第12話 担任だけが全部知っている教室、わりと怖い
真白は、たまに本気で思う。
風間先生って何者なんだろう。
もちろん表向きの答えは知っている。
2年A組担任、現代文教師、二十代後半、物腰柔らかめ、怒鳴らない、書類に強い、やたら落ち着いている。
だが、それだけでは説明のつかない部分がある。
まず、生徒の秘密への耐性が異常に高い。
普通の教師なら、たとえばクラスの女子が実は大手事務所所属の超人気VTuberで、もう一人は顔出しNGの人気歌手で、他にもどう見ても何か抱えてそうな生徒が複数いる時点で、もう少しこう、動揺とか、面白がりとか、戸惑いとかが顔に出てもよさそうなものだ。
でも風間は違う。
知っている。
把握している。
必要な手続きを処理している。
なのにまったく揺れない。
それが安心でもあり、怖くもあった。
この日の放課後、真白は職員室前の廊下で少し立ち止まっていた。
来たくて来たわけではない。
いや、少しだけ自分の意志でも来ている。
理由は単純だ。
最近の自分と澪が、教室で微妙に不自然だからである。
今のところ決定的な怪しまれ方はしていない。
でも木乃葉、ひかり、さやかあたりには、うっすら「何か変」と思われ始めている気配がある。
しかも風間は、おそらくその全部を見ている。
だったら一度、相談しておいた方がいいかもしれない。
――というところまで考えておいて、真白は今さらながら気づく。
「……これ、だいぶ恥ずかしいのでは」
何を相談するつもりなのだろう、自分は。
先生、紅白で共演した同級生と学校での距離感がわからなくて微妙に不自然になっています。
文字にすると終わっている。
悩み相談としての特殊性が高すぎる。
だが、そのとき職員室のドアが開き、本人が出てきた。
「一ノ瀬」
「っ」
「どうかしましたか」
風間恒一郎。
今日もスーツに隙がない。
今日も声が落ち着きすぎている。
真白は一瞬だけ「やっぱりやめます」と言って逃げたくなったが、それをやると余計に変だと思い直す。
「……少し、相談が」
「わかりました」
風間は即答した。
「今、数分なら大丈夫です。こちらへ」
「はい」
職員室の中でも比較的人目の少ない一角へ案内される。
風間の机の周辺は、妙に整っている。
書類の束ですら几帳面に美しく積まれていて、性格が出ているというより、もはや生活の所作そのものが上品なのではと思うことがある。
「どうぞ」
「失礼します」
真白が椅子に座ると、風間も向かいに腰を下ろした。
「それで」
「……はい」
「学校生活の件ですか」
「……」
「違いましたか」
「いえ、合ってます」
怖い。
何でそこから入るのだ。
たしかにそうだが、切り込みが正確すぎる。
「最近、少し様子が違うので」
風間はあくまで穏やかに言う。
「冬休み明けというだけではない何かがあるのだろうとは思っていました」
「……そんなにわかりますか」
「担任ですので」
その一言が便利すぎる。
真白は少しだけ観念した。
「その……」
「はい」
「朝倉さんと、少し」
「ええ」
「距離感が」
「ええ」
「……わからなくなっていて」
「なるほど」
なるほど、ではない。
理解が早すぎる。
「もう少し詳細を言いますか」
と風間は言う。
「言わなくても、ある程度はわかりますが」
「……それ、言い方が怖いです」
「失礼しました」
まったく失礼した顔をしていない。
真白は小さく息を吐いてから、できるだけ簡潔に話した。
紅白以降、学校での距離感が少し難しいこと。
不自然にならないよう気をつけているが、逆にぎこちなくなること。
周囲に勘づかれるほどではないにしても、微妙な変化を拾われ始めている気がすること。
言っているうちに、自分でも「何を真面目に相談しているんだろう」と思わなくもなかった。
だが風間は最後まで変な顔ひとつせず聞いていた。
「……以上です」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます?」
「整理して話していただいたので」
そんな礼を言われる相談内容ではない気がする。
風間は少し考えるように指を組んだ。
「結論から言えば」
「はい」
「無理に何かを変えようとしない方がいいでしょう」
「……やっぱり」
「はい。人間関係というのは、急に調整しようとすると不自然になります」
「それは、なんとなく」
「お二人とも、今までは“ほとんど接点のない同級生”として成立していた」
「はい」
「そこへ急に“自然な距離感”を作ろうとすれば、むしろ周囲の目には違和感として映ります」
「……」
「ですから、必要以上に話しかける必要も、逆に避ける必要もありません」
真っ当だ。
真っ当すぎて反論の余地がない。
「ただ」
風間は続ける。
「これまでより少しだけ会話が増えること自体は不自然ではないです」
「そうですか」
「同じクラスで、冬休みを挟んで、何かのきっかけで距離が多少変わることはあります」
「……」
「なので、“変えよう”ではなく、“変わってしまった分を無理に戻さない”の方が近いでしょう」
真白はその言葉を頭の中でゆっくり反芻した。
変えようとしない。
戻そうとしない。
変わってしまった分だけは、無理に否定しない。
たしかに、その方が自然かもしれない。
紅白以前の完全な他人距離へ戻るのは、たぶんもう無理だ。
お互いを知ってしまったから。
だったらそれをなかったことにしようとするより、ほんの少しだけ変化した距離を、そのまま学校の中へ馴染ませる方がいい。
「……先生」
「はい」
「そういうの、よくわかりますね」
「そうですか?」
「人の距離感とか」
「教師ですので」
「またそれだ」
真白が思わず言うと、風間はほんの少しだけ笑った。
この人、本当にずるい。
大事なことを言っているのに、どこまでが本音でどこまでが役割なのか、まるでつかませない。
「一ノ瀬」
「はい」
「あなたが思っている以上に、周囲はそこまで細かく見ていません」
「……」
「ただし、見ている人は見ています」
「それは、はい」
「ですから、“隠すこと”より“挙動を増やさないこと”を優先してください」
「挙動を増やさない」
「不自然な沈黙、不自然な視線、不自然な被り、不自然な同時否定」
「……」
「そのあたりを減らすだけでだいぶ違います」
「……先生、見すぎでは」
「担任ですので」
「万能すぎるんですよ、その返し」
真白は本気でそう思った。
でも、その万能さに少し救われてもいる。
少なくとも風間は、こちらの秘密を揺さぶる方向には使わない。
ただ現実的な助言だけを置いてくれる。
それはありがたい。
「……ありがとうございました」
「いえ」
「少し、気が楽になりました」
「それなら何よりです」
「……」
「まだ何か?」
「先生って、ほんとに何者なんですか」
「担任です」
「それ以外で」
「現代文教師です」
「そういうことじゃなくて」
思わず言うと、風間はほんの一瞬だけ視線を和らげた。
「一ノ瀬」
「はい」
「人にはそれぞれ、学校へ持ち込まない顔があります」
「……」
「あなた方だけではありませんよ」
「……それ、どういう」
「さあ」
そこで話を終わらせるのが、いかにも風間らしかった。
何か知っている。
でも全部は言わない。
たぶん、自分自身のことも含めて。
やっぱりこの人、ただの担任ではない。
◇
真白が職員室を出て廊下を歩いていると、階段の踊り場でちょうど澪と鉢合わせた。
いや、鉢合わせというほど突然ではない。
向こうもたぶん、職員室の方へ向かっていた。
「……あ」
「……」
「相談?」
と澪が小声で聞く。
「そっちも?」
「うん」
やっぱりか。
真白は少しだけ納得した。
あの紅白以降の教室の空気に、違和感を覚えていたのは自分だけではないのだ。
「じゃあ、先行く」
と真白が言う。
「うん」
澪はそれ以上聞かない。
その距離感がありがたかった。
真白はそのまま階段を下りる。
途中でふと思い立ち、踊り場の陰から少しだけ上を見た。
覗くつもりではない。
たぶん覗くつもりではなかった。
でも少しだけ気になったのだ。
澪が職員室へ入り、少ししてからまた出てきた風間と廊下の端で話しているのが見えた。
距離があるので声までは聞こえない。
ただ、澪が珍しく少しだけ困った顔をしていて、風間がいつもの静かな調子で何かを言っているのはわかった。
数分後、澪は小さく頭を下げていた。
その仕草を見て、真白は少しだけ可笑しくなる。
何だろう。
秘密を抱えた生徒たちが、全部知っている担任に順番に相談に行く教室って。
構図としてかなり変だ。
でも、だからこそこの教室はまだ崩れずに済んでいるのかもしれない。
◇
翌日。
二年A組の朝は、やはりどこか情報量が多かった。
木乃葉は眠そうな顔で教科書の陰に何かを書いている。
絵麻は配られたプリントの隅に、妙にバランスの取れた人物の横顔を描いている。
ひかりはクラスメイト同士の会話を聞きながら、たまに意味ありげに笑う。
音々は片耳イヤホンのまま、たまに誰かの声に反応する。
さやかは委員長として朝の小さな混乱を淡々と処理している。
そして風間は、そんな教室に何事もない顔で入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
出席確認が始まる。
風間の声はいつも通りだ。
けれど真白は、昨日の会話のあとだからか、その“いつも通り”の精度にあらためて軽く引いていた。
この人、自分たちの相談を受けておいて、次の日まったく何事もなかったようにホームルームを回せるのか。
いや教師としてはそれが正しい。
正しいのだが、感情の切り替えがプロすぎる。
「一ノ瀬」
「はい」
「朝倉」
「はい」
名前を呼ばれる。
それだけなのに、真白と澪の神経だけが少し反応する。
周囲はもちろん気づかない。
気づかないのだが、風間だけはたぶん全部見えている。
出席確認が終わると、風間は連絡事項をいくつか読み上げたあと、何でもない調子で言った。
「なお、人間関係というのは急に調整しようとすると不自然になりますので、無理に何かを変えないように」
教室が一瞬だけ静かになった。
真白は固まる。
澪も固まる。
いや、たぶん固まったのは自分たちだけかもしれない。
次の瞬間、教室のあちこちから笑いが起きた。
「先生どうしたの急に」
「HRで人間関係論始まった」
「刺さる人には刺さりそう」
「さやかに向けてじゃない?」
「何で私なのよ」
軽い笑いで流れる。
流れるのだが、当事者二人にとってはだいぶ刺さる。
真白は前を向いたまま、心の中で呻いた。
絶対わざとだろう。
いや、わざとではないのか。
でもタイミングが完璧すぎる。
この担任、たまに自然な顔で軽く心臓を刺してくる。
横目で見ると、澪も前を向いたまま、ほんの少しだけ目を細めていた。
たぶん、同じことを思っている。
◇
昼休み、真白は珍しく早めに弁当を食べ終え、教室の窓際で少しだけ外を見ていた。
冬の陽は低く、校庭の色は少し白っぽい。
運動部の声が遠くから聞こえてくる。
「一ノ瀬さん」
後ろから絵麻が声をかけた。
「何」
「今日ちょっと落ち着いてるね」
「そう?」
「うん。昨日より自然」
「……」
「いいことあった?」
「別に」
「そっか」
絵麻はそれ以上聞かず、真白の隣に並んで窓の外を見る。
「風間先生って、すごいよね」
と絵麻がぽつりと言った。
「……何が」
「何ていうか、全部見えてそうなのに、見えてないふりがうまい」
「……」
「安心するけど、ちょっと怖い」
「……わかる」
真白は小さく同意した。
それはたぶん、2年A組の中で共有できる感覚なのだろう。
担任だけが全部知っている。
全部ではないにせよ、少なくともこっちが思っている以上には知っている。
でも漏らさない。
暴かない。
踏み込みすぎない。
だからこの教室は、秘密だらけでも回っている。
「先生もなんか隠してそうだけどね」
絵麻が、のんびりした声でとんでもないことを言った。
「……そうかな」
「うん。あの育ちの良さ、ちょっと変」
「そこまで見る?」
「見るよ。だってああいう人、漫画だとだいたい裏設定あるもん」
「漫画基準なんだ」
「絵描きだから」
その理屈には妙な説得力があった。
真白は少しだけ笑い、窓の外へ視線を戻す。
担任だけが全部知っている教室。
しかもその担任自身も、たぶん何かを隠している。
冷静に考えると、だいぶ怖い。
でも、その怖さが今は妙に嫌ではなかった。
たぶん、この教室にいる人間はみんな少しずつ、
知らないふりをする優しさ
の上に立っているのだ。
風間はその最たるものなのだろう。
「……わりと怖いけど」
真白が小さく呟くと、
「うん、わりと怖い」
と絵麻も即答した。
そのテンポのよさが少しおかしくて、真白はまた小さく笑ってしまった。




