洋酒と優心
潮の馨が少しだけ変わったように感じて、大きく息を吸った。
菜々海は僕と同じ雲を見ながら小さな声で呟いた。
「…ユウちゃんにバトンタッチしてもいいかな?」
波の音にさらわれて、その声はかすかにしか届かなかったけれど、ほんの一瞬だけ菜々海の声が震えたように聞こえた。
「ユウちゃんにお弁当、作ってあげてね」
まるで姉に伝えるように、菜々海は両手を空に向かって真っ直ぐに伸ばした。
「今度作るよ」
それも悪くないな。と心の中で呟くと、ユウの笑顔が浮かんだ。
少しの沈黙の後、ふいに菜々海が僕の肩にもたれ掛かってきた。
「ゴメンね…少しだけこうしててもいい?」
その頬を伝う涙がまるで小さな波のように僕の肩を濡らす。
それでも、菜々海の肩を抱き寄せてあげる事はできなかった。抱き寄せることができたなら、どれほど楽なんだろうか…けれど、そうすることで、自分の感情がどこかに流れて行ってしまうのは解っていた。
「ユウと、昔のななちゃんって…ちょっと似てるよね?」
菜々海は一瞬ぽかんとした表情を見せた後、涙を袖で拭い、微笑みながら顔をあげる。
「…本当、とんちんかんだな。やっぱりずれてるよね」
「わたしはあんなにバカじゃなかったでしょ?」
その笑顔は優しい潮風に包まれて、どこか遠くに消えてしまいそうに見えた。
話題を変えるつもりだったのだけれど、僕はまた菜々海を傷つけてしまったのかもしれないな…あの頃のマキさんの言葉が心の中に蘇る。
マキさんに連れて来てもらったカフェは少し大人びて見えた。けれども落ち着いた雰囲気で居心地はよさそうだった。
マキさんは窓際の席に迷いもなく座ると、僕に向かいの席を勧めた。僕は少し戸惑いながら座る。居酒屋の椅子とは違って、ふかふかで心地よい。
僕も綾瀬さんとこんな所でご飯とか出来たら、ちょっとカッコいいのにな…そう思って少し羨ましく感じた。
「いらっしゃい。今日はずいぶん若いの連れてるな」
カウンターにいた渋い男の人が、慣れた手つきでグラスを置きながら声をかけて来た。
「はい。ドライベルモットのロック」
「先に持ってくんなよ。違うの飲むかもしれねぇだろ?」
「違うの?」
「いや、これが良い」
二人の慣れたやり取りに僕は少し戸惑う。まるで僕だけが子供で、置いてけぼりになったみたいだ。
…大人ってこんな風に余裕があるんだな。と感心する。
「マキの所のアルバイトさんかな?こいつ口悪いだろ?」
男の人が僕の肩を軽くポンと叩きながら言う。
「君はビールで良いかな?」
「高校生に飲ますな!」
マキさんが肩を揺らして笑い、コーラを頼んでくれた。
「あー、あれ?元配偶者。元な」
「言ってなかったか?あたしバツイチって」
マキさんはさらりと言った。
「重く取るなよ」
僕はきょとんとしながらも、その軽やかな空気に少しほっとした。
「あいつの名字『真木』って書いてマキつーのよ。あたしも風切羽マキで、下の名前『マキ』じゃん?結婚したらマキマキになるからオモレーと思ったんだけどな。やっぱ変だから別れたんよ」
持ちネタのように笑うマキさんに、僕は心の中で笑っていた。
「ほら、好きなの頼みな。大概いけるぞ」
マキさんはお酒のおかわりとつまみを注文して、僕にはパスタを勧めてくれた。横文字だらけで意味は分からなかったけれども、『ペスカトーレ』と言うのを頼んだ。
「昨日、菜々海が真剣な顔であたしんとこ来たよ」
マキさんは唐突に切り出して来た。
「お前さ、菜々海の気持ちに気がついてないふりしてんの?はぐらかすのもう止めろ」
グラスを傾けながら、言葉が少し揺れた。
「それ、優しさでも何でもないぞ。人を傷つける痛みも知らねぇ奴の、勘違いした優しさってな、残酷なこともあんだよ」
沈黙が落ちる。グラスの中の氷が小さく鳴った。
マキさんの言っていることはなんとなくだけど分かる。でも菜々海ちゃんは誰にでも明るく接するし、僕だけが特別だとは思った事はなかった…それに凄くモテる。
マキさんは続ける。
「でもな…今はそれでもいい」
マキさんはふっと笑い、僕の肩を軽く叩いた。
「お前は単純に良い奴だし、まだお子ちゃまだ。これから知れば、それでいいんだよ」
その声は酔いのせいか、少し低くて、やけに胸に響いた。
「菜々海はもっとお子ちゃまだけどな。まぁ、あたしにとっては二人とも可愛い、大切なスタッフだからな。今日は少しお節介を焼こうかと…」
マキさんの少し照れくさそうな笑顔に、胸の奥がぽっと温かくなった。
お酒のグラスだけ持ってマキさんはふらりとテラスに出た。僕も後を追う。外の空気はひんやりとしていて、少しだけ秋の香りが混じっている。
「姉ちゃんとは、何か良い感じなのは分かったけど…」
マキさんはタバコに火をつけ、ふぅっと煙を吐きながら続ける。
「あたしが言うことじゃないかもだけど…菜々海、あの子はマジっぽいぞ」
僕はどう答えたら良いのか分からなくて、ただ黙っていた。
「お前は姉ちゃんにマジなんだろ?」
「あ。はい」
「だから…はい。の前に…」
マキさんが呆れた顔をしている。
「あ。は着けない…です」
「どっちにしても、菜々海が答えを求めて来たら、逃げないできちんと向き合えよ。答えをあげられるのはお前だけなんだから」
そう言ってマキさんはタバコを灰皿に押し付け、お酒のおかわりを取りにカウンターに向かった。
…僕はテラスで菜々海ちゃんの事を考えていた。アルバイト中も僕の近くにいる事は多かったけれど、高校生同士で年が近いからなんとなくだろうと思っていた。
実際、菜々海ちゃんはモテるし、僕なんかがそういう対象になるなんて思ってもいなかった…
どうしたら良いんだろう?嬉しい気持ちが無い訳じゃない。けれども、綾瀬さんのことを考えると頭の中がぐちゃぐちゃになる。
お酒を持って戻って来たマキさんを見て、僕は思わず声を上げた。
「マキさん…僕はどうしたら良いんですか?」
そして小さな声で続ける。
「昨日、菜々海ちゃん…何て言ってたんですか?」
「それをあたしが言ったらフェアじゃない」
マキさんはまたタバコに火をつけると、少しだけ真剣な目を僕に向けた。
「まぁ、菜々海が向き合う気になったら、ちゃんとした方がいいっつーことだ」
「じゃないと、アオいだけで…アオハルじゃねー」
そう言ってマキさんはニヤリと笑って、僕のオデコをちょんと突いた。
何だか凄く子供扱いされたけれど、それでもマキさんの優しさは、僕にしっかりと伝わった。
「ご馳走さまでした。どれも凄く美味しかったです」
帰り際、僕はマキさんの元旦那さんに頭を下げた。
「君、福田くんだっけ?マキの店辞めて家の店に来ない?俺も真木だし。やりやすいぞ?」
「止めろ、あたしの大事なスタッフだ」
マキさんが元旦那さんの胸を思い切りどつく。二人のやり取りを見て、僕は思わず笑ってしまった。
「まだ酒が足りねー」
と言いながら、マキさんは店に戻って行った。
帰り道、僕の胸はまだざわついていた。
綾瀬さんの事を考えると胸がドキドキして落ち着かない。
菜々海ちゃんの気持ちを思うと、どうしたら良いか分からなくてそわそわする。
そしてマキさんがくれた言葉は温かくじんわり胸に染みた…
嬉しい、苦しい、あったかい、どうしようもなく分からない。そんな感情がいっときに押し寄せてきて、今日はとても忙しい1日だった。
明後日から新学期が始まる。
「宿題は全部終わってたかな?」
僕はゆっくり歩きながら、胸のざわつきを抱えたまま家に向かった。
夜の街の色とりどりの光が妙に落ち着かなかった…




