準備と壊心
「福さん、そろそろ行くね」
菜々海が静かに立ち上がる。
「この手紙。姉さんの机の引き出しに入っていたの。ぐちゃぐちゃに丸まっていたし、途中までしか書いてないんだけれど…」
菜々海は綺麗に伸ばした一枚の便せんを僕に差し出した。
「今の福さんなら読んでも大丈夫かな?来年はお姉ちゃんに会いに行こうね」
そう言って菜々海は歩き出した。その背中は、日差しの中に溶けてゆくみたいだったけれど、少しだけ足取りが軽いように見えた。
ふと手紙に目を落とす。見慣れた文字が飛び込んできた。丁寧で少しだけ丸っこい、女の子らしい読みやすい字。…空の字だ
月へ
わたしのワガママでこんなことになってごめんなさい。
友達が彼氏と別れた時、わたしはひどいことを言ってしまったの。
それからその子とちょっとギクシャクして…それが嫌で…
学校の課題も研究も忙しくて、気がついたら毎日が辛くて…
なんだか、もう凄く疲れていたんだと思う。
きっと月は優しいから、全部話せば笑って許してくれたと思うよ。
でもね。どうしても言えなかった。言えなかったの…
夢に向かって一歩一歩進んでいくのが羨ましくて。ほんの少しだけ妬ましいと思ってしまった。そんな自分が嫌で嫌でたまらなかったよ。
月に別れようって言われた時は、『ああ、やっぱりね』って思ったよ。こんなわたしと一緒にいるのは、月にとってもよくないと思った…
わたしも、かわいそうになりたかったのかもしれない。
3年間、今まで本当にありがとう。月と過ごした日々はわたしの宝物です。いっぱい色んなものをもらったね。全部大切にします。
ねぇ、月。わたしとはこんな風になってしまったけれど…ななとは変わらず仲よくしてあげてね。
それを…わたしの最後のワガママにします。
でもね、それでもやっぱり別れたくないよ。
思い出の文化祭楽しかったな。
一緒にオプオプのお散歩行きたかったよ。
また江の島に行きたかったよ…
あの約束守れなくて…ご
そこで手紙は終わっていた。
白い余白が、空の言えなかった言葉で埋め尽くされているように感じた。
何で僕は、何も気がつくことができなかったんだ…
思えば、空とは最初からすれ違いだったように思う。
高校最後の夏休みも終わり、同級生は受験モードだったけれど、高校生最後の文化祭に向けてクラスは盛り上がっていた。
僕らのクラスは多数決の結果、うどん屋をやることになった。『うどん屋花道』当然雑用は僕と空が駆り出される。
面倒臭いことも沢山あるけれども、空と一緒にいられる時間が増えて、僕は内心浮かれていた。
放課後、文化祭の準備で残っている時に空が唐突に聞いてきた。
「福田くんは受験どうするの?」
痛いところをついてきた。実際、将来のことや進路のことは遠ざけていた。
「まだ何も決めてないかな?やりたいこともないし…」
曖昧に答える。
「そうなんだ。でも福田くんお料理得意なんでしょ?そっちの道は?自分のお店作ったり。似合うと思うよ。そしたらわたし通うな」
僕が漠然と考えていたことだ。マキさんの元旦那さんのお店に凄く興味が湧いていた。
「綾瀬さんは?」
「わたしは推薦組。東邦大の薬学部かな?」
空は成績も優秀だった。
「薬剤師になるの?薬学部は大変ってバイト先の先輩が言ってたよ」
「その先輩って青木って人?この前、菜々海が告られて困ってた」
あー青木さんも菜々海ちゃんのこと狙ってたもんな。ついに告ったんだ。
「そうなんだ。菜々海ちゃん人気あるからね。この前もお客さんから何か貰ってたよ」
「あの子、誰にでもああだから…勘違いさせちゃうんだよ。福田くんはななのことどう思う?」
好きな人に他の女の子のことを聞かれると困る。しかも妹だし。マキさんが言っていたように菜々海ちゃんは本当に僕のことを…
頭がこんがらがりながら答える。
「いいこだと思うよ」
嘘は言ってない。
「ななは福田くんのこと好きみたいだよ?毎日福田くんのこと聞いてくるし、ほら?わたしがやたらと好きな漫画とか、音楽とか聞いてた時期あったじゃない?全部ななが聞いてこいって…」
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
僕と話をしていたのは菜々海ちゃんの為?そうだったのかと思うと、やりきれない気持ちが僕を打ちのめす。
平静を装って聞いてみる。
「僕が、菜々海ちゃんと付き合うことになったらどうする?」
「ちょっと複雑かな?でも応援するよ」
複雑かな?って何?でも応援するって。
告白もしてないのに振られた気分だった。
僕と話をしている時の綾瀬さんは凄く楽しそうにしていたし、いつも笑顔だった。
夏休みに一度だけ二人で出かけた時も悪くない雰囲気だったし、ひょっとしたら僕のことを…なんて期待もしていた。
文化祭の後で告白しようと、ベタベタだけど考えていたのに…
『綾瀬さんは?好きな人いないの?』
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。まだ決定打は聞きたくなかった…
誰かが言っていたのか、漫画のセリフだったか忘れたけど、その言葉が突き刺さった。
『自分が好きになった人が自分のことを好きだなんて奇跡だよ。だから両想いって尊いんだよ』
ああ、僕には奇跡は起きなかったんだな。




