第1話 じゃない方の白石くん
全国3738校の頂点を懸けた戦いが、ついに幕を開ける。
夢の舞台、国立競技場――そのピッチに立ち、僕は静かにキックオフの瞬間を待つ。
澄み切った一月の空はどこまでも高く、陽光に照らされた天然芝が鮮やかな緑を湛えている。
詰めかけた観衆は6万人にも達し、会場は異例の超満員。熱狂の渦は、もはや噴きこぼれる寸前だ。
ふっ、と僕は短く息を吐く。
緊張で跳ねる鼓動を持て余しながら、視線をスタンドの一角へと向けた。
チームカラーの『栄成ブルー』に染まった自陣応援団から、勝利を願うチャントが爆音で絶えず響いてきている――その中心の最前列で輝くのは、サファイアのように澄んだ青い瞳。この凄まじい熱気の中でも、決して埋もれることのない存在感を放っている。
引き寄せられるように視線が結ばれ、彼女が柔らかく微笑みながら小さく頷く。それだけで僕の心臓はさらに強く脈を打ち、全身の細胞が泡立つ。
思えば、ずいぶん遠くまできたものだ。
あの日、黄金の砂時計をひっくり返すように唐突に始まった僕の青春。完璧からは程遠く、それでいて最高に愛おしい日々が、今ここに結実しようとしている。
かつての自分は、『じゃない方の白石くん』と揶揄されるだけのモブだった。挫折に沈み、情熱を失い、ただ安穏と日常に逃げ込もうとしていた。
けれど、今は違う。
皆にチームのエースとして認められ、国立のピッチに立っている。
主審が腕時計をセットする姿を目が捉える。
間もなく、絶対に負けられない戦いが始まる……高校入学から今日までの出来事が、まるで走馬灯のように流れ出す。
ここまでの道のりは、僕と彼女が手を取り合って駆け抜けてきた物語そのもの――夢の青春スクールライフと似ても似つかぬ汗だくサッカーライフ、その軌跡のすべて。
高らかにホイッスルの音が響き渡る。
さあ、キックオフだ。
***
「おーい、『じゃない方の白石くん』はいるかなー?」
この春に栄成高校へ進学し、三日が経つ。
朝のSHRが開始されるちょっと前に登校した僕は、1年D組にある自分の席で静かにスマホを眺めていた。
運良く窓ぎわ最後列をゲットできたおかげで、吹き込んでくる柔らかな春風を真っ先に堪能できる。ガヤガヤと騒々しいクラス内で、のんびり動画を眺める朝のひと時はとても穏やかで、まるで別世界。
けれど今日は、見知った女子生徒が教室後方のドアから顔をのぞかせたせいで、いつもより早く現実へ帰還することになった。
「あ、いたいた。ちゃんと返事してよね、白石兎和」
今度は変なあだ名ではなくフルネームで呼ばれ、僕は顔を向ける。
ブラウンのショートボブを揺らしながら歩み寄ってくるこの女子生徒の名は、小池恵美さん。サッカー部のマネージャーの一人だ。
彼女は愛嬌のある顔立ちと小柄な体型の持ち主で、『小動物っぽくて可愛い』と早くも男子生徒の人気を集めている。タータンチェックのスカートが好評な制服もよくお似合いだ。
僕はブレザーがかなり浮いているというのに。実に羨ましい。
「あ、おはよう。小池さん……」
「はい、これ」
挨拶を交わすこともなく、いきなり数枚のプリントを雑に手渡される。
ツンデレ幼馴染が忘れものを届けにきた場面に見えなくもない。しかしそんな青春ストーリーは妄想でしかなく、現実はただの連絡事項。
そっけない態度とはいえ、きちんと役目を果たしてくれるだけありがたい。同じ部活でなければ、僕のようなモブとは口をきく機会もなかっただろう。
「えっと……なにこれ?」
「部活でやるフィジカル測定のマニュアル。マネージャーで手分けして、サッカー部の1年全員に配ったんだよね。でもチェック欄みたら、なぜか『じゃない方の白石くん』にだけ丸ついてなくてさ。誰も配ってないとか、どんだけ存在感ないの? めっちゃウケるんだけど」
あはは、と笑う小池さん。
いや、まったくウケねーよ……つまらなすぎて、知らない言語のジョークでも聞かされたのかと思ったくらいだ。
何より面白くないのは、再三にわたって繰り返される微妙なフレーズ。
実をいうと僕は、この栄成高校へ入学して早々に不名誉なあだ名を授かっていた……それは、『じゃない方の白石くん』というもの。
この高校の1年生には、二人の白石くんが在籍している。
強豪サッカー部の期待の新人で、コミュ力も高い陽キャのイケメン。
もう一方は、同じサッカー部員でも特に目立たず、コミュ力も容姿も凡庸なフツメン。
前者の名を、白石鷹昌。
後者の名を、白石兎和。
ただ同姓というだけで両者は比較され、顔面偏差値やコミュ力で劣る方の白石である僕、白石兎和は、無慈悲にもスクールカーストの下層へ振りわけられてしまったのである。おまけに、瞬く間に『じゃない方の白石くん』呼びが定着した。
「ちゃんと渡したから。じゃあねー、じゃない方くん」
用事は済んだとばかりに、颯爽と去っていく小池さん。
酷いときは、今みたいに苗字すら省いて呼ばれたりもする。いやなタイパがすぎる。人によってはイジメに感じても不思議じゃない。
「なーにが『じゃない方』だ。兎和もちょっとは怒れよ」
入れ替わるようにしてやって来たのは、クラスメイトで友人の須藤慎。
がっちりした体型に、シャープな顔立ちのイケメンだ。黒の短髪アップバングが清潔感をプラスしている。バスケ部に所属しており、身長は180センチと僕より7センチも背が高い。
彼とは出席番号が近く、自然と話すようになった。すぐに席替えがあって離れてしまったものの関係は切れていない。
「なあ、お前はムカつかねーの? あんなあだ名、ただ馬鹿にしてるだけだろ」
「あ、おはよ、慎。まあ面と向かって言われればイラッとはするけど、あまり気にしてもしかたないしね」
慎は空いていた前席の椅子を勝手に拝借し、腰を落ちつけるなり不機嫌そうに鼻を鳴らす。
僕の反応にもご不満な様子……だけれど、僕を『じゃない方』扱いするのはろくに知らない人間ばかり。慎を含め、付き合いのある友人はちゃんとした名前で呼んでくれる。
僕はそれで十分だ。あと実を言うと、ちょっと納得している自分がいたりする。
この目で見た白石(鷹昌)くんは現にモテそうなタイプだったし、本当にサッカーも上手らしく評価自体に間違いはないので、強く否定できないのだ。
「まったく、兎和は温厚というかなんというか……本当に困ったときはちゃんと言えよ」
「うん。ありがとね」
「そんで、そのプリントは?」
「部活でやるフィジカル測定のマニュアルだって」
ペラペラとめくって軽く目を通す。
栄成高校サッカー部では本日、放課後にフィジカル測定をおこなう予定だ。このプリントには全体の流れや順番、ペアを組む相手などが記載されていた。
「今日から正式に部活開始だもんな。でも、さすが強豪サッカー部。ただの測定からしてやたら本格的だ」
「そうかな。バスケ部は違うの?」
「うちはフィジカル測定自体やんないぜ。あんま強くないから、そこまで熱心に活動してないんだよ」
文武両道を掲げる栄成高校では部活動も盛んだ。とりわけサッカー部は、過去に『インターハイ出場』を達成するなど際立った実績を残しており、歴史の浅い学校ながらも新進の強豪校として知られる。
現在の目標は、インターハイおよび選手権での全国出場。加えてトップチームが参戦中の『T1(東京)リーグ』で優勝、並びに昇格戦を制してプリンスリーグへの参入。
「サッカー部は、理事長のお気に入りだから特別だな。実績出さないとダメだろうし、プレッシャーがエグそう」
慎の言う通り、我が校の理事長は『サッカー大好き』を公言してはばからない。
高品質の人工芝ピッチにナイター設備、最新のトレーニング器具や優れた指導者――Jリーグのクラブアカデミー(下部組織)に匹敵する恵まれた環境は、理事長が直々に辣腕をふるって整えたと聞く。
本音を言えば、もうちょいカジュアルに活動している学校へ行きたかった。
僕はこれまで、生活のほとんどをサッカーに費やしてきた。けれど悲しいかな、深刻な『トラウマ』の影響もあって才能は芽吹かず、ゲロまずい挫折の味をいくども噛みしめてきた。
だから、高校では『サッカーはほどほどにしてゆる~く青春を楽しむ』と決意した。これからは可能なかぎり、部活よりも友人と遊びにいく方を優先したい所存である。
「慎、今日の放課後どっか遊びいかない?」
「いや、いま部活だって話をしてたよな……?」
「……もちろん冗談です」
「ホントか? あ、そうだ兎和、シロタカには絶対負けんなよ」
シロタカとは、もう一人の白石くんのあだ名である。白石鷹昌、両の頭文字をとってそう呼ばれている。
そんな彼を毛嫌いしているのだ、慎は。理由は『兎和に変なあだ名ついた原因だろ』とのこと。まったく、中身までイケメンなんだから。
「でも、う~ん……勝ち目なしかなあ。僕、サッカー下手だし」
「兎和もセレクションに合格したんだろ? 条件は一緒じゃん」
「まあ、一応ね」
一応、という曖昧な表現がこれほどしっくりくることも珍しい。
僕は小学1年生の頃から『ブルースターJYFC』というジュニアユースクラブに所属していたのだが、試合に出た時間よりもベンチを温めている方がずっと長かった。
しかも有望な同期メンバーは、中学卒業時にクラブから推薦を受け、Jリーグアカデミー(U18)や強豪ユース、あるいは全国の名門校へと進んだ。
そんな中、僕に提示された進路は地元の強豪・栄成高校のみ。クラブからのお情けで拾ってもらったようなものだ。
もちろん別の道もあった。関係ない高校を受けることも、サッカーをすっぱりやめることもできた。しかし並々ならぬ熱意でもってサポートしてくれる両親の気持ちを思うと、それも憚られ……結局はずるずると流され、現在に至る。
「そもそも僕たちはポジションがぜんぜん違うから、マッチアップする機会はそう多くないと思うけど」
「兎和はディフェンスだろ。で、シロタカはオフェンスだったよな? なら、紅白戦とかで戦うことになるかもしれん。ヤツには1点もやるんじゃねーぞ」
ずいぶんと無茶な要求をなさる。
白石鷹昌のポジションはOFM、僕はSB。紅白戦なら確かに何度かマッチアップするだろう。
ただし相手は、未来の『10番』候補。期待の新人と呼ばれるに足る理由だってちゃんとある……なんと彼は、Jリーグアカデミーの出身なのだそうだ。どうして栄成高校にいるのか首をかしげるほどの逸材である。
「相手が悪すぎるって。僕なんかじゃ太刀打ちできないよ」
「そこは気合で頑張れ。スポーツはメンタルが重要なんだぞ。相手をぶっ飛ばす勢いでぶつかってこい」
ぶっ飛ばしたらファウルを取られそうなものだが、方向性自体は間違っていない。
メンタルがクソ雑魚すぎて、ジュニアユース時代に叱られまくっていた僕である……良くいえば協調性が高い、悪くいえば流されやすい。
その性格が災いし、試合中は誰かに怒られないか不安でいつもビクビク怯え、イメージ通りにプレーできた記憶なんてほとんどない。
ああ、ダメだ……考えていたら嫌な記憶がフラッシュバックしてきた。ゲロ吐きそう。
「……慎、やっぱ今日遊びに行かない?」
「いや、だから部活だって言ってんだろうが。初日からサボりはやばいだろ」
「いや、わかってるんだけどさ。ついね……あ、そういえば教えてもらった動画みたよ」
遊びにいくのは当然却下、僕も半分冗談のつもりだったしね。
そこで、せめて急速に胸を覆いはじめたモヤモヤをはらすべく話題を変えようとした。が、ちょうど予鈴が鳴りタイムアップ。
「1時間目は数学か、だりー。また後でなー」
文句をたれつつ自分の席へ戻っていく慎。
おい待て、この憂鬱な気分をどうしてくれる。友よ、今は僕を一人にしないでくれ……。
ふうっ、と。
溜息を吐きながら、気を取り直すようにフィジカル測定の用紙へ視線を落とす。そこで、戦慄の記述を見つけた
――ペア、白石鷹昌・白石兎和。
地獄の放課後が、僕を待っているらしい。
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