6 暗黒神(マハーカーラ)の涙③
嵐の中、誰かが新聞配達のプレートのついた自転車をけんめいにこぎ、地割れだらけのでこぼこ道ではずみまくりながら、全速力で向かってくる。
メイすれすれでブレーキをきしらせ、つんのめるように止まった。
横殴りの烈風にビニール合羽をちぎれんばかりになびかせ、度の強い角ぶち眼鏡をかけたさえない男性が、あたふたと自転車から降りる。
名乗りもせずいきなり、手の中のものをメイに押しつけた。
見ると、真珠だった。
ずっと握ってきたらしく、人肌に温まっている。
粒はさほど大きくないが、三粒。なんとなく本物っぽい。
「投げてください」
言われてメイは、あせった。
「えっ? あ、あの……」
「どこへってあなた、もちろんあの龍神様に向かって投げるんです。素戔嗚尊を助けたいんでしょう? だったらその気持ちをこめて、はい、投げて」
口に出す前のメイの疑問に先回りして答え、せっかちにうながす。
メイはなにもわからないまま従いかけたが、はたと思い出した。
「でっ……でもあのわたし、遠投二十メートルも、と、飛ばないんですけど……」
どう考えても黒雲の上でうねる龍まで届くとは思えない。しかし、
「大丈夫、できると思うことはできます!」
角ぶち眼鏡の男性は力強く、破壊神と同じことを言った。
眼鏡は曇っているし、頭からつま先までずぶ濡れのくせに、今ここで起きていることなど問題でもなんでもないみたいに、あっけらかんと微笑む。
「信じれば必ず届きます。そうなるようにその真珠だって助けてくれますよ。だから、ありったけの気持ちをこめて投げてくださいね」
「……はい」
不思議なことに、この相手が言うなら、確かにそうなるような気がした。
メイは素直に荒れ狂う湖へ向き直り、最初のひと粒を右手に取って、投げる。
(あ……)
しかし真珠は湖どころか、崩れた駐車場の半ばまでも飛ばずに泥水の中に落ちてしまった。
メイは青くなり、真珠をくれた人物を肩越しにかえり見る。
相手はしかし、その調子です! と言わんばかりの明るい笑顔でうなずいた。
メイは恐る恐る、ふた粒めをつまむ。
そのとたん。
後ろの男性とは別の、とても優しい笑顔の気配が、指先から伝わってきた気がした。
(飛びそう)
思った時には投げてしまっていたが、投げたというより、真珠が自ら指先から飛びだしていったような感じだった。
真珠は勝手に加速し、真っ暗な嵐の空高く、美しい光の線を描く。
「!」
どう見ても方向違いに飛んだのだが、その光を見たとたん、メイはなぜか胸が熱くなった。
真珠が、龍神のもとへ行きたがっているような気がした。
真珠は龍神を愛しているようだった。
いや、違う。
この真珠の持ち主が愛している……愛していたのだ。
淡くきらめく金髪と澄んだ水色の瞳、はかなげな女性の面差しが脳裏に浮かんだ。
かすかな血のにおいをまとう半吸血鬼──えりもとに真珠のブローチを留めた美しい女性のイメージが、優しく、励ますように微笑む──。
「……ありがとうございます」
お礼の言葉が口をついて出たと同時に、真珠はメイの手のひらから、ふわ、と浮き上がった。
投げてもいないのに美しい光の尾をひき、黒雲のただ中へ飛んでいく。
「うわ……できたね」
楓が不思議そうにつぶやく。
メイは、思った。
真珠は龍神を抱きしめ、止めに行ったのだ。
そう理解したとたん、見あげる目から涙がこぼれた。
真珠を持って来てくれた見知らぬ人物が、なぐさめるように肩をたたいてくれる。
瞬間、真珠が龍神に届き、やわらかい光が、真っ暗な空いっぱいに広がった。
龍神の動きが、止まる。
メイは思わず目を閉じた。
だが見えた。
一秒の百分の一にも満たない刹那に──
破壊神が巨大化した龍神の真下へ大気を貫いて急降下、片腕を特大の光の鎌と化した。
瞬間。
大陸をも両断する白銀の軌跡が地から天へ、無数の光のかき傷となって視野を埋め尽くし、
(!!)
巨大な龍神も嵐雲も、大気までもろともに斬り飛ばされ、極大の爆風が炸裂した。
◆
破壊神は、人間を殺さない、という約束を覚えていてくれたらしい。
数回、よぶんに刃をふるって爆風の威力を殺いだ。
でなければ、ありえない烈風に直撃された地上は人間どころか湖も街も、根こそぎ消し飛んでいたにちがいない。
それでも湖上空には驚異的な低気圧が残り、嵐はたちまち激化した。
いたるところで電線がちぎれ屋根が飛び、街路樹が根こそぎ転倒する。
あまりに凄まじい風雨に、顔もろくにあげられないほどだ。
そこへ──
はるかな上空から。
無数の、龍神の破片がゆっくりと、音もなく落下してきた。
当初それは、黒い雪が降ってくるかに見えた。
しかし距離が縮まるにつれ、雪と見えた破片すべてが家より大きいことが明らかになる。
「!」
破片は次々に湖面に落ち、ものすごい水柱をあげた。周囲の山に落ちた破片も木々をへし折り、斜面を削って転がり──ひとつ、またひとつと、自ら還るように湖へ沈んでいく。
豪雨に加え、龍神の破片の圧倒的体積のせいで、湖の水かさはみるみる増した。道路の上まで激しい波が打ち寄せ始め、メイはぼうぜんと立ちつくす。その横で、
「たいへんけっこうでした!」
ビニール合羽に角ぶち眼鏡の男性が、場違いなほど朗らかな声を出した。
「では次に、この嵐をやませて湖を鎮めてください」
「ええっ!? そっ、そんなこと……」
今度は「できません」と口走るのだけは我慢したが、どう考えてもできる気がしない。
すると、見知らぬ眼鏡の男性はにっこりした。
「では、お手本を見せましょう」
氾濫寸前の荒れ狂う湖へ、あらたまった面もちで向き直る。
吹き倒されそうな烈風に合羽のフードを飛ばされ、痛いほど大粒の雨と波しぶきでずぶ濡れだというのに、ぱん、ぱん、と音良く柏手を打った。
そのまま、びっくりするほど単純素朴に合掌し、一礼する。
「水の恵みに感謝します。風の恵みにも感謝します。いつもありがとうございます。ですが今はもうじゅうぶん。どうぞ、お鎮まりください」
心からの感謝と信頼に満ちた、このうえなく穏やかな物言いだった。
大きな声でさえない。
なのに荒れ狂う暴風雨にも負けず、その場の全員の耳に言葉が届く。そのとたん、
(え……?)
嵐の中、なぜか男性のまわりだけがふっと、明るんだように見えた。まるで幻の晴れ間から陽射しが射しこんだような……そこだけのどかな、そよ風が吹いている心地さえする。
「!?」
次の瞬間、信じられないことに突風が不意にゆるみ、ほんとうにそよ風になった。
雨も急に勢いをなくしたかと思うとたちまちあがり、渦巻く黒雲にいたっては、嵐発生の経過を高速で巻き戻すかのように、みるみるうちに青空に溶けこみあとかたもなく消えていく。
(うそ……!)
抜けるように晴れあがったまぶしいほど明るい青空から、龍神のかけらの最後の一片が、ゆるゆると落ちてきた。
大きい。
湖面に接れるやいなや、轟音とともに特大の水柱があがった。
真っ黒に濁った湖全体に、津波のような波紋が広がる。
「お鎮まりを」
迫りくる、家の二階まで届きそうな高波に向かって、角ぶち眼鏡のさえない男性は、あくまで穏和に、そっとなだめるように手のひらを向けた。すると──
波のエネルギーがどこかへ霧散してしまったかのように、高波はみずから、あっけなく崩れ落ちた。広い湖面も見る間にきらきらと、くまなく青くないでいく。
「……すっごい手品」
楓が驚きを通りこしてあきれたような、信じたくないような顔つきでつぶやく。
ミコが、へたりと腰を抜かした。
鬼のしんらは赤い顔を心なしか白くして、ライオンに出会った子ネズミのように震えだす。
「な……なんちゅう霊力じゃ! あ……あなたは、まさかァ……」
じりっと後ずさりしかけるしんらを、角ぶち眼鏡の男性がひょいとふり返った。
見あげるような鬼の巨体を前に、にぱ、ともにへら、ともつかない、気が抜けるほど人なつっこい笑顔になって、照れたように眼鏡を直す。
「あ、申し遅れました。私、警察庁霊能局、零課課長の大谷野真悟という者です」
「あ……わ……わわ……」
「なにも怖いことないですよ。それより今回はご協力、まことにありがとうございました」
しんらに、続いてミコにも、公務員らしい折り目正しさで律儀に、丁寧に頭をさげた。
「零課の課長さん……なんですか?」
メイはようやく少し落ちついて、あらためて相手を見直す。
これほど威圧感のない人物もめずらしかった。
温和でどこまでも平凡な顔だち、度の強い角ぶち眼鏡をかけている。
身なりにはかまわない方らしい。髪は雨で濡れているぶんをさっぴいてもあまりにぼさぼさだし、体格もたよりないほど貧相だ。そのうえ透明なビニール合羽の下はずぶ濡れのジーパンにTシャツ──どこからどう見ても警察にも、偉い人にも見えなかった。
(でも……そばにいるだけでなんだか不思議に……安心するような……)
嵐と荒波を鎮めてのけたのは、確かにすごい力にちがいない。けれど、目の前で実演されてしまうとなぜかかえって、ただ自然なことが起きただけのようで、ちっとも怖くなかった。
と、そう思った時に目が合ってしまい、メイは心を読まれた気がしてどぎまぎする。
なんともさえない零課の課長はしかしまた、にぱ、と嬉しそうに微笑んだ。
「あなたのご協力にも感謝します。とりわけ素戔嗚尊に人を殺さないようお願いしてくださったのはお手柄でした! でなければ巻き添えで、この地方丸ごとなくなっちゃってました」
「あ、はい……でも……」
「ええ、尊は向かって来ない相手の命はお召しになれません。でも、気づいていらっしゃいませんか? 尊は時に、ただ通りすがっただけでも数多の命を奪われます。しかし御みずから手をくだし、お狩りになった相手以外の命まで、お召しになるわけではありません。お目に留まることもなかったその他の命は、ただ巻き添えで死ぬだけなんです」
「あっ……」
そのとおりだった。
破壊神は直接殺した相手の塵は、その気がなくても吸収してしまった。
一方、血のとばっちりを浴びて塵になった多数の妖怪たちは、一匹も吸収されていない。
「というわけでみなさん、少しおさがりください」
「?」
指示に従い民家の軒先近くまで退避しながらようやく、全員がそれに気づいた。
西日にまぶしくきらめく湖の、はるか上空から音もなく、小柄な黒い人影が降りてくる。
破壊神だ。
しかし、逆光に白銀の髪を炎のようになびかせたそのシルエットは不気味なほど静か……もしくはうつろだった。その足が、濡れた路面についた瞬間、
「!?」
瞬時に水分は消し飛び、暗黒神に踏まれたアスファルトは風化してつぶれた。
周囲で、嵐を生きのびた木々がたちまち干からび、割れ砕けていく。黙って祈念をこらす大谷野課長の後ろにいてさえ、世の終わりのような荒廃と飢餓の気に息が詰まりそうだ。
「ああ……くそめんどくせえ」
半ばうつむいたまま、だるそうにつぶやく破壊神の、足もとがわずかに揺らいだ。
乾きはてた砂漠の岩山を抜けるような、不吉にかすれたため息とともに、その口から塵らしきものがさらさらとこぼれ落ちる。
「あのやろう、バラしても死にやがらねえ……石になっただけじゃ食えねえじゃねえか」
燃え尽きた炭が、ゆっくり冷えていく時のような金属質の音を立てて、その全身が真っ黒く干あがり、ひび割れ始めていた。
メイは現状を理解し、声もなくおののく。
龍神を倒すのに全力を使ったのに、不死となった龍神は塵にならず、食べられなかった。
そのためついに、破壊神は餓死しかけていているのだった。
にもかかわらずその気はいよいよ荒々しさを増し、凄まじい圧で時空をゆがめんばかり。
ゆらりと一歩、踏み出した足が地に触れたとたん、踏み鳴らしたわけでもないのに大地がずしん、と轟いた。その背から、肩布がすべり落ちる。
「……!!」
今やミイラのように痩せさらばえた黒い胸の、心臓を失った穴はふさがっていなかった。
それどころか穴のまわりから血肉が徐々に塵となって崩れ、広がっていく穴の中で骨格だけが、刃と同じ白銀の殺気に揺らめいている。
骨と皮ばかりになったひびだらけの両腕からゆっくりと、月の縁をそぎ取ったような長い刃が生えた。ひじからも短めの刃が、肩からも背後へ向かって翼のように、複数の刃が伸びていく。いや、光の刃は背骨の継ぎ目からもこめかみからも、獲物を求めるアメーバの触手のように生え伸び、がちんと噛みしめた犬歯までが見る間に凶悪な牙に変わって──
悪鬼の形相と化した破壊神は不意に、世界を灼き滅ぼすような三つ目をメイに向けた。
声は発されなかったのに、瞬間──
俺と戦え! と命じる雷鳴のような〈声〉を、メイは聞いた。
そう、そういう約束だった。
メイはせめて、怖がるまいと努力した。
だが、一ミリ前に出ることもできないうちに恐怖に気が遠くなり、足の感覚がなくなる。
破壊神はすぐ、今のメイには受けて立つ気力などないことを理解し、舌打ちした。
塵と荒廃の気をまきちらしながら、もはやあまり理性的とは言いがたい狂気じみたまなざしで、手ごろな獲物を求めてあたりを見まわす。
「私なんかはいかがでしょう?」
大谷野課長は腰を抜かしたメイを受け止めすわらせながら、破壊神に気さくな声をかけた。
飛び立ちかけていた破壊神は、今初めてその存在に気づいたかのようにふり返る。
「人間に用はねえ」
それでもかろうじて、その約束だけはまだ覚えているらしい暴虐の神に、大谷野課長は、後方への巻き添えを避けるためだろう。すたすたとからっぽの路上へ移動、にこやかに続けた。
「神納五月さんの代理に立候補します。微力ながらお相手……」
いたします、と言おうとしたのだろうが破壊神は最後まで聞きもせず、身構えるどころか闘志も発していない相手に襲いかかる。
(!!)
一瞬だった。
破壊神の刃はたがわず、大谷野課長を両断した──ように見えた。
が、よく見ると刃がふりおろされた場所に、大谷野課長の姿はすでになく、
「!?」
まっすぐ立った姿勢のまま、いつの間にか破壊神と入れ違いに立ち位置を変えている。
なにが起きたのか。
互いに背を向けたまま、どちらもまったく動かない。ややあって、
(あっ……!)
自然体でたたずむ大谷野課長のビニール合羽が、正面と背で左右に割れた。
両手から脱げ落ち、風にさらわれて飛んでいく。
同時に、かけていた角ぶちの眼鏡も真っ二つになり、路面に落ちて割れた。
眉間にも血がにじみ出し、メイはとうとう破壊神が人を殺してしまった、と息をのむ。
だがその時、
「吐菩加身依美多女、祓い給え清め給え」
なにもなかったかのようにすがすがしい、謙虚な和の気をたもったまま、大矢野課長が二度頭を下げ、二度柏手を打った。穏やかに唱え始める。
「綾瓊綾瓊奇しく尊登大御前に坐す神の御前を拝み奉る。掛けまくも畏き素戔嗚尊、大神の大前に畏み畏みも白す……」
流れるような祝詞の言葉はメイにはなじみがなく、よく聞き取れなかった。でもその意味するところは、さっき嵐を鎮めた時の言葉と、本質的に同じだと直感する。
揺るぎない感謝。
心からの敬意。
そして、ささやかな願い。
しかも願いはかなうと信じて疑わないから、すべては自然に感謝と同化していく──。
みるみるうちに、あたりに満ちた荒廃と飢餓の気配、近づく命すべてをおびやかす、乾ききった殺気が奇跡のようにやわらいでいった。
破壊神の銀の刃が、溶けるように消えた。
いつしか顔の険しさもぬぐわれたように消え、その鋭い横顔に、それこそ神か仏のような、侵しがたい至純の美しさが浮かび出す。
「大神大神神霊幸わえ給え、天晴れ、あな面白、あな楽志、あな佐耶気於気」
課長が唱え納めて沈黙すると同時に、暗黒神の銀の三つ目がゆっくりと、静かに閉じ──
破壊神は、眠るように倒れた。
「……ス……スサノオノミコトに人間がァ……勝った」
鬼のしんらが、あごが落っこちそうな顔をしてずん、としりもちをつく。
ミコは恐怖のあまり我を忘れ、楓の足にしがみついた。しかし、
「なに言ってるんですか、みなさん、私ごときが素戔嗚尊に勝てるわけないでしょう!」
大谷野課長は「あいたたた」とこぼしながら絆創膏を取りだし、眉間の傷に貼った。
かなりの近視らしく必死に目をすがめ、足もとを手探りして落ちた眼鏡のフレームを拾う。
たちまちレンズの破片が勝手に集まり、もとの形に戻っていくのはやはり、ただごとではない。が、破壊神に斬られたフレームの真ん中部分は、くっつかなかった。
支えて念じてもダメ。ぎゅっと押さえ、さらに念じてもやっぱりダメ。
大矢野課長はあきらめ、ポケットから出したセロハンテープをぐるぐる巻いて修繕した。ちょっとゆがんだ眼鏡をさっとかけるとすぐ、倒れた破壊神のもとへ向かう。
「古代、じゅうぶんな力に満ちてらした時は、素戔嗚尊が暴れると何ヶ月も闇が続き、国中の作物が腐り、野山も枯れたと言われています。死にかけてらしたんでなければ、私だって命は惜しいから絶対、素戔嗚尊の前に立ったりしません」
貴人に対するようにうやうやしく倒れた破壊神のわきにひざをつくと、仰向けに寝かせ直した。痩せた胸の穴を確認、白い微光を放つ霊符のようなものを、どこからともなく次々に取り出しては、穴やひび割れを覆うように手早く貼り重ねていく。
「でもいくら複数の霊玉を持つ大神でも、心臓の霊玉を抜かれてほっといたら死んじゃいます。古い神さまたちは、休むとか治すとかいう発想がないから滅びちゃったんですよ」
「…………」
メイはしんらにすがってやっと立ちあがり、おぼつかない足取りで大矢野課長に近づいた。
課長の背ごしに、おそるおそるのぞきこむ。
光る霊符におおわれた破壊神はぴくりとも動かず、息をしているようにも見えなかった。
「あ、あの……し……」
死んじゃったりしませんよね、とききたかった。けれど、肝心の時に破壊神との約束を果たせなかった情けなさと罪悪感に言葉がつかえ、メイはどうしようもなく涙ぐむ。
「うーん、私の心配はしてくれないんですねえ。怖かったのになあ」
大谷野課長のおどけた返事に、メイはハッとなった。
「あっ、ご、ごめんなさ……」
「いえいえ冗談です。あなたがその調子なら、尊は助かられると思いますよ」
「……はい?」
きょとんとするメイをよそに、大谷野課長はどこか遠くに落ちていた破壊神の肩布を、魔法のように片手で引き寄せた。「うん、いい霊衣をお持ちだ」とつぶやき、少年神に巻きつける。
最後に、相手の額に手をかざしてなにか念じた。と──
「!」
破壊神は見る間に、一寸法師サイズに縮んでしまった。
片手に載る大きさになった眠る神を、大矢野課長はそっとすくいあげるとメイに向き直る。
にっこりさしだされた神を、考える間もなく受け取るメイに、笑顔のまま続けた。
「軽い封印をかけました。あなたも生き霊の時経験なさった省エネ縮身術です。目を覚まされると、きっとものすごーくお怒りになると思いますが、ご自分で破れるようになるまではまだ回復していないとあきらめて、きちんと養生なさってくださいとお伝えください」
「は……はい」
「そういうわけですから」
いきなり湖の方へ向き直るのでなにかと思えば、崩れ落ちた駐車場の水際に、主人の仇討ちの気迫に燃える水怪たちが何匹も、顔をのぞかせている。気づかれたと知って、あわてて水中にひっこもうとする相手に、大谷野課長は礼儀正しく合掌して一礼した。
「みなさん、どうかどんどん素戔嗚尊を襲って、食べられてさしあげてください。なにしろ尊は戦神、敵が多ければ多いほど、お喜びになります」
牽制しているような、けしかけているような発言に、水怪たちは真意を疑う顔になる。
大谷野課長は穏やかに語を継いだ。
「それと、湖底の龍神様をしっかりお守り申し上げてください。お忘れのようですがあの方は素戔嗚尊の霊玉を得て不死となられました。時が満ちれば必ず、お目覚めになります」
確かにそのとおりだ! と気づいて、水怪たちは喜びと期待に顔を見合わせる。
そんな彼らにもうひとつ丁寧に一礼して──
大谷野課長はあわただしく自転車をひろいに行く。その背へ、楓が声をかけた。
「零課の課長さん、ありがとう。でも……どうせならもうちょっと早く来て、龍神なだめるとかメイを助けるとかしてくれれば良かったのに、って言っちゃダメ?」
「も……申し訳ありません」
痛いところを突かれたらしい。大谷野課長は見るもあわれなほど打ちしおれ、楓の方がかえって「い、いやそのっ」とあわてる。
大谷野課長は、破壊神の気にあたってぼろぼろに錆びてしまった自転車を起こしながら、
「零課はここ三十年ばかり、どうしようもないほど人手不足でして……こちらで行方不明になられた半吸血鬼の女性が、すでに亡くなっていたことも最近わかったばかり。そのうえこのところ課員から副課長まで次々過労で倒れてしまい、かくいう自分もここ三年ほど出張につぐ出張で、ろくに下宿にも帰ってないんです……」
聞いている方まで気が滅入りそうな、力のないため息をつく。
しかしすぐ気を取り直して背筋を伸ばし、貧弱な拳に気合いをこめた。
「でも! 私はもっとも必要とされる時に必要な場所にいることをモットーにしています。世界が私という存在を最大限に利用してくれれば本望! まだまだ修行が足りませんが、いつかは、同時に三カ所ぐらいには駆けつけることができるようになる予定です! 今年は新入課員も何人かは確保できそうですし……」
ハッと言葉を切り、腕時計を見る。なにかの予定に遅れているのに気づいたらしい。
あわててメイに渡そうとした名刺が、ぐしょ濡れでへたれているのに見てさらにあせる。
あたふたと空中を手探りしたのは、どこか遠くの空間から濡れていない名刺を引き寄せようとしたらしい。しかし、替えはどこにもなかったようだ。
大矢野課長は水を吸って波打った名刺を、恐縮しきった面もちで差し出した。
「た、大変失礼ですが、今、これしか手持ちが……」
大人から名刺を渡されるなんて生まれて初めてのメイは、おっかなびっくり受け取る。
課長は真剣に続けた。
「零課は今、痛切に切実に人材を求めています。もちろん学生さんは学業第一ですし、非常勤でもかまいません。どうか入課ご検討のほど、よろしくお願いいたします!」
一礼した拍子に、お尻でつきとばしてしまった自転車が倒れかける。しかし、見ている方があっ、と声を出す間もなく、後ろを見もせず捕まえ、乗った。
錆びてギイギイきしむ自転車を、けんめいにこぎだしながらふり返って手をふる。
「あっ、後日こちらから必ず、ご連絡さしあげますからあっ」
地割れで段差のできた路面であぶなっかしくはずみ、角を曲がった──とたん、気配がかき消えた。自転車のきしむ騒音も、もう聞こえない。
「……なにさ、あいつの方がよっぽど妖怪みたいじゃん」
ミコのつぶやきに、鬼のしんらと楓が、真顔でうんうんとうなずいた。
メイは、手の中で眠る小さい破壊神を大切に抱え直し、もらった名刺をポケットにしまう。
逆の立場になってみて、自分が親指姫サイズだった間のみなの気遣いを痛感していた。
敵意丸出しだったミコも、もちろん、破壊神も、だ。
なにしろ破壊神は、鬼でも車でも指先でひねりつぶせる力の持ち主なのである。吹けば飛ぶような縮身状態の生き霊を傷つけないために、どれほど気を遣ったことだろう。
考えるだけでつい、目頭が熱くなる。
「こーらメイ、あんたは核弾頭みたいなオバケかかえて、なーにをしみじみしとるか」
楓が横から、おじさんくさい言葉でつっこんだ。
そんな危ないもん捨てちゃえば? と言いたげな顔をしたものの「まあいーけどねー」と黒髪の頭をかく。メイははっと思い出してたずねた。
「そ、そういえば野々宮さん! スサノオの血のかかった火傷……だいじょうぶですか?」
「ん、平気。わけわかんないけどもう傷跡もないんだわ。てゆーか気のせいか、今ならこんなもんでも片手で持ち上がるかなーって気が……あははっ、ま、んなわけないけどねー」
笑いながらすぐそばに転がっていた倒木をぽん、とたたく。そのとたん、
「!!」
倒木は、車でも激突したかのように軽々とはねあがった。
ゆっくりと、高々と宙を舞い、湖へ落ちていく倒木を、一同はあぜんと見送る。
どこかで、事件を目撃したらしい誰かが怒声をあげた。
「こらーっ、そこ! なにをいたずらしとるかあっ!!」
「い、いたずらって……これは事故、事故ですよっ」
言い返しながらも、倒木が湖に落下する派手な水音に、楓は釈明不能と判断したらしい。
顔をひきしめ、すたこらと逃げ出した。
思わずあとを追うメイに、鬼のしんらも当然のようについてくる。
「の……野々宮さんが零課入った方が……いいんじゃないでしょうか?」
「違うっ、今のはなんかの間違いだっ、白昼夢だっ、あたしは絶っ対、信じないぞっ!!」
「尊の血の影響じゃけえ、二、三日、そっちの手ェ使わん方がええかもしれんのう」
「えーっ、それってまさか、なんにもさわっちゃいけないってこと!? ……ムリよっ!!」
後日流れたニュースによれば、似たような「超」のつく火事場の馬鹿力事件が、その後三日間、湖の周囲では数え切れないほど起きたらしいが──
ミコがついてきていないことにメイが気づいたのは、駅についてからだった。
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