6 暗黒神(マハーカーラ)の涙②
メイは、世界を見つめていた。
驚いたことに、世界は思っていたよりずっと、見とれるほど美しいところだった。
どこからどう見ているのかは自分でもよくわからなかったが、雲から降りそそぐ雨滴の一滴、一滴、枯れたり腐ったりした草木、死んでしまった虫、湖の中でおびえている妖怪たちと本物の魚やカエル、そして青空の向こうの星々まで、なにもかもがいっぺんに見えた。
そして生きているものも死んでいるものも、形のあるものも壊れてしまったものも、すべてがかけがえなく、いとおしい輝きに満ちているのだった。
時間は、止まっているか、さもなければとてもゆっくりとしか進んでいないかのようで、圧倒的な静寂と平和が世界を包んでいる。
ふと、空へ目が向いた。
真っ黒な雲にメイの力が開けた穴の向こう、青空の一角が暖かく光っている。
どうやら、意識はだんだんそちらへ、吸い寄せられていくようだ。
(わたし……死んだのね)
そう理解した気分は、自分でも驚くほど平静だった。
生きている間はあんなに死ぬのが怖かったのに、死んでしまったとわかった今は、なんだかちっとも怖くない。それが不思議でおかしくて、メイはちょっと笑った。
その時やっと、自分がどこの誰だったかを、はっきり思い出した。
そう、名前は神納五月、高校に入ったばかりの十五歳。母は専業主婦、父はサラリーマン、ひとりっ子できょうだいはいない。幼稚園の時から内気で、年中泣かされていた。
かけっこは万年びりっけつ。イス取り競争でも借り物競走でも、とにかく競争と名のつくものは全部苦手だった。まわりが必死になると怖くて気圧され、ついゆずってしまう。
──「ぼんやりしてるからよ」
野々宮楓とは、幼稚園の年長クラスで出会った。楓という字はいかにもむずかしかったのに、彼女はもうちゃんと自分で書くことができた。持ち物にも漢字で記名していた。
──「木へんに風よ。むずかしくないじゃない」
さらさらの黒髪をなびかせ、跳び箱でも鉄棒でも男子顔負けにこなす活発な彼女は、メイの憧れだった。
──「めーちゃん」
楓はたぶん、今思うとちょっとバカにしたような調子で、よくそう言っていた。
でもメイは楓に声をかけてもらえるだけで嬉しくて、ただ、もじもじと笑った。
──「返事ぐらいすれば?」
それで楓はよく怒っていた。
本当は「ふーちゃん」というあだ名を考えてあったのだ。
木へんに風だから、寒くても半ズボンでぴゅーっと外を駆け回る「子どもは風の子」のお手本みたいな女の子だから、だから「ふーちゃん」。ぴったりだと思ったけれど、喜ぶかなあ、嫌がるかなあ、と心配で、結局一度も呼んでみたことはない。
──「窓割ったのは神納でーす」
小学校では都合の悪いことがあると、クラスの悪ガキはみんな、メイのせいにした。
──「神納さん、ほんとう?」
担任の先生は困った顔できくのだが、メイがどうしてもほんとうのことを言えないで、結局「……ごめんなさい」と涙ぐむことしかできないからだ。
ちびでグズで成績もぱっとしなくて、誰かに話しかけられてもろくに返事もできず、思い切って発言しようと力むと必ず、言葉に詰まってしまう。
そのうえ目立つほどのくせっ毛だから、鳥の巣みたいだとか外人みたいだとか、パーマかけてんだろ、とか……考えてみればさほど悪気もないからかいの的にされ、そのたびにいちいち傷ついては学校に行きたくなくなった。毎朝のようにお腹が痛くなり、長々と小学校を休んでしまったこともある。
──「もう少し胸張って歩けば?」
中学に入ってすらっと、きれいに背の伸びた楓に、よくいらだたしげに言われたものだ。
──「そーやって下ばっか向いて歩いてるから、背中に変なもん背負っちゃうんだよ」
と、変なことを言われたこともある。
通りすがりにいきなり塩をひとつかみ、投げつけられ時は仰天した。でも、目をそらして足早に去る楓がとても怒っているように見えたので、結局わけはきけずじまいだった。
楓が生き霊も妖怪も「見える人」だと知った今なら、見当がつく。たぶんなにか、良くないものに憑かれていたのだろう。それで塩をかけ、助けてくれようとしたにちがいない。
でも、知らなければなんのことだかわからない。
わからないことをたずねもせず、どんなに理不尽な扱いをされてもただ気弱に笑うことしかできなかったメイに、楓はたぶん、愛想を尽かしてしまったのだ。
中学二年でクラスが別になってから、楓は廊下ですれ違っても、メイの方を見なくなった。
同じ頃、メイは眼鏡をかけるようになった。
目は悪くなかったのだが、目の前にガラスが一枚あるだけで、少し心丈夫になれる気がしたからだ。効果はあった。おかげで前よりはすばやく、かろうじて人をいらいらさせすぎないタイミングで、返事ができるようになった。
でもそれでも、メイはいつも無意識に肩に力を入れ、首を少しすくめて歩いていた。べつになにも起きやしないのに、世界が襲いかかってくるとでも思っているかのようだった。
ほんとうになにもかもが怖かったのだ!
どんな時でも、失敗しそうで怖かった。そしてよく失敗した。
うまく返事ができない気がして怖かった。実際、よくヘマなことを口走った。
みんなに嫌われやしないかと怖かった。それで誰にでもせいいっぱいの笑顔で応えようとするのだが、不思議なことになぜか、友だちと呼べるほどの友だちはできないのだった。
それはそうだろう。今ならよくわかる気がした。
誰にも嫌われたくなくて、誰の話にも、内容がわからなくてもけんめいに合わせるばかりでは好かれるはずもなかった。牛乳とジュースのどっちが好きかなどという簡単な話題でさえ、相手の好みに迎合することしかできなかったほどだ。
しかも──あまりにも勇気が足りなかったから、誰かがいじめられているような場合、巻きこまれるのは怖いくせに、うまく見て見ぬふりをすることさえできなかった。
いじめられている子にはヘタなおせっかいを焼いてうるさがられる一方、いじめる側に悪口の同意を求められるとつい気弱にほほ笑んで──結局、同意してしまう。
自分でも歯がゆいぐらいだから、当然みんなに嫌われた。
そんなこんなでメイは、いつでもなんとなくひとりだった。
体育の準備体操ではしばしば組む相手がいなくなってひとりあまってしまったし、修学旅行のグループ分けでも誰にも誘ってもらえなかった。お情けで入れてくれたグループに同行したものの、ひとりだけ迷子になって集合時間に遅れてしまい、あとあとまで文句を言われた。
さびしくて、わけもなく年中くたびれていて、将来に夢もなかった。
一方、楓はいつでも実力試験の上位に名前があるうえに、オーディションに応募したとか、スカウトされたとかで、モデルをめざしているといううわさを耳にした。
あまりに自分とかけ離れすぎていて、もう、うらやましいとさえ思わなかった。
──「メイはきっと、学校出たらすぐ結婚しちゃうタイプね」
おおらかでこまかいことを気にしない母は、高校を選ぶこともできないメイに、たぶんはげますつもりでそう言った。メイは、いつものように相手に合わせてほほ笑みながら、さすがにそれはないと思う……と心の中でつぶやいた。
なにしろ、用事以外でクラスの男子と口をきいたことなど、ほとんどなかったからだ。
(わたし……一生で一番たくさん話した人は、お母さん以外ではスサノオかも)
なんとけたはずれに無口で、逃げ腰で、勇気に縁のない人生だったことか。
今思い返すと、恥ずかしくて悔しくて情けなくて、自分が自分でなければ良かったのに、と思うようなことがあふれるほどたくさん思い出されてくる。
でも不思議なことに、今こうして世界を美しいと感じる視点から自分の人生を見渡してみると、確かに取るに足りない人生だったかもしれないが、それだって世界の他のなににも劣らず、いとおしい命だったという気がした。
情けない自分。
いたらない自分。
嫌な自分。
時にはちょっぴりだけ優しかった自分。
いつも必死で、いっしょうけんめいだった自分に、深い感謝がわいた。
それは出会ったすべての人や物、この世で過ごしたすべての瞬間に捧げる感謝でもあった。
最後の二日間、記憶をなくした生き霊の状態で、破壊神とミコ、そしてもう一度楓に出会えたことには特に、深い感謝を感じた。
だからその機会を作ってくれた早雲やナマズの妖怪にも、感謝せずにはいられなかった。
やり残したことは特にない。
メイは空の一角に見えていた光が、今やすっかりまわりを包んでいるのに気づいた。
心が無限に軽くなり、晴れ晴れとした喜びが魂を満たす。
メイはもはや世界をふり返ることも忘れ、なつかしい故郷に帰り着いたような心地で光に溶けこみかけた。だがその時、
(!)
たたきつけるような凄まじい激怒の波動に打たれ、メイはびくっとふり向いた。
傷だらけの破壊神が、信じられないほど怒り狂って額の第三眼まで開き、今にも湖に落ちようとするメイの死体に向かって飛びかかっていくのが目に入る。
死体を斬り刻むつもりだと、見る者すべてが信じるほどの殺気に満ちていた。
事実、メイは、破壊神が確かにそのつもりでいるのを感じた。が、
「この筋金入りのアホウめっ!! いつ死んでいいと言った!? 要領の悪い臆病者のくせにのこのこ出しゃばってきやがって……!!」
ただ斬り捨てたのでは怒りのはけ口がなくなってしまうと気づいたのだろう。
破壊神は寸前で気を変え、メイの死体を空中で捕まえ怒鳴りつけた。
相手が死体でなければ怒気にあたって即死したに違いない剣幕に、大地が震え、湖が逆巻いて空もまた真っ暗になる。
「俺はいつだって俺の好きなようにしかしねえんだ!! それをよくも断りもなく、勝手にぶち壊しにしやがったな!? このドちくしょうめが……返事ぐらいしたらどうだ!!」
死体に向かって言う言葉ではなかった。
だが憤怒に沸騰せんばかりの破壊神は、怒鳴ろうが揺さぶろうが当然ながらなんの反応も示さない死体にますますカッとなったらしい。
メイの死体を片手に荷物のようにぶらさげたまま大気を荒々しく踏み鳴らし、最初に飛び立った駐車場の端に降り立つ。
暗黒神の怒りに触れてフェンスは瞬時に風化、アスファルトはみずから砕けた。変形した身体のせいで逃げ遅れた水怪たちはたちどころに、塵と化して崩れ落ちる。
荒廃の気はたちまち爆風のように広がった。
かろうじて楓やしんら、ミコの手前で止まったものの、早雲の式神は余波を浴びただけで消し飛び、道路をはさんだ向かいでも、街路樹がどっと枯れ葉を散らす。
破壊神はしかし、まわりへの影響など見てもいなかった。
怒りにまかせてメイの死体を持ち上げ、死に絶えた大地にたたきつけようとする。
第三眼を開いた破壊神の力でそうすれば、人の死体などひとたまりもなく破裂して消し飛び、あとには血の染みしか残らなかっただろう。
だが、破壊神はふたたび気を変えた。
急に、メイの死体が思ったより重いと気づいたかのように、めんどうくさそうに足もとへおろす。どうしてくれようかと言わんばかりに、噴火する火山なみの気配をまきちらしながら、仰向けに横たわる死体をにらみつけた。
蹴り飛ばそうとしてやめ、踏みつぶそうとして思いとどまる。
あまりにもろい人間の身体相手では、どのみち一撃しか攻撃できないのが不満らしかった。
しかしついに心を決めて拳を固め、死体の顔めがけて稲妻のように打ちおろす。
(!!)
暴虐の神の拳に打たれた大地はずしんと、跳ねあがるように揺れた。
数メートルもある深い地割れが八方へ走り、地盤が浮きあがってあちこちで大きな段差を生じる。ドライブインの建物もふたつに割れ、崩壊する護岸壁もろとも湖へなだれ落ちた。
メイをふくめて全員が、メイの死体も破壊されたものと思って息をのむ。が、
「…………」
意外にも破壊神の拳はメイの顔の横にそれ、死体の髪一本、損なってはいなかった。
揺れる地面にあぶなっかしくひっかかったまま、しかしもう恐れもせず泣きもしないメイの死体を、破壊神はどこまでも無慈悲に凍てついた銀の三つ目で見おろす。
「ダメだ……殺さねえと気がすまん!」
言われた者すべてが我が身の不運を呪うような、底なしの殺意に燃える声音で言った。
「生き返れ」
土砂崩れに巻きこまれ、湖に落ちそうになったメイの死体をさらいとり、崩れそうもないところまで運んで放り出す。
死体のわきにかがみこみ、恐ろしいほど真剣にくり返した。
「生き返れ! おまえはまだ俺との約束をはたしてない。死んでる場合か、おい!」
乱暴に肩をつかんで揺すぶる。
が、反応があるはずもない。
破壊神はかんしゃくを起こした幼児のようにメイの三つ編みをひっぱって死体の頭をぐらぐらさせ、頬をつねり、強引にまぶたを開けさせようとした。
髪の一本も引き抜かず、顔の肉をえぐりもしなかったのだから、破壊神にしてはずいぶん優しくあつかったに違いない。
だが死者はどうしたって死者のままだ。
破壊神は唐突に、その事実を思い出したかのように手をひいた。
かすかに不安げに、眠っているようなメイの白い顔を見直すと、体温と脈を確かめようとするかのように、首すじにそっと手を当てる。
「……しょうのねえやつだな!」
目の前にあるのが確かに死体なのを確認して、破壊神はいよいよつのる凄絶な怒気に燃えあがった。死体のわきにどっかりと腰を下ろす。
「言上げしといてなかったことにする気かよ。そうかよ、おまえがその気なら、俺も約束なんか守ってやるもんか! この国の人間を滅ぼしてやるぞ。それでもいいのか、なあ」
駄々をこねる子どものようなことを真顔でうなりながら、死者の頬をぎこちなくなでた。ほつれた髪をよけ、片耳にひっかかったまま落ちかけていた眼鏡をもとに戻してやる。
ふと、自分の行動を怪しむように眉をひそめた。
空を引き裂き大地を揺り動かすその憤怒は、かぎりなく慟哭に近かった。
だが、生まれながらの夜叉神には、怒りと悲しみの区別がつかないのだった。
しんらがたまらず大粒の涙をこぼし、もらい泣きに泣きだす。
ミコは打ちのめされた表情で目を伏せた。
楓は目を赤くし、ぼうぜんと立ちつくしている。
メイは、破壊神の永遠の夜のような魂が、恐らく生まれて初めて体験する「情」に溶かされていく痛みを感じ、なすすべもなく動転した。
(ごめ……ごめんなさい。わたし、こんな……こんなつもりじゃ……)
夢中で思いを発したが誰も、破壊神さえ気づいてくれない。
メイは、自分がほんとうに死者であることを思い知らされた。
ここはすでに、自分の属する世界ではないのだ。
もう戻ることはできない。
(ごめんなさい……さようなら。どうか……あまり悲しまないでください。ありがとう)
聞こえないのは承知のうえでそっと、破壊神と楓としんらにささやき、ミコの肩をなでた。
両親の顔も見て行こう、と考えて意識を移しかけた──その時。
なおも荒れすさぶ気を無制限に放出しながら、行き先を考えるかのように気のないまなざしでよそをながめいた破壊神の面が不意に、深い困惑にゆがんだ。
「なぜだ」
とほうにくれた様子でつぶやき、月の砂より乾いた銀の瞳でメイの死に顔をのぞきこむ。
「わけがわからん。なんで俺はおまえを捨てて行けないんだ? 勝手に死んじまったおまえなんかもう食えもしないのに……どうして……」
なにかが砕ける音がしたかのようだった。
不意に暴虐の神の、鋼よりもつめたい顔が、生まれたばかりの赤ん坊さながら無防備な、純粋無垢な悲しみの表情に崩れた。
「くそ……起きろよ、メイ」
言ってもムダと百も承知でいながら、ののしるように呼びかける──暗黒神の瞳が不意にうるみ、月光のこごったように光る涙をただ一滴、メイの死に顔にしたたらせた。
瞬間、
(!?)
すでにその場を去りかけていたメイは、天から近づきつつあった暖かい光とはまったく別物の、荒々しくもまぶしい、とほうもなく強い光の渦に巻きこまれ──
地上へと墜落した。
◆
「!!」
雷に打たれたような衝撃とともに、メイは目覚めた。
目を開くと同時に、死んでいた間のことは寝覚めの夢のように記憶からこぼれ落ち……
メイは、なぜ空中に飛んでいったはずの生き霊の自分が地面に寝ているのかと、ねぼけまなこで考えた。それからやっと、
(戦いは……どうなったのかしら……?)
破壊神は殺されずにすんだのか、いやそれより、よく考えもせずに霊力を暴発させてしまったが、またみんなを傷つけたのではないかと気になって、がばと跳ね起きる。
(あ!)
瞬間、まるでひっかかっていた戸棚のふたでも開いたかのように、自分がどこの誰だったかという記憶がどっとよみがえってきた。
驚きながらも嬉しくなって、でも、なにがどうなったかも早く知りたくて、メイは生き霊だった時無意識にしていたように、重力を無視したやり方で立ちあがろうとする。
「……?」
うまく立てなかった。というより、足に力も入れずには支えられない、どきっとするほどリアルな重さを全身に感じて、メイはあらためて手足の様子を確かめる。
どこも透きとおっていない。
「あれ……?」
どうにも事態が把握できないメイの真横で、不意に、誰かがぼうぜんとつぶやいた。
「……起きた」
「えっ? あ……」
すぐ横に、額の第三眼を開いた破壊神がすわっているのに気づき、メイは仰天した。
さらに、向こうもメイと同じぐらい、度肝を抜かれた様子でぽかんと目を丸くしているのを見て、二度、驚く。
しかもどういうわけか、第三眼が開いている状態だというのに、そこにいる破壊神はちっとも怖くなかった。
それどころかメイはその時初めて、この傍若無人な少年神が実は、とてもきれいな顔をしていることに気づいて心底びっくりする。
だがすぐ、そんな感想を抱いている場合ではないことを思い出し、あわてて口を開いた。
「あっ、あの……か、身体に戻してくださったんですね! ありがとうございます!」
「……違う」
「えっ? わ、わたしまだ生き霊なんですか!?」
「いや、そういうわけじゃねえが……」
戸惑いを隠しもせずつぶやく破壊神の気配があまりに静かなので、メイはハッとした。
「わ、わたしまた、あの……スサノオにひどいことしませんでした? おケガ大丈夫ですか? 死んだりしません?」
「アホウ! そりゃあこっちのセリフだっ」
腹立たしげに言い返してようやく破壊神はいつもの調子を取り戻し、立ちあがる。
見ると、龍神に斬りつけられた多数の傷はすでにあらかたふさがっていたし、霊力に焼かれたような火傷のあとも見あたらない。メイは少しホッとした。とはいえ心臓を抜き取られたのにまったく平気だとまでは信じられず、肩布の陰になって見えない破壊神の胸もとに、ためらいがちに目をやる。そこへ、
「メイ!」
楓が、歓喜の叫びをあげて駆け寄ってきた。メイのかたわらに膝をつくなり、乱暴にメイの肩をたたき背をなで──力いっぱい抱きしめる。
「やった! メイ、すごいよほんとに生きてるっ! 生き返ったんだね!!」
「……えっ?」
わたし、死んでたの? ときき返す間もなく、楓はわきに立つ破壊神をふり仰いだ。
「ありがとう! 君がやったんでしょ? メイを生き返らせてくれて……」
「俺は知らん」
破壊神はおもしろくもなさそうな顔つきで言下に否定する。
「そいつが勝手に生き返ったんだ。まったくわけのわからんやつだ」
「そがあなことあるわけないけえ、ええもん見してもらいました、ありがてえありがてえ」
鬼のしんらが素朴な感涙に胸まで濡らし、よたよたと近づいてくると、破壊神の足もとにぬかずき拝み始めた。破壊神はうるさそうにその頭を蹴っ飛ばす。
「知らねえって言ってんだろ! うっとうしい、向こうに行ってろ!」
ミコだけが喜びの輪に加わることなく、むっつり黙っていた。ものごとが無難におさまってホッとしているような、メイが助かって悔しがっているような、複雑な顔をしている。
いつの間にか、風雨もすっかり鎮まっていた。
しかしその時、
「素戔嗚尊」
まだ真っ暗な湖の上空から、龍神の声が響いた。
すかさず、待ってましたとばかりに相好を崩した破壊神以外、全員、龍神のことを忘れていたのでぎょっと空を見あげる。
「!」
龍神は神々しくも優しげな、若者の姿を取って宙に浮いていた。
白皙の美貌に黒髪を長く垂らし、中国風の、きらびやかな翡翠色の礼服をまとっている。
その手の中では破壊神の霊玉が、凍れる太陽さながら破滅的に輝いていた。まぶしすぎてよくわからないが、龍神の手と融合し始めているように見える。
「私は貴方がねたましい」
と言った龍神の白い頬には、とめどなく流れる涙が光っていた。
「想う相手を救えなかった己が憎い。私になにが足りなかったというのか……想いの深さで貴方に負けたとは思いません。足りなかったのは力なのか……ならば!」
顔を覆うように片袖をひるがえしたかと思うと竜巻となってほどけ、天空高く駆けのぼる。
「!」
竜巻はたちまち翡翠色にきらめく麗しい龍と化し、たおやかな首をもたげた。
「おお……ならばせめて貴方の力をあまさず食らいて我が力となし、悔い多き過去ともども、この島国の命を残らず洗い流してしまいましょう……!」
いつの間にか手のひらに食いこみ、逆に腕から力を吸いこみ始めている破壊神の凶悪な霊玉を見て、龍神は一瞬ひるんだ。しかし恐怖にうろこを逆立てながらも象牙色の牙をむき、
(あっ)
なんと自分の手首ごと霊玉を食いちぎり、ひとのみにする。
「よしよし、いい気合いだ」
破壊神が上機嫌で言うのを聞きとがめて、メイは憤然と立ちあがった。
「なっ……そうだわ、どっ、どうして今の隙に取り返しちゃわなかったんですか!? あの光の球、た、食べさせちゃったら……」
「やつが育つだけだ。当たり前なことをきくな」
破壊神は三つ目を開いたままこともなげに笑う。
美しい龍神は霊玉をのみこんだとたん輝きを失い、ぶくぶくと不定形にふくれあがった。
鱗と黒い塵をまき散らしながら断末魔の苦しみにのたうつその全身が、みるみるうちに赤黒く変色していく。
今にも腐り落ちそうな龍神の様子を冷然と見守りながら、破壊神は続けた。
「でなきゃ、どうやら霊玉が育つようだな。まあどっちでもかまわんが、いい加減、本気で腹が減ったからなあ、どうせならやつが育ってかかってきてくれる方がいいな」
不穏な言葉と同時に凄まじい飢餓の気配が破壊神からあふれ出し、メイは思わず後ずさる。
「よし! やりゃあできるじゃねえか」
破壊神が嬉しそうに顔を輝かせると同時に、龍神が霊玉の力にうち勝った。
不意にのたうつのをやめ、破壊神に匹敵するほど壮絶な、天地を押しひしぐ気を放って爆発的に巨大化する。
若木さながらほっそりしていた首は岩を連ねたように太くなり、身体の優しい翡翠色はすべて、血の赤と闇の漆黒に変色した。鱗はぶ厚く、ひれはトゲだらけにささくれ立ち、大きくなりすぎた身体が湖からあふれ、山の斜面にぶつかって押し崩す。
いかつい巨体全体に無数の雷電を珠飾りのようにちりばめ、龍神は今や小山ほどもある頭をねじって牙をむき、咆哮した。
「素戔嗚尊ぉ!!」
憎悪に満ちた嵐のようなその咆哮も凄まじかったが、白銀の矢と化して飛び立つ破壊神が放った、狂ったような歓喜の哄笑に、場の全員がぞっと総毛立つ。
瞬間、つめたい銀の閃光が天地を両断した。
見ると、あまりにも巨大な龍神の前で、ケシ粒のようにしか見えない小柄な破壊神の片腕がほぼ丸ごと、大きな鉈のような光り輝く刃に変わっている。しかもその刃はすでにふりおろされたあとだった。
余波で遠くの山肌が割れ、道路に亀裂が刻まれ、湖の水も底まで割れる。
どっと立ちあがる高波の上で、なにをする間も与えられず、龍神の巨大な頭から胴のなかばまでがまっぷたつに裂けた。
だが死なず、破壊神がさらに横なぎに追撃しようとしたとたん、左右に割れた半身が瞬時に、それぞれ一本の首に再生した。
首の一方は刃を受け止めきれずに水平に切り裂かれたが、皮一枚で踏みとどまってまたもや二本の首に増え、もう一方の首はなんと、破壊神の刃を牙で噛み止めた。
龍神の黄金の瞳に殺気がこもる。
「!!」
目に見える風景すべてを真っ白に塗りつぶし、ありえない規模の雷電が爆発した。
あまりにけたはずれの轟音に耳がそれを音と認識できずにしびれ、身体から力が抜ける。
メイがハッと自分を取り戻すと、しんらの小わきに楓とともに抱えられ、ひびだらけの道路にそっとおろされるところだった。
「あっ……あの……!」
大声を出したつもりだが、しびれた耳には蚊の鳴くような声にしか聞こえない。
楓も耳がおかしくなったらしく、うずくまったまま耳の具合を確かめている。
しんらにはしかし、そんな声でもちゃんと聞こえたらしくふり向き、説明するより早いとばかりに、駐車場のあった場所を指さして見せた。
「!」
落雷のとばっちりを浴びたのだろう。
広い敷地は隕石でも落ちたかのように焼け焦げ、深々とえぐられて、そこに、あふれた湖の水が泥流となってなだれこんでいる。
(ミ、ミコさんは!?)
とあたりを見まわしたところに、凄まじい豪雨が、滝のようにたたきつけてきた。ミコはちゃんと後ろにいたが、突如降り出した雨に嫌な顔をし、さっと手近な家の軒先にもぐりこむ。
(スサノオは?)
メイは眼鏡を打つ雨と乱れ飛ぶ稲妻に視界をくらまされながら、必死で上空を仰いだ。
戦いは続いていた。時々、斬り刻まれた龍の身体の破片が、雨に混じってどっと湖に降りそそぎ、湖水を黒い血で染めていく。台風さながら渦巻く黒雲のはざまに、巨大な龍の腹やヒレがひらめくのが見えたが、破壊神はどこにいるのかわからない。
優勢なのか、劣勢なのか。
ごうごうと荒れすさぶ風雨と、地鳴りを全身で感じながら、
(で、でも……)
なぜか、メイはわきあがる嫌な予感に胸を押さえた。
妙に長びいている。
破壊神はたぶん、最初の一撃で龍神を殺すつもりだった、という気がした。
だができなかった。
地上の無関係な人間に遠慮したのか、龍神が強すぎたせいか……わからないが少なくとも見るかぎり、龍神の再生力はかぎりなく不死身に近い。
(龍さんが……そう! 言ってたじゃない、スサノオの霊玉を食べた者は不死になるって)
もしほんとうにそうなら、と考えたとたん、メイは不安で目の前が真っ暗になった。
破壊神が、双子の兄が死んだ時の話をしていたのを思い出す。姿も能力もそっくりの双子だったらしいから、その兄が死んだのなら弟の破壊神も不死ではありえない。
実力が伯仲して、片方が不死で片方が不死でないなら、結果は明らかだ。
「そう心配せんでもええじゃろ、さっきから尊の血は一滴も降りよらんけえ」
濡れそぼった鬼が闇色の天を見あげて言ったが、さすがに今度ばかりは不安げだ。
メイは土砂降りの雨の中にすわりこんだまま、泣きそうになって楓と顔を見合わせる。
見ればあたりの車道もあちこち陥没し、とうに車の往来はやんでいた。
どこかで防災用のサイレンとベルがいくつも、豪雨の音にかき消されそうになりながら、か細く鳴り続けている。
湖は嵐の海さながら白い飛沫を散らして荒れ狂い、目に見える速さで増水していた。
度を越して凄まじい荒天のせいでもう、湖の対岸もろくに見えない。
ふり返ると坂沿いの民家の二階で、誰かがこちらを指して必死で叫んでいるのが目に入った。
そんなところにいないで避難して来いと言っているようだが、声はまったく聞こえない。
「不死を得たもうた我が神の勝ちだ!!」
早雲の叫び声に、みなはぎょっとふり向いた。
いつの間にか姿が見えなくなったので、てっきり逃げたのだと思っていたが──ミコが軒先を借りている民家の隣の、コンクリート製展望台の上に立っている。
式神に頭上を守らせて濡れもせず、勝ち誇って暗い天へと両手をふりあげた。
「見るがいい、結局は正しい者が勝つのだ! 新時代の始まりを告げる天の水を讃えよ!!」
(あっ……ダメ!)
瞬間、メイは、黒雲の向こうでとぐろを巻く、今や恐ろしいほどの数に増えた龍神の目のどれかが、じろりとうるさそうに早雲をにらむのを感じた。
そのとたん、早雲の全身が青白く燃えあがらんばかりに帯電し、
「!!」
ずしん、と地を揺るがし、巨大な雷電が早雲を消し飛ばした。
「あっ……あああ……」
炎をあげて崩れ落ちるがれきの中に、焼け焦げた死体があったかどうか……見届けることもできずにメイは顔をおおう。
なぜか、ひとつだけ確信できることがあった。
破壊神の霊玉を食べる前の龍神なら、どんなに腹を立ててもこんなふうに人を殺すことはなかっただろう。
だが今は違う。
少しでも気に障れば、ほんとうに全人類でも滅ぼすに違いない。
暗黒神の霊玉を食べたからだ。
しかも破壊神と違って、向かって来ない者も平気で殺す。
(まさか……まさかスサノオが負けたら、世界も……滅びちゃう……?)
後ろからいきなり乱暴に肩をこづかれ、メイはぼんやりふり返る。
「ちょっと虫っ! あんた早く、さっきみたいに飛んで手伝いに行きなよっ!!」
吹き降る雨でずぶ濡れのミコが、絶望と恐怖に顔をひきつらせて叫んだ。
「ほらあっ、相手は不死身なんだっ、ぼやぼやしてないで早くっ! 零課にスカウトされるほどならそんぐらいやって見せなっ!! でっ……でないとスサノオ様が……」
「!」
メイは、頭をなぐりつけられたような衝撃に震えた。
どういうわけか、世界が滅びるかも、という考えより、破壊神が今度こそ死ぬかも、という考えの方が耐えがたかった。
(嫌、それだけは嫌! お願い、わたしになにか力があるんなら、今、出てください!)
がばっと立ち上がり全身に力をこめる。
無我夢中で目をつぶって念じた。しかし生き霊だった時ならなにか起きそうなものなのに、いくらつま先立ちになって跳びあがろうとしても、身体は一ミリも浮きあがらない。
「このグズっ! バカっ! あんたのせいだっ、だいたいあんたさえいなけりゃ……」
長い爪を出して殴りかかってこようとするミコを鬼のしんらがあわてて止める。
メイは我慢できずにぼろぼろ泣きだした。
「そっ……そんなこと言ったって……で……できないものはできないよおっ!」
十五年の人生でたぶん一番乱暴な言葉づかいで、力いっぱい叫んでしまった、その時。
「できないなんて言っちゃいけません!」
突然割りこんだよくとおる男性の声に、全員がなにごとかとふり向いた。
6 暗黒神の涙③へ続く
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