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6 暗黒神(マハーカーラ)の涙①

「……なぜだ」

 破壊神は自分の胸に刺さった敵の腕を見おろし、ぼうぜんとつぶやく。

 完全に格下の相手にこんな真似をされるなど、どう考えても納得がいかない。


「尊、ほんとうにおわかりでないのですか」

 メイの身体に憑いた龍神が、満身の力をこめて破壊神の心臓を引きちぎろうとしながら言った。破壊神は、させまいと敵の腕をつかんだが、なぜか力が入らない。


「雨膳がこの娘の身体に憑いていた時から、貴方は恐らく数え切れないほどの機会、雨膳を身体ごと斬り殺すことがおできでした。ですが、貴方はあえて最後まで、雨膳が身体を捨てて逃げる可能性に賭けようとなさっていた……」

「違う」


「ですから私も、この娘を盾に使わせていただくことにしたのです。一抹の不安はありましたが……貴方はやはり、この身に毛ほどの傷もおつけにならなかった」

「違う」

「違いません。証拠に木々を枯らし妖怪を溶かす貴方の血でさえ、この娘の身は損なわぬ」


 心臓を守る丈夫な組織がついにちぎられ、血まみれの腕が引き抜かれていくのを目の前にしながら、破壊神はなおも釈然としなかった。

 龍神が憑いているとはいえ、人間の、それも女の細腕だ。ほんの少し、あるかなしかの力を入れただけで握りつぶしてしまえるはず。

 なのに、できない。


 龍神の言うように、それがメイの身体だからだとしたら、天地がひっくり返るほどおかしなことだった。

 そもそも破壊神にとって、生き物はすべて獲物に過ぎない。

 メイだろうと龍神だろうと蛇女神(ナーギニー)だろうと、みな同じ。一匹を食べそこなったら別の一匹を食べればいい。ある一匹が特にうまそうだったとしても、食べるのはなによりもまず、生きるためなのだ。命を捨ててまで守るべき「食料」などあるはずもない。


 理屈に合わない。

 損得勘定も合わない。

 支離滅裂だ!

 しかし、そう思いながらもついになにもできないまま、破壊神の心臓はその内に秘めた霊玉(ウパーラ)ごと、体外に引きはがされ、


「……!!」

 霊玉(ウパーラ)を包んでいた血肉はたちまち塵となって崩れ去った。龍神の操るメイの手の中で、暗黒神(マハーカーラ)霊玉(ウパーラ)は太陽よりまばゆい、凄絶な白銀の光を放って燃えあがる。

 天は真の闇に包まれ、大地がおののいた。

 狂乱する大気に巻きこまれ、湖から竜巻がいくつも噴きあがる。


 まだ、龍神の手から霊玉(ウパーラ)を取り返すことぐらいはできたかもしれない。だが──

 破壊神も認めざるを得なかった。

 理由はなんであれ、相手の身に傷をつけられず、逃げることもできないなら、もはや戦うことは不可能だ。霊玉(ウパーラ)を取り返したとて、なんの意味もない。


 戦意を失った戦神の額で第三の瞳があとかたもなく閉じ、光の刃も溶けるように消えた。

 しかし龍神は、心臓と霊玉(ウパーラ)を奪われてなお、破壊神が死なないのを見て目をみはる。

「まさか……貴方は霊玉(ウパーラ)をひとつ以上お持ちなのですか!?」

「知るか」


 答えながら、さしもの破壊神もかすかにぐらついたが、それでも空中に踏みとどまった。本気で感心したように、メイの身体に憑いた龍神をつくづくながめて苦笑する。

「運のいいやつめ! なんだかわからんがおまえの勝ちだ。なんでも欲しいだけ取るがいい」

「……残念です」

 龍神は、破壊神のどこまでも殺伐(さつばつ)とした物言いに、かえって痛ましそうな表情を浮かべた。


 夜叉神の中の夜叉神、荒ぶる神の中の荒ぶる神が、自分の行動を支配した異質な情……他者への愛着という感情を、理解するどころか認識さえできないのを悟ったのである。

「違う出会い方をしていればきっと……貴方とは良い友人になれたでしょうに」

「うぬぼれるな若造、貴様ごときと友情ごっこするほど落ちぶれちゃいねえ」

 冷然とうそぶく古い神の首めがけ、龍神はとどめの大剣を打ちおろす。


「!!」

 硬質な音とともに、龍神の剣が折れ飛んだ。

 湖畔から見あげる面々は、敵味方問わず息をのむ。

 破壊神は無抵抗だった。

 にもかかわらず首を落とすはずの剣が折れた。


 すでに霊玉(ウパーラ)をひとつ失っている相手に、なおも天地にひとしい力の差を見せつけられ、

「!」

 龍神は殺気だった。

 凄まじい気迫をこめ、折れた剣で二度、三度と重ねて斬りつける。が、どうしても、破壊神の首の骨を断つことができない。

 たちまち、非力なハトが獅子をつつき殺そうとするかのような、凄惨な光景が出現する。


「ど……どうして、なんで反撃なさらないんですか……」

 ミコがかすれ声でつぶやいてよろめき、ぺたりとその場にへたりこんだ。

「虫の……人間なんかの身体がそんなに大事……なんですか……?」

 絶望と後悔に見開かれた野生的な瞳から、ぼろっと大粒の涙があふれる。


「そんな、あ……あたい……だ、だって、まさかこんなことになるとは思わなかったんだもん……めっ、めんどうなことになれば虫なんかさっさと食べて終わりにしちゃうと思ったから……だっ、だ、だから、あの早雲ってやつに、虫の身体を盾にすればいいって……」

「ええっ? あ……あんた今、なんて!?」

 顔色を変えて叫ぶ楓に、ミコはへたりこんだまま、わっと手放しに泣きだした。


「だ、だ、だって虫が憎ったらしかったんだもん! スサノオ様に、な、なんか大事にされちゃって、む、む、虫のくせにっ、だからあたい、こっ、ここにみんなを案内することまでしちゃったよう……うっ、うわあああん」

「泣いてる場合かこのバカ猫っ!」

 楓はミコの後ろ頭をひっぱたき、ついでにえり首をつかんでひき起こした。


 間一髪。

 腐って倒れかかってきた水怪が、ミコのいた場所でさらに変形してのたうちまわる。

 真っ赤に染まった湖の水が二階に届きそうな大波となって、どっと湖畔に打ち寄せてきた。

 夜叉神の血そのものではないはずなのに、赤い水をかぶった駐車場のフェンスはみるみるうちに錆びてゆがみ、濡れたアスファルトも白っぽく変色してぐずぐずと崩れていく。


 楓は恐るべきしぶきを避け、ミコを助けて後ずさりながら、鬼に声をかけた。

「に……逃げた方がいーんじゃないかと思うけど、どうかな」

「ほうじゃのう、ここは危ないけえ、山の上まで退()こうかの」

 鬼は轟く雷鳴に首をすくめた。手のひらに載せた小さなメイを赤い水のとばっちりから守るべく、もう一方の手をそっとかぶせて屋根にする。


 メイは鬼の手の上で、まだ戦いの場を見る勇気もなくうつむき、震えていた。

 が、鬼と楓がこの場を離れようと動きだすのを感じて、ようやく目をあげる。

 鮮血の色に染まり、飛沫を散らして荒れる湖が見えた。

 そのはるか上空、真っ黒な空のただ中で、凍えた太陽のように輝く光球をたずさえ、折れた剣をふるう自分の身体も見えた。その前に浮かぶ、血まみれの人影が破壊神らしい。

「!」


 メイは反射的に目を閉じた。

 見ていられなかった。あの無慈悲で傍若無人で、本質的に攻撃的な少年が反撃もせずにやられっぱなしになっているなんて、ミコでなくても信じられない。自分で言っていたように、さっさとメイの身体ごと敵を斬ってしまえばいいのに、なぜそうしないのか。


「やだよう、ス、スサノオ様が殺されちゃうよう」

 泣きじゃくるミコに鬼が、先に立って大股に歩きだしながらうなった。

「かー、おどれはなんちゅう失礼なことぬかす猫じゃ! 神話に名ァ残す(いくさ)の神さんが、千歳にもならん青くさい龍ごときに負けるわきゃあなかろうが!」

 その、破壊神の勝利を信じて疑わない鬼の言葉に、メイはすがりついた。


(そう……そうよ! 実のお兄さんの死でさえぜんぜん気にしないスサノオが、わたしの身体を攻撃できないせいで死んじゃうなんて……そんなバカなこと起きるはず……ない……)

 自分に言い聞かせながら、なにも見まいと固く閉じたまぶたから涙があふれる。

 その時。

「しんら、どこへ行く?」

 聞き覚えのある声に鬼の足が止まった。


 メイはあわてて涙をぬぐい、顔をあげる。

 長髪和装の、見覚えのある姿が駐車場の出口に立っていた。

 式神使いの早雲(そううん)だ。


 今度は本体らしい。

 雨混じりの乱風に半白の長髪をなびかせ、はためく羽織袴(はおりばかま)には雨染みが目立ち始めている。

 破壊神の霊玉(ウパーラ)のつめたい光を浴び、しんらより鬼めいた、もの凄い笑みを浮かべていた。


「おまえと猫娘はどこへでも消えるがいい。だが、その生き霊は置いて行ってもらおうか」

「これは大事な預かり物じゃけえ、渡すこたァでけん」

 鬼が岩のようにごつい手でメイを隠すのを見て、早雲は肩を揺すって笑い出した。


「預かり物? 血迷いおって! ()()はもともと我々のものだ。しかも……見ろ、現状を! 我らにくみせぬ古き神は間もなく(たお)れ、零課を憎む若き神の(かて)となる。天が我らに味方したもうたのだ!! 世を変える力だぞ、しんら! 人間の作った法が滅び、妖怪の楽園が実現するというのに嬉しくはないのか? さ、早く生き霊をこちらに渡せ! それとも……」


 と言葉を切ったとたん、その背後にぬうっと影のように黒い、大きな人型の式神が次々に立ちあがる。早雲の顔に、圧倒的優位を確信している者の、残忍な笑みが広がった。

「素戔嗚尊に食われて半分と残っていないその力で、式神(こいつら)と戦ってみるか? 五体満足で突破できるようなら、また仕事を与えてやってもいいが」


 あからさまなザコ扱いに、しんらは牙を鳴らして歯がみした。

 しかし居並ぶ式神を正面突破する自信はないらしく、じりっと半歩さがる。その時、

「……あちっ!」

 不意に楓が跳びあがった。むきだしの腕に破壊神の血がかかったらしい。あわててセーラー服のスカーフを引き抜き、白い煙をあげる肌をたたくようにぬぐう。


「の、野々宮さんっ、大丈夫ですか!?」

 メイの悲鳴に、楓は腕を押さえたまま「ぜんぜん平気!」と強気な笑顔をつくろった。

 だが、その手の中でスカーフがいきなり溶け始め、楓があわてて放り捨てたとたん、空中でぼっと燃えあがる。そんなものが肌にかかって、平気なはずがない。


「こうなりゃあ、()るか()るか……」

 しんらが大きな口の中でがらがらとつぶやいた。たちまちその巨体に、捨て身の決意のこもった力がためられていく。メイは思わず叫んだ。


「やめて、もうやめてください! いいんです、わたし、あの人のところに行きますから!」

「なァにを言……」

 鬼が目を丸くして反論しようとする──その言葉が終わるより速く、メイは鬼の太い指の間をすり抜け、地面めがけて飛び降りる。


(!)

 気持ちの高ぶりと緊張に、またもや時間がはてしなく、引き延ばされていく心地がした。

 けれど、ビルの屋上から飛び降りるような風景にもかかわらず、今度ばかりは高すぎる、とか、飛び降りたらケガをするかも、などという考えは、浮かびもしなかった。


 親切な楓。

 律儀なしんら。

 そして純情なミコを、これ以上傷つけたくなかった。

 それには早雲に自分を渡してしまうのが、一番手っ取り早い。


 破壊神だって、早雲がメイを手に入れたと気づきさえすれば──

 メイ以外の人間は殺さない、という約束がある以上、早雲からメイの生き霊を奪い返すのはめんどうなはずだ。

 どうでもよくなって、逃げるという選択をしてくれるかもしれなかった。


(そうなりますように!)


 それだけを一心に願いつつ、小さなメイは、アスファルトに問題なく着地した。

 そのまま、場のすべての動きをスローモーションのように感じながら、一歩、そして二歩、早雲へ向かって泳ぐように跳ねる。

(あ!)


 しんらの陰から出たとたん、なにか大きなかたまりが、後ろから頭に当たった。

 つめたい、とも、熱い、とも感じる間のないうちに、それはやわらかく変形し、砕け散りながらメイの顔を、手を、赤く濡らしていく。

 破壊神の血のしずくだった。焼かれる! と覚悟したが、不思議なことになにも起きない。

 代わりに、


(……!?)

 メイは破壊神の命を、まるでその中にもぐってしまったかのように、リアルに感じた。

 それは、驚くほど巨大な命だった。

 何千年……いや、もしかすると一万年を超えるほどの時を営々と生き抜いてきたとほうもない命の気配が、その血から伝わってくる。

 まるで神話の語る、世界のはじまりから生えている幻の巨木のようだ。


 だが、その巨木は今まさに、倒れようとしていた。

 樹液が干上がり、衰え枯れた幹のきしむ音が聞こえるかのようだった。

 なのに、どこまでも無情で透明なその命は、死を歓迎もしないが恐れもせず、平然と目を見開いたまま最期の時を迎えようとしている──。


(!)

 この方法では()()()()()()。あと一撃か二撃で、さしもの巨大な命も尽きてしまう。

 そう直感した刹那──

 メイは我を忘れ、光の矢と化して飛んだ。


「!!」

 落雷をしのぐまぶしさに、早雲や楓の瞳孔が縮むより速く、メイは湖の上空に浮かぶ、龍神と破壊神との間に割って入った。

(お願い、殺さないで!!)

 声に出して叫んだか、それとも心の中で思っただけか、自分でもよくわからなかった。

 だが叫んだと思った瞬間、蛇女神(ナーギニー)の縮身薬の効果が破れ──


 メイは本来の大きさで、龍神がふりおろそうとする剣の前に両手を広げて立っていた。

 背後に破壊神の、かぎりなく当惑に近い驚きを感じた。

 それからなぜかその驚きが、原始的なまでに純粋な、強い恐怖に変質するのを感じた。


 死をも恐れぬ夜叉神。

 恐怖そのものを忌み嫌う戦神(いくさがみ)が、なにをそんなに恐れるのか。

 見当もつかなかったがメイはその瞬間、自分は破壊神に、なにかとても悪いことをしてしまったのかもと感じ、少しだけ後悔した。


(ごめんなさい……)


 でも今さら引き返せない。

 メイの身体に憑いた龍神の、返り血に汚れた顔にも驚愕の表情が浮かんでいた。

 その瞳は、せつないほど優しく澄んでいた。破壊神を一撃で殺せない自分の非力を、心から申し訳なく思っているのがひしひしと伝わってくる。


 その澄みきった瞳に、強烈な拒絶と後悔の色がよぎった。

 このままではメイの生き霊を斬ってしまう。龍神はそんなことは望んでいなかった。しかし血みどろの剣を、全力でふりおろす途中で止めるほどの技量は、彼にはない──。


(ああ……ごめんなさい)


 またたきひとつにも足りない一瞬に、メイはその場のすべての存在にわびた。

 なんだかもう誰も彼も気の毒でたまらず、悲しくて腹が立ってどうしていいかわからない。

(ごめんなさい、ごめんなさい、でも……)

 これ以上、誰にも死んだり傷ついたりして欲しくない、という思いが極限に達した瞬間、メイは形をかき消すほど輝き──


 爆発した。


        ◆


「!!」

 龍神のふりおろした剣は、まぶしい光の球となってふくれあがるメイの霊体に触れたとたん、あっけなく蒸発した。


 龍神は輝く霊圧にあらがう間もなくメイの身体からはじき出され、翡翠(ひすい)色の竜巻となって吹き飛ばされた。かろうじて、手からこぼれ落ちた破壊神の霊玉(ウパーラ)だけは、かぎ爪でつかみとる。


 一方破壊神は、目の前でメイが光そのものに変わる瞬間を、ぼうぜんと見つめていた。

 ()()()()()()()()()()()()

 なぜこんな時に、よりによって自分の内から、味わったことがないほど苦い恐怖がわいてくるのか、理解できなかった。


 死は恐ろしくない。苦痛も恐れの対象ではない。だから、メイが間近で霊力を暴発させること自体は、たとえそれで死ぬことになるとしても、怖くもなんともなかった。

 破壊神にとってこの世に、恐怖すべきものなどなにもなかった。


 ()()()()()()()()


 なのに今──

 メイの霊体が、単純すぎるほど純粋な思念によって残らず霊力に変換され、まばゆくふくれあがっていくにつれ、破壊神の恐怖も恐ろしい勢いでふくらんでゆく。

 ついに生まれて初めて、のどの奥からあふれかけた幼児のように切実な恐怖の悲鳴を、歳経た(いくさ)神は歯を食いしばって噛み殺した。


「!!」

 目がくらむほどまぶしい光が、破壊神をのみこんだ。

 勢いもパワーも、前回の爆発の少なくとも百倍は激しかった。

 しかし今回の光はどういうわけか血肉を削ることも、肌を焦がすこともなかった。それどころか全身の傷の灼けるような熱さがふと遠のき、底なしの疲労まで少しやわらぐ。


 破壊神は心底戸惑いながら、そらみろ、なにも怖がるようなことはなかったじゃないか、と自分をなだめようとした。だが、恐怖はおさまるどころかなお強烈さを増し──

「……!」

 破壊神に害をなすことなく通り過ぎた光の爆風は、湖面に触れるやみるみるうちに湖を本来の水の色に戻し、天に届くや黒雲に穴をうがった。

 そのまま、天地を結ぶ光の柱となって、音もなく消えていく──。


 黒雲にぽっかり開いた穴から、陽光が明るく射しこんできた。

 メイの霊体の残りカスがきらきらと光の粒となってただよい、溶けるように散っていく。

「…………」

 破壊神はようやく内なる恐怖が増大をやめ、凍結するのを感じた。

 それで、恐れた結果が現実になったらしい、ということだけはわかった。

 しかしまだ目の前の現実の、どこがどう恐ろしいのか、さっぱりわからない。


「…………」

 風に吹かれた光の粒が、淡雪のように肌にとまっては次々に蒸発していく。

 メイの意識は、もうどこにも残ってはいなかった。

 蛇女神(ナーギニー)の縮身薬で存在をながらえていただけの生き霊が、禁を破って二度も大きな力を放出したのである。消滅して当たり前だ。


 ()()()()()()()()()()()()


 憑いていた龍神が抜け、死体となったメイの身体がゆっくりと湖へ落ちていくのを、破壊神はつめたい銀の瞳で見おろした。

 生き霊は消えた、となんの感慨もなく確認する。

 それならもう身体になど用はない。

 食べそこねて残念だったが、龍神もこれで盾を失った。あの力量差ではもうかかってこないだろうから狩ることもできない。まったく骨折り損だった。さっさと立ち去ろう──。


「…………」

 なぜかまたも、身体が動かなかった。

 落ちていく死体から目をそらすこともできない。

 その白銀の髪がざわ、と激情の予兆に波立ち、拳に力がこもる。全身の筋肉が、殺気をはらんで不気味にきしんだ。


 みるみるうちに薄れ、失われていくメイの存在の残り香が、極大まで高まった瞬間に凍結した破壊神の恐怖を、不可解な暖かさで刺激していた。


 メイの最期の力に、恐怖や絶望の苦さはなかった。

 怒りや殺意の甘さもなかった。

 といって前回の、なにも考えていない命の、無味無臭の輝きとも違う。


 闘志と呼ぶほどではないが臆病者の感情にしては奇跡的なほど勇敢で、しかも、これほどの力を放ちながら、なぜかまったく攻撃的ではなかった。

 いや、攻撃どころかまるで──。


 破壊神は唐突に、メイが自分の意志でそばに戻ってきた時の、バカみたいに明るい笑顔を思い出した。その時メイが口にした言葉も思い出す。


 ──「生きててくださって嬉しいです!」

 メイの喜びにはずむ声が、記憶の中にありありとこだまするのを聞いたとたん、破壊神はやっと、単純にして明白な事実を認識した。


 あの時は妙なことを言っているとしか思わず、うっかりと聞き流してしまったが、あのバカはあのセリフを正真正銘、本気で言っていたのだ!

 証拠に今また、あの言葉を発した時とまったく同じ、奇妙な暖かさに満ちた力を放ち、命を賭けて同じ考えを表明した──。

 そう気づいた時、メイの力の残響、その最後の余熱が、すうっとなだらかに消え失せた。


 もうなにも残っていない。


 なくなった。


「……!」


 突如、存在そのものが崩れていくような強烈な動揺が、破壊神の魂を揺るがした。

 それがなくなってしまった瞬間に初めて、破壊神は自分がそれを、確かに持っていたということに気づいたのだった。


 長く生きてきていまだかつて、ただの一度も得たことのないなにか。

 夜叉神の心性では名づけようもない、欲しいと思ったことさえないなにか。

 どうにも理解しがたいなにかが、たった今まで確かに、メイの命とともにそこにあった。

 そう、気づいた瞬間。


 龍どころか、神々ですらひるむような暗い憤怒のうめきが、破壊神の全身を震わせた。

 所有したいと望んだことさえないというのに、なんだかわからないそのものを、自分はなぜか失いたくなかったのだと悟ったのである。


 戦えずに死んでもべつにかまわないほど。

 それを失うかもしれないと思うだけで、わけもわからず恐れおののくほどだ。


 なのに他ならぬ……()()()()()()()()()()()()()


 文字通り怒髪天を()く激怒に、かっと額の第三眼を見開いた破壊神は、今にも湖水に落ちようとするメイの死体に襲いかかった。



6 暗黒神(マハーカーラ)の涙②に続く


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