神々の戯れ・2a
ヴァルハラ・ランド内には二種類のバスが走っている。ド派手な装飾と楽しいアトラクションを兼ねた来園者用のものと、装飾を一切排し、それどころかどこを走っているのかすらもわからないように裏道のみを通行することが許されているスタッフ用のものとだ。
イーロス・クラロスは、着の身着のままでバスに飛び乗った。彼は白いTシャツの上から黒い皮ジャケットを羽織り、汚れたままのジーンズと鉄板入りの安全靴を履いている。荷物は茶色い革製の頭陀袋のみ。そこには彼の全財産が詰め込まれている。
昼間はほとんど乗客がいないスタッフ用のバスには、イーロスの他には二、三人、ひっそりと顔を伏せるようにして乗り込んでいるだけだ。
ハリボテが剥き出しの木製のセットの裏側を、無地のバスは音もなく通過していった。あのハリボテの向こう側には、明るく楽しい夢の世界が広がっている。イーロスたち裏方が、それを見えないところで支えているのだ。
資材やガラクタが積み上がり、裏方スタッフたちがタバコやコーヒーを手に休憩しているすぐ脇を、バスが通過していった。目に入ってくるスタッフたちの中には、イーロスがよく知っている者たちの顔もあった。彼らもまた、さまざまな夢を持ってこのランドに集い、そして、同じくくすぶっている連中だ。
もしかしたら、彼らのことをこうして目にするのは、これが最後になるかもしれない――
そうした考えが頭に思い浮かんだとき、イーロスがまずやったのは、それらを頭から打ち消すことだった。
まだ早いぞ、イーロス、油断は大敵だ。調子に乗ったら、チャンスは逃げちまうぞ。
大きなセットを担いだ一団が目の前を横切った。動物を模した巨大なキャラクターたちとその背景が乗った台を、大勢のスタッフが肩に担いでお神輿のように運んでいた。それらが行ってしまう間、バスはその場に停止した。
イーロスはバスの窓を開けると、すぐそばで休んでいる顔なじみたちに手を振った。彼らは箱馬を積み上げて、その上で思い思いにくつろいでいた。
「やあ、お疲れ」
「よう、どうした、イーロス、今日は早じまいか?」
頬を覆う赤い髭がよく似合う、友人のバルバ・ルーブラが、箱馬の上からその大きな手を振り返してきた。口に咥えた葉巻が、彼の雄々しい顔によく似合った。
彼らには、まだイーロスに関するニュースは届いていないらしい。その表情には、自分たちと同じ境遇の仲間に対する憐れみと気安さがあった。
「なんだか、急に用事ができたんだ」とイーロスは言った。
「そうか、今度こそでかい仕事か?」
バルバの赤い目は静かな期待に燃えている。仲間がチャンスを得れば、そのおこぼれに預かるチャンスもまたあるからだ。
イーロスは、まだ笑顔を見せるのは早いと思った。だから、むしろ渋い顔をしてみせた。
「どうだろう……、いつもどおりの感じだよ」
「そうか、まあ、せいぜいがんばってこい」
バルバは気の毒そうな顔をした。彼もまた、イーロスに負けるとも劣らない甘いマスクと素晴らしい体躯を持っている。しかし、その額と目尻に刻まれた深い皴は、これまで何度も味わわされてきた失望を物語っていた。
イーロスの胸に、不思議な甘い罪悪感が芽生えた。
セットを担いだ一団が通過し終えたので、バスは再び走り出した。
王宮は円形の堀に囲まれている。東西南北に架けられた橋には、城へと行き来する来園者たちが溢れかえっていた。
裏方スタッフは橋を渡らず、堀に浮かぶボートに乗り換えることになっている。そして、橋の下に隠されている秘密の入り口から、ボートごと宮殿に入っていくのだ。
頭陀袋を持ったイーロスが、小さな船頭付きのボートに乗り込むと、それはすぐに迷彩フィルムによって隠された。薄い膜でボート全体を覆うことによって、客たちの目にスタッフの姿が入らないようにするためだ。
イーロスのほうからは、来園者の楽しそうな顔がよく見えた。見上げると、視界の端から端までを大きな橋が渡っており、その上を人間たちが埋め尽くしている。橋は十分なほど大きく頑丈に作られているが、それでもあれだけの人数を支えなければならない場合、どれだけの重量があそこに掛かっているのだろうかと考えると、技術職の彼はついハラハラしてしまうのだった。
やがてボートが橋の下に入ると、周囲は暗くなり、遠くのほうで水に映る空がゆらゆらと動く様しか見えなくなった。
必要なくなった迷彩フィルムが取り除かれ、イーロスの顔に冷たい風が吹きつけた。それは宮殿の地下から吹き上がってくる風だった。
真っ暗な桟橋に、ボートが横付けされた。
「こちらからお入りください、クラロスさん」
船頭が急に礼儀正しく頭を下げたので、イーロスはかえって申し訳なく思った。いえいえ、どうせ俺なんかはなんの結果も出せずにすぐ帰ってきて、いつも通りの生活に戻るだけですよ、と思わず謙遜しそうになる。
だが、それではいけないのだ。戻ることなど考えてはいけない。俺はもう二度と、裏方としてくすぶり続けるつもりはない。
幸運とは、準備とチャンスが出会ったときに生まれる――
確か、昔の偉い人がそんなことを言っていた気がする。自分はこれまで、抜かりなく準備を進めてきた。生活のあらゆるすべてが準備の一環だった。格闘技を習っているときだけではなく、寝ているときも、仕事しているときも、家事をしているときも、すべてがトレーニングだと思ってやってきた。呼吸一つ、立ち方一つ、歩き方一つ、腰のかがめ方一つ、ものの持ち上げ方一つ……挙げればきりがないが、どれ一つとってもいい加減にやってよいことなどないのだ。
イーロス・クラロスは、薄暗い王宮の地下通路に足を踏み入れた。レンガの床は湿り、かび臭い。だが、あの向こうに、光に満ちた表舞台が待っている。
今日、彼は本物の剣闘士になるのだ。




