プロローグ ~壊れた人生、壊れた世界~
この世界には、壊れるものがある。
人の身体も、力も、そして——生き方も。
直そうとしても、うまくいかないことがある。
手順も、理屈も分かっているのに、それでも壊してしまうことがある。
それでも、もし。
壊れたものを“直せる”としたら——。
これは、壊すことしかできなかった一人の男が、
初めて「直す側」に立つまでの物語。
「……また、やったか」
机の上に散らばった工具を見て、俺は小さく息を吐いた。
分解した機械は腹を開いたまま、二度と戻らない顔をしている。
ネジが一本、余っている。
いや——一本じゃない。三本だ。
「……終わった」
背中にじわりと嫌な汗がにじむ。
そのとき、背後から低い声が落ちてきた。
「おい……お前、またやったのか?」と先輩が言った。
振り向かなくても分かる。
呆れた目。もう期待すらしていない目だ。
「す、すみません。今すぐ直します」と俺は言った。
言いながら、自分でも分かっていた。
——直せない。
俺は整備士見習い、三年目だった。
手順も理屈も頭に入っている。なのに、締める順番か、噛み合わせか、規定トルクか。最後のどこかで、必ず狂う。
何度手順書を読み返しても、最後に残るのは、いつも余った部品と失敗した現実だけだった。
先輩は機械をのぞき込み、小さくため息を吐いた。
「……今日はもういい。帰れ」
責められるより、よほどきつかった。
見放される言葉は、胸の奥を静かに削る。
俺は黙って工具を片付けた。
机に映る自分の顔は、疲れた三十路の男だった。
また壊した。
また終わらせられなかった。
また、先輩に後始末をさせた。
「……壊れてるな、俺」
うつむいたままつぶやくと、その言葉が妙に胸の奥へ沈んだ。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
街灯の白い光が、濡れた路面をまだらに照らしている。
「……帰るか」
独り言が、やけに空っぽに響いた。
横断歩道の信号が点滅している。
急げば渡れる距離だ。
そう思って、俺は無意識に駆け出した。
その瞬間だった。
眩しい光。
耳をつんざくクラクション。
視界が白く弾ける。
身体が浮いた。
「あ——」
声にならない声が漏れる。
——これ、終わった。
不思議と恐怖はなかった。
頭に浮かんだのは、たった一つだけだった。
「……ちゃんと直せる人間に、なりたかったな」
そこで、世界が途切れた。
―――――
……音がする。
規則的な鼓動のような音だ。
暗闇の中に、淡い光が浮かび上がる。
《スキル診断システム 起動》
《対象:自己》
《状態:構造安定》
「……は?」
思わず声が漏れた。
声が出た。
——ということは、生きている。
俺はゆっくりと手を持ち上げた。
見慣れない手だった。
小さい。細い。若い。
「……なんだ、これ」
混乱が追いつかない。
だが、目の前の半透明の画面は、俺の戸惑いなんて無視するように無機質に続いた。
《診断対象を指定してください》
そのときだった。
ドンッ!!
扉が吹き飛び、何かが床を滑って転がり込んできた。
「くっ……!」
鎧を着た女剣士だった。
片膝をつき、それでも剣だけは落とすまいと柄を握っている。
その指先にまで、暴れた光がまとわりついていた。
胸元から肩、腕へと、押さえきれない光が脈打つように噴き出している。
空気が裂ける音。
焦げた匂い。
剣が勝手に震え、金属音を細かく鳴らしている。
俺の視界に、異様な光景が広がった。
線だ。
彼女の体の中に、無数の光の線が走っている。
それはまるで——回路のようだった。
しかも、ところどころが赤く焼け、膨れ上がっている。
《対象検出》
《スキル:剣術》
《状態:暴走》
《崩壊まで:47秒》
「……なんだ、それ」
俺は呆然と呟いた。
剣士が俺を見た。
その目は、もう焦点が合っていない。
「逃げろ……!」と剣士は言った。
だが、その直後、彼女の口から別の声が漏れた。
「……いやだ……」
剣士はかすれた声で言った。
「まだ……終われない……」
逃げようとした足が、床に縫い止められたみたいに動かなかった。
次の瞬間、光が爆発した。
床が跳ねる。
熱風が叩きつける。
肌が焼ける。
俺の足がすくむ。
逃げろ。
そう思った。
でも——
視界の中で、回路が崩れていく。
赤い詰まり。
焼けた結節。
逆流する流れ。
壊れている。
はっきりと分かった。
「……これ、直さないと、死ぬよな」
できるかどうかなんて分からない。
むしろ——できる気なんて、まったくしない。
でも、このままじゃ終わる。
「……やるしかないか」
俺は一歩踏み出した。
手が震えている。
怖い。
それでも、止まらなかった。
俺は剣士に手を伸ばした。
触れた瞬間、視界が反転する。
回路が、はっきりと見えた。
ぐちゃぐちゃに絡み合い、焼け、詰まり、逆流している。
喉の奥が、ひゅっと狭くなった。
「……なんだよこれ……」
息を呑む。
だが同時に、分かる。
どこが壊れているか。
どこを触ればいいか。
「……分かる」
《崩壊まで:47秒》
俺は手を動かした。
赤い詰まりをほどく。
焼けた部分を避ける。
流れを逃がす。
指先が焼けるように熱い。
「くっ……!」
汗が目に入る。
視界が揺れる。
それでも手は止めない。
逆流を止める。
結節を締め直す。
暴れた流れを、無理やり本来の向きに押し戻す。
その瞬間——
バチンッ!!
回路が弾けた。
「っ!?」
衝撃で手が跳ね返される。
流れがさらに暴走する。
光が膨れ上がり、部屋の壁にまで赤い明滅が走った。
《崩壊まで:38秒》
「……嘘だろ」
頭が真っ白になった。
——無理だ。
本気でそう思った。
このままじゃ、間に合わない。
剣士の身体がぐらりと傾く。
握っていた剣が床に触れ、耳障りな音を立てた。
「……たす、け……」
その声が、耳の奥に刺さる。
「……っざけんなよ!」
俺は叫んだ。
「ここで終わるかよ!」
もう一度、手を突っ込む。
焼ける。
痛い。
皮膚の奥まで熱が入り込んでくる。
でも引かない。
逆流を止める。
裂けた結節を締め直す。
焼けた流路を避けて、別の道を作る。
ぐちゃぐちゃだった線の中に、わずかに“通る形”が見えた。
「まだだ……!」
《崩壊まで:12秒》
最後の詰まりに手をかける。
魔力が暴れる。
身体が持っていかれそうになる。
視界の端が白くかすむ。
指先の痛みが、ふっと遠のいた。
まずい。感覚が飛びかけている。
離すな。
ここで引いたら、こいつが死ぬ。
「——止まれ!!」
俺は叫び、力を込めた。
詰まりが抜ける。
流れが繋がる。
暴れていた光が、一気に細く、静かな線へと変わっていく。
――収束。
赤い光が消えた。
剣の震えが止まる。
焦げた匂いだけを残して、空気が静かになる。
俺はその場に崩れ落ちた。
「……はぁ、はぁ……」
息が荒い。
全身が震えている。
指先がまだ熱い。
焼けるように痛い。
でも——壊れていない。
画面が淡く光る。
《整備成功》
《スキル安定化》
「……直せた……のか」
俺は震える手を見つめた。
壊していない。
失敗していない。
初めて——
壊さずに、終われた。
胸の奥が強く締め付けられる。
「……俺、が……?」
剣士が、自分の胸元を押さえていた。
荒れていた呼吸が、少しずつ整っていく。
乱れていた肩の上下が、ゆっくり落ち着いていく。
「……動く」
彼女はゆっくりと拳を握った。
さっきまで濁っていた目に、少しずつ光が戻っていく。
そして、俺を見た。
「……ありがとう」と剣士は言った。
その一言で、胸の奥に固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
俺は小さく笑った。
涙がにじみそうになるのを、必死にこらえながら。
その瞬間、外から怒号が響いた。
「暴走者はどこだ!」と男の声がした。
重い足音が近づく。
剣士がふらつきながらも一歩前に出る。
「……逃げろ」と剣士は低く言った。
だが、俺は動かなかった。
画面が再び光る。
《新規対象接近》
《危険度:高》
扉が開き、武装した兵士たちがなだれ込んできた。
その瞬間——
俺の視界に、また回路が見えた。
兵士たちの中にも。
壊れかけている回路がある。
《警告:高負荷個体検出》
《連鎖崩壊:可能性 上昇》
「……なんでだよ」
俺は呟いた。
「こっちも……壊れてるじゃないか」
壊れた世界だ。
でも——
「……今度は、壊さない」
俺は立ち上がった。
赤く軋む回路へ向かって、俺はもう一度、手を伸ばした。
プロローグ・完
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
このプロローグでは、
「壊すしかできなかった男が、初めて壊さずに終われた瞬間」
を描いています。
けれど、これはまだ始まりに過ぎません。
この世界では、“壊れる”ことは例外ではなく、日常です。
そしてそれは、人の力だけでなく、社会や仕組みにまで広がっていきます。
次話からは、
彼が“整備士”として、この世界でどう関わっていくのか。
そして「直す」という行為が、何を意味していくのかを描いていきます。
壊れたものは、本当に直せるのか。
それとも——別の形でしか救えないのか。
その答えを、一緒に見届けていただけたら嬉しいです。




