薄くしたような表情。
それを見て、真白は小さく眉を寄せた。
「よし」
言葉にすると、スイッチが入る。
制服のジャケットを脱ぎ、シャツの袖を軽くまくり、髪を結い上げる。簡単な食事を済ませ、喉を温めるために白湯を飲む。スマホで今日の進行を確認し、PCを立ち上げ、オーディオインターフェースの電源を入れ、キーボードの位置を微調整する。マイクの角度、照明、BGM、コメント欄表示、待機画面。
防音仕様の部屋は、学校の教室よりずっと狭いのに、真白にとってはずっと呼吸がしやすい。
机の上のモニターに、自分の配信アカウントが映る。
真昼ましろ。
大手VTuber事務所所属。登録者数百九十八万人。弾き語りと雑談で伸び続ける、事務所でも看板級の人気タレント。
画面に表示される待機人数が、数万単位で増えていく。
おかしいだろ、毎回思う。
同時接続という概念は、冷静に考えると狂っている。二年A組の人数が三十六人だとして、そこにいる誰もが自分のことをほとんど知らないのに、画面の向こうでは五万人とか六万人とかが、配信開始を今か今かと待っている。
いや、意味がわからない。
でも、意味がわからないまま、もうここまで来てしまった。
「……よし」
今度の「よし」は、学校の自分へ言うものではない。
配信者の自分へ切り替えるための合図だ。
配信ソフトの開始ボタンにカーソルを合わせ、深呼吸をひとつ。口角を少しだけ上げる。喉を開く。
クリック。
数秒のラグのあと、コメント欄が一気に流れ出した。
《きたああああああ》
《ましろん待ってた》
《今日も生きがい》
《弾き語りある?》
《雑談から頼む》
《サムネかわいすぎ》
「はいどうもー、こんばんは、真昼ましろです。いやもうちょっと待って、早い早い早い、流れが夏休み明けの宿題提出くらい速いんだけど、みんなそんなに私のこと好き? 知ってるけど」
《知ってるの草》
《初手から速い》
《今日も回る口》
《好きです》
《圧がつよい》
「ありがとうございまーす。じゃあまず最初に、喉あっためる意味も兼ねて一曲だけ軽くやりますか」
学校では必要最低限しか喋らない人間と、同一人物とは思えない声がする。
真白自身、それを自覚していた。
でも、こちらが偽物というわけではない。むしろ逆だ。どちらも自分で、そのうち喋る方の自分がこっちにいるだけだ。学校ではそれをしまっている。ここではしまわない。それだけ。
指を鍵盤に置く。
静かな前奏を鳴らした瞬間、コメント欄の勢いが少しだけ落ち着く。歌い出す。響きの調整された部屋の中で、真白の声はまっすぐ伸びた。透明で、それでいて芯がある。ピアノの粒は細かく、旋律を邪魔しない。それでいて情感がある。
数分後、最後の和音が消えると、また一斉にコメントが流れた。
《うますぎる》
《何回聞いても泣く》
《耳が幸せ》
《生歌バケモン》
《ピアノえぐ》
「はいはい褒めるのがうまい。でしょ? 知ってる知ってる。いやでも今日ちょっと緊張してるからね、実は。ちょっとだけ。ほんとにちょっとだけだけど」
《珍しい》
《何かある?》
《案件?》
《ライブ?》
《重大発表???》
「うわー出た出た、みんな“重大発表”って言葉にだけ異様に反応するタイプのインターネット生命体。いやまだ言わないけど。いや待って、今の時点でこういう空気になってるの嫌なんだけど。もし大したことなかったらどうするの?」
《大したことなくても騒ぐ》
《何でも祭りにする》
《インターネットを信じろ》
《もう祭り》
《重大発表の匂いしかしない》
「圧がすごいなぁ……」
笑いながら、真白は内心で別の汗をかいていた。
今日の配信は、雑談多めにして、後半で告知を入れる予定だった。最初に発表するとコメント欄がそっち一色になってしまうし、本人の精神衛生にも悪い。だからいつも通りを装う。できるだけ自然に。平常運転で。
平常運転で、全国ニュース級の情報を流す。
冷静に考えると、だいぶ狂っている。
「じゃ、今日の近況なんですけど」
真白はマイクに向かって軽快に喋り始めた。
最近見た映画の話、事務所の後輩とのどうでもいいやりとり、スーパーで売ってた期間限定スイーツがびっくりするほど美味しかった話、そして視聴者から募集した相談コーナー。コメントを拾い、ツッコミ、脱線し、また戻る。テンポが速いのに聞き取りやすい。自分でもわかる。こういうときの自分は、たぶんかなり強い。
学校でこの半分でも喋れたら、たぶん人生は違ったのだろう。
いや、違わないか。違わないな。学校でこんな速度で喋ったら普通に怖いだけだ。
《ましろん今日やたら楽しそう》
《喋りが乗ってる》
《重大発表前のテンションでは?》
《落ち着かないんだろうなって》
「鋭い人がいる。いやでもね、ほんとに落ち着かないんですよ。最近ちょっと、人生って突然イベントぶち込んでくるなって感じで」
《言い方w》
《フラグだ》
《もう言ってるようなもん》
《何が来るんだ》
「だから! まだ! 引っ張らせて!」
両手を上げて大げさに制すると、コメント欄が笑いの絵文字で埋まった。
そのとき、配信管理用の別モニターに、事務所のマネージャーからメッセージ通知が入った。
――タイミング大丈夫です。二十二時過ぎで発表お願いします。
心臓が嫌な跳ね方をする。
来た。
真白は何でもない顔で水を飲み、喉を湿らせる。
「はい、じゃあ、そろそろお時間もあれなので」
《きた》
《くるぞ》
《正座》
《息止める》
《はい重大発表》
「やめてその儀式みたいな空気。えー、ではですね、本日はお知らせがあります」
コメント欄の流れが目に見えて速くなる。
真白は一瞬だけ視線を落とし、机の下で自分の指先が冷たくなっているのを感じた。
落ち着け。大丈夫。これは仕事だ。ちゃんと決まった。準備もしてきた。関係各所の確認も済んでる。自分が勝手に舞い上がっているだけだ。
「このたび、真昼ましろ……年末の――」
喉が一瞬詰まる。
画面の向こうにいる何万人もの期待が、文字の奔流になってこちらへ押し寄せてくる。
真白は小さく息を吸い直した。
「年末のNHK紅白歌合戦、サプライズ企画にて、ピアノ演奏で参加させていただくことになりました」
一拍の無音。
そして次の瞬間、コメント欄が爆発した。
《は??????》
《ええええええええええ》
《紅白!?!?》
《待って待って待って》
《本物の紅白!?》
《すごすぎるだろ》
《NHK紅白歌合戦!?!?》
《ましろん紅白!?》
《情緒が死ぬ》
《おめでとう!!!!!!》
《えぐいえぐいえぐい》
「いや、うん、そうなるよね! 私もなった! 知ったとき同じ顔した!」
思わず本音が漏れて、コメント欄がさらに沸く。
《本人も同じ反応で草》
《かわいい》
《いやそりゃそう》
《すごすぎる》
《ましろん本当にすごい》
《泣いてる》
「ありがと、ほんとに。あの、歌唱じゃなくて、今回はピアノでの参加なんですけど。いやでも十分意味わかんないからね? NHKだよ? 紅白だよ? 年末のあれだよ? 毎年“今年もこの季節かぁ”みたいな顔で見てるやつに、自分が出る側で関わるって、ちょっと情報量が多すぎるんですよ」
《ましろんのピアノ全国に流れるのやばい》
《親戚に自慢する》
《録画する》
《いやもう家宝》
《現地で倒れる人いるだろ》
「倒れないで。みんな生きて新年迎えて。で、詳細はまだ全部言えないんだけど、サプライズ企画なので、ちゃんと“サプライズ”の範囲で楽しんでもらえたら嬉しいです」
《歌手は誰!?》
《誰とやるの!?》
《そこだけでも》
《ヒント!》
《匂わせくれ》
「そこは言えませーん。言えませーんが、めちゃくちゃ、めちゃくちゃすごい方です。ほんとに。私が一番“いや相手でかすぎるでしょ”ってなってるので」
それは誇張でも何でもない。
手元の進行資料に記された名前を見たとき、真白は五秒くらい思考を止めた。
歌唱担当――MIO。
顔出しNGでありながら、いま最も勢いのある女性歌手のひとり。CM、ドラマ、アニメ主題歌。どこへ行っても声が流れている。世代を問わず知名度がある。ライブ映像はほぼ出ないのに、出る音源は全部強い。意味がわからない。存在自体が強い。
そういう相手と、真白は年末、同じステージに立つ。
ピアノで。
いやほんと何で?
「なので、年末まで体調管理をガチでやります。喉も指もメンタルも全部守る。年越し前に燃え尽きるわけにいかないので」
《がんばれ》
《全力で応援する》
《健康第一》
《学校とかもあるのに大変そう》
《無理しないで》
《ましろんはすごい》
学校、という文字に、真白の心臓がびくっと跳ねた。
もちろんコメント欄のその一言に深い意味はない。真昼ましろが学生であることは、少なくともコアなファンの一部にはぼかした形で知られている。年齢設定や生活時間帯、配信の隙間から、完全に隠し切るのは難しい。
でも、学校。
その場所だけは、どうしても別腹だった。
全国放送に出る。サプライズ企画とはいえ、業界内での共有もある。切り抜きも広まる。ピアノだけだから顔は出ないにせよ、音や雰囲気からわかる人がゼロとは言えない。
学校にバレたらどうする。
教室で「もしかして真昼ましろって……」とか言われたらどうする。
いや無理だろ。死ぬだろ。社会的には死なないけど精神的には即死だろ。
真白は表情を崩さないまま、しかし脳内では全力で転げ回った。
「……というわけで」
何とか声を整え、まとめに入る。
「今日はそのご報告でした。いや、ほんとに応援してくれてるみんなのおかげです。配信、音楽、弾き語り、雑談、ここまで続けてきてよかったなって、今すごく思ってる」
それは本音だった。
画面の向こうにいる大勢の人間のすべてを知っているわけではない。知らなくていいし、知らない方がたぶん幸せだ。でも、それでも、こんなふうに喜んでくれる声があるのは救いだった。
学校では誰にも話せないことが、ここでは話せる。
それだけで、十分に救われる夜がある。
《こちらこそありがとう》
《紅白ほんとおめでとう》
《絶対見る》
《録画もする》
《配信からここまで来たの泣ける》
《真昼ましろ最強!》
「最強かは知らないけど、まあ、かなりやれる方ではありますね」
《言ったw》
《好き》
《そういうとこ》
《ビッグマウス助かる》
「ビッグマウスじゃない、自己認識が正確なだけです。じゃ、今日はこのへんで。年末に向けて諸々頑張るので、みんなも風邪引かないように。おつましろー」
《おつましろー!》
《おめでとう!》
《最高の報告だった》
《年末楽しみ》
《おつ!》
配信終了。
コメント欄の流れが止まり、部屋の中に静寂が戻る。
数秒。
数秒だけ、真白は無表情のまま固まっていた。
そして次の瞬間、椅子ごと後ろへ下がり、両手で顔を覆った。
「むりむりむりむりむりむり!!」
防音室に、さっきまでの落ち着いた声とは似ても似つかない素の悲鳴が響く。
「なに、NHKって何!? 紅白って何!? いや知ってるけど! 概念としては知ってるけど、なんで私がそこにいるの!? 誰だよ決めたの、事務所か、事務所だな!? いや受けたの私の側でもあるけど! あるけども!」
ベッドにダイブ。枕に顔を埋め、足をじたじたさせる。普段の学校での一ノ瀬真白を知る人間が見たら、百パーセント別人判定を下すであろう荒れ方だった。
「しかも相手MIOって……いやでかすぎるでしょ、規模が。歌唱力の化け物でしょあの人。待って、音合わせで死なない? いやプロとして死んではいけないんだけど、精神は死ぬでしょ。何喋ればいいの。『よろしくお願いします』? そりゃ言うけど! その先! その先どうするの!?」
ごろごろ転がったあと、真白はベッドの上に上体を起こし、スマホを取った。
マネージャーとの連絡画面を開く。資料一覧。タイムテーブル。注意事項。集合時間。機材。衣装。顔出しなしの演出確認。セキュリティ導線。共演者情報。
その中に、やはり見慣れない圧で書かれている一行がある。
歌唱担当:MIO
「……でかいって」
思わず呟く。
世の中には“有名”にもいくつか種類がある。
クラスで有名。学校で有名。市内で有名。界隈で有名。ネットで有名。テレビで有名。そして、年末の国民的番組に出て当然みたいな顔をしていられるレベルの有名。
MIOは、そのかなり上の方だ。
真白はスマホを胸に押し当て、そのまま天井を見上げた。
「……でも」
小さく息が漏れる。
怖い。怖いけれど、嬉しくないわけではない。
配信者として、音楽をやってきた人間として、こんな機会がどれほど大きいかは嫌というほどわかっている。弾き語りを始めた日の自分が聞いたら、たぶん椅子から落ちる。
だから、やるしかない。
やるしかないのだが。
「学校にだけは、絶対バレたくない……」
それだけは変わらない。
たとえ年末の大舞台に立とうが、登録者が二百万人を超えようが、世間がどれだけ騒ごうが、それとこれとは話が別だ。
教室は教室。そこは静かであってほしい。平穏であってほしい。あの空間の中でだけは、真昼ましろではなく、一ノ瀬真白でいたい。いや、いてしまいたい。
そのとき、スマホが再び震えた。
マネージャーからの追加連絡だった。
真白は画面を開く。
当日の演奏曲、仮キー版デモ届きました。共有します。
先方サイドの希望で、テンポは少し抑えめに。
なお、本番歌唱アーティストはMIOさんです。改めて詳細資料も添付します。
「いや知ってるんだってば……」
言いながら、添付資料を開く。
楽曲構成、ステージ図、進行、簡単な演出案。そこまではよかった。
問題はその次にあった。
MIO側の演出補足資料。本人確認用の共有写真はさすがにないが、現場での導線都合上、身長や体格の目安、声出し時の傾向、打ち合わせ時の希望事項など、やたら細かい情報が載っている。
真白はぼんやりとそれを眺め――そこで、ふと指が止まった。
「……え?」
身長。体格。利き手。発声前に軽く右肩を回す癖あり。運動習慣あり。姿勢がいい。
「いや、そんな偶然ある?」
口にしてから、自分で首を振る。
あるだろ、それくらい。姿勢がいい人なんて山ほどいる。運動習慣がある人間だって多い。勝手に学校の誰かを連想しているだけだ。何を神経質になっているのか。
真白は資料を閉じようとして、しかし最後にもう一度だけその一文を見た。
発声前に軽く右肩を回す癖あり。
頭の隅で、体育館の光景がよぎる。
バスケットボール部主将の朝倉澪が、練習前に無意識みたいな顔で肩を回していた姿。
「……まさかね」
真白は即座に否定した。
そんな漫画みたいな偶然があるわけがない。
同じクラスの、学校ではスポーツエースの女子が、裏で国民的歌手です、なんて。そんな設定、盛りすぎだ。ラノベでももう少し手加減する。
だから、ない。
ないのだが。
真白はじわじわと嫌な予感が胸に広がっていくのを感じた。
「いや、ないないない……」
それは自分に言い聞かせるための言葉だった。
けれど否定すればするほど、不安だけが濃くなる。
窓の外では、もうかなり夜が深まっている。遠くを走る車の音。マンションのどこかで水が流れる気配。防音室の機材はまだ熱を持っていて、モニターだけが青白い光を落としていた。
真白は膝を抱え、しばらくその場で固まった。
年末、NHK紅白歌合戦。
サプライズ企画。
共演相手はMIO。
学校には絶対バレたくない。
なのに、もし。
もしも、その相手が。
「……いやいやいや、そんなことある?」
あるわけない、と思いたい。
けれど人生は、わりと平気で、そういう「あるわけない」を持ってくる。
真白はベッドにもう一度倒れ込み、枕に顔を押しつけた。
「ほんとに、静かに卒業させてよ……」
その願いはたぶん、もう少し先で、盛大に試されることになる。
今はまだ、一ノ瀬真白はそれを知らない。
ただ、年末に向かって、少しずつ平穏が削られていく気配だけを感じていた。




