七話
「……何を、何をお教えすればよろしいのですか」
手刀式膝かっくんの余韻が残る微妙な沈黙の中で暫く見つめ合った後、夕太が溜息交じりにそう言った。どうやらあのまま見捨てられるのは回避できたようだ。
普段は目線を合わせてくることなどないのに、続きを促すようにじっと覗き込まれているのがわかった。何かしら、答えを求められているのだと思う。
多分、チャンスは一度きり。
正しい解答があるとは限らないが、この質問には確実に間違いは、地雷はある。
そして、どんなことを言えばいいのか私には見当もつかなかった。
今までの私だったらそんなこともなかったのだろうが、今日で夕太に対する認識は大幅に変更せざるをえなくなったのだ。自信など持てるはずがない。
昼の聞いた怒りの声も、夕方になって知った有川様に似ていると思っていた驚愕の自己意識も、ついさっき見たばかりの絶望の滲む表情も……私は全て、婚約破棄した今になってわかったことばかりなのだ。
私は夕太のことを一切知らなかった。
だったらもう、私が言うべきことは一つだけしかない。
じれったかったのか、夕太がせかすように問い直したのに今度は即答する。
「何をお教えすればよろしいのですか」
「全部!」
夕太が微かに驚く。今日はスーパーサ〇ヤ人並に稀少な夕太の感情表現でもバーゲンセール並に連発されれば動揺も減る。
こっちは全部と訊けばさしもの夕太とて答えぬわけにはいくまいとどや顔を堪えるのに苦労しているのに、本人は俯いて黙ってしまった。
なんだと、これも駄目なのか?
浮かれた気分も吹き飛んで、言ってはいけないことをしてしまったのかと焦っていると夕太はたった今そのことに気付いたかのように当たり前のことを呟いた。
「そうか、そうですね……貴女は、緋佐奈でしたね」
私が緋佐奈であるのは周知の事実であるはずなのだが。どういうことなのか。
今度は私が黙って夕太の発言を促す立場になり、また沈黙が落ちる。けれど、どうしてか先程の静けさより空気がやわらかい感じがした。
「緋佐奈さん、流石に全部ですと範囲が広く話しにくいので一番知りたいことから順に質問しなおしてくださいますか」
夕太は顔を上げると私の手を取ってソファーに腰かけるように促してくれる。気のせいかすっきりした様子で前を向いていた。
ローテーブルを挟んで向かい合って座ると、スタンドライトの暖かな色味をした光が当たり瞳の色の茶が濃くなる。
どうやら峠は越えたらしく、夕太はゆっくり私の話につきあってくれるそうなので素直に一番気になっていたことを尋ねた。
「では、恥ずかしながら立ち聞きをしてしまったのだが、昼に言っていた……他者との交流を望んでいない、というのはどういうことなのだ……?やはり私がいるのは迷惑だったのではないのか?」
『わかった風に戯れ言をほざく輩に意識を割くほど、不愉快極まりないことはありません。どれもこれも私の何を知ったつもりになっているのか……私は他者との交流なんて望んでおりません。正直、貴女の発言には虫酸が走ります』
一回しか聞いていない言葉が、今でも鮮明に思い浮かぶくらいに私にとって衝撃的な発言だった。
だからこそ慎重に声に出したのだが、夕太はあっけらかんとしていて大したこととも思っていないようだった。
「ああ、あの時聞いていたんですね……失敗でした。少なくとも緋佐奈さんの前で言うべきことではありませんでしたね」
夕太は納得したように頷くが、こちらはさっぱりだ。この様子を見ていると、最低でも私だけに向けられた言葉ではないようだが。
「あれは、まあ、八割方貴女に向けたものですけれど。緋佐奈さんを嫌っているということではありませんよ」
は、はちわり。過半数を余裕で確保しているではないか。
「安心してください。あれは愚痴のようなものです」
……愚痴?
戯れ言だと不愉快極まりないと言っているのがか。
愚痴で一々そんな過激なことを言われても困るぞ。
「まあ、一旦そちらは置いておいてください。それで、これは解答のうちに微妙に含まれるので聞いておきたいのですが……緋佐奈さんは本当に婚約破棄をお望みですか。今日は想定外の事ばかりでつい感情的になってしまいましたので、驚いたでしょう?」
また、何かを見定めるような冷たさの混じる眼差しが向けられる。
「……確かに夕太が感情的になるのは初めて見たが、それはいけないことなのか?私は常々、もっと思うままに行動していいと言っていたはずだぞ。それに、なんというかだな、破棄の話は、まあその、昼の言葉でショックを受けて、とにかく夕太を傷つけていたなら解放しなくてはと思ったからで……自ら望んだということではない」
なかなか経験しない冷や汗をかくという現象を味わいながらしどろもどろに言う。実際、言い訳なので言い訳がましくなるのは致し方ない。
そんなかなり怪しい言い分だったのにも拘わらず、夕太は安堵の溜息をついた。
「でしたら、婚約は破棄しなくてよろしいですね。では、本題に入りたいと思いますが、ここからは痛み分けです。私も損害を受ける覚悟でお話しますので、耳を塞がないでくださいね?」
……なんの了解も取らないで婚約続行を決定されたのだが。そして、痛み分け……?
不審に思って首を傾げつつも続きを聞く。
「緋佐奈さん、私は貴女や皆が思っているよりも感情は豊かだと思います。表情筋は物心ついた時から動かすのが苦手でしたが、動かないという程ではありません。寧ろ、日々の生活で機微が現れないように細心の注意を払っています」
このように、と付け足して夕太は微かなぎこちなくはあるが、笑みを作って見せた。
顔が整っているだけ作り物めいているようにも見えるが、普段の表情という表情をそぎ落としたような顔ではない。
薄い茶色の目が弧を帯びるように少しだけ細められ、口元が数ミリ上がっただけなのにまるで別人のように見える。見る人によっては無表情に取られるかもしれないが、いつもの彼を知っている人間ならばその変わり様に驚かずにはいられないだろう。
かくいう私も、未だに無意識ながら重ねていた公爵の面影が消えて初めて“夕太”という人間を見たような気分だった。
本当にこの一日で一生分驚いているのではないかと思う。息も出来ずに口の開閉を繰り返して目を見開く私に夕太は起伏が乏しいながら穏やかな口調で語りかける。
「な、なんでそんな事をしてまでっ……!」
「これをようやく貴女に言えて私は嬉しいです。緋佐奈さん、私は有川でもどこぞの公爵でもないんです」
いや、それは知っているが――と言いかけて止められる。
ん、待て、何故公爵が出て来るんだ?!
「いえ、わかっていませんよね。婚約の話が本格化した11歳初頭、金沢と話す時の口癖覚えていらっしゃいますよね?」
11歳といっても、少女漫画片手に夕太と交流を図った黒歴史しか……、待て、黒歴史しかない時代ではないか!
しかも、教育係の金沢になんてどれだけイタイ事を口走ったかわからん。
ざあ、と音を立てて全身の血の気が引いていく気がした。
その時の夢見がちというか夢見ガチな状態のお花畑思考の自分の口癖なぞ思い出したくもないし、夕太に聞かれていたとなったら死ぬ。恥ずか死すること間違いなしだ。
「金沢……っま、待て、それはもしかして」
心当たりがありすぎて候補が絞りきれないが、どれもこれも危険過ぎて脳内ですら言いたくない。慌てて夕太の口を塞ごうとするが、別人28号な微笑みをたたえたままあっさりと言葉にされてしまった。
「はい、だいたいその辺りですね。
『金沢!わたしの婚約者はな(確定ではない)、あの有川さまそっくりの公爵なのだ!だから絶対に仲良くなって幸せにするんだ!』
今でも覚えていますよ。懐かしいですね?」
ああ、死んだ。何かしら大切なものが消えゆく音がする。
あの電波な会話内容が一部でも知られていたのか。
走馬燈のように幼気で痛々しい記憶が脳裏に流れ、脳内が炎上していく。
私は夕太の結論を聞く前に燃え尽きそうだった。真っ白にな。