最終話 終わらないふりだしと操り人形の微笑み
耳を劈くようなパトカーのサイレンと、怒り狂った男たちの怒号。
それがふっと遠のいたかと思うと、代わりに間の抜けた電子音と、陽気でチープなBGMが鼓膜を揺らした。
(……えっ?)
全身を包み込んでいた、あの凍えるような泥水の冷たさと生ゴミの悪臭が消えている。
代わりに鼻腔をくすぐるのは、ハンバーグやフライドポテトの油の匂い。
背中から伝わってくるのは、冷たい泥の地面ではなく、妙に弾力のあるビニール製のソファの感触だった。
「……は?」
恐る恐る目を開ける。
目に飛び込んできたのは、煌々と輝く眩しいほどの蛍光灯。
そして、見覚えのある薄汚れた白いテーブル。
俺は、安っぽいファミリーレストランのボックス席に座っていた。
手元には、まだ一口も飲んでいない、鮮やかな緑色のメロンソーダが置かれている。
俺は弾かれたように身を起こし、自分の体をベタベタと触りまくった。
着ているのは、あのドロドロになった30万円のオーダースーツではない。
量販店で買った、安物のスエットの上下だ。泥の汚れも、カラスが突っついた生ゴミの汁も一切ついていない。
テーブルの下を覗き込む。
逃走中にガラスの破片が突き刺さり、血まみれになっていたはずの両足には泥だらけの、安全靴が履かれている。
逃げる途中で落としたはずの財布も、胸ポケットの中に確かな厚みを持って存在していた。
(夢……? いや、そんなはずはない!)
あの2000万円が入った紙袋の重み。足の裏が裂けるような激痛。
手錠をかけられる寸前の、あの心臓が破裂しそうなほどの絶望。
すべてが細胞の隅々にまで、焼き印のように鮮明に刻み込まれている。
あれは、絶対にただの悪夢なんかじゃない。
震える手でポケットからスマホを取り出し、画面を点灯させる。
画面の上部に表示された『日付』を見て、俺の心臓はドクンと大きく跳ねた。 今日は、数ヶ月前。
俺が『エリートパイロット・谷口』という嘘の仮面を被り、結婚詐欺の最初のターゲットをこのファミレスに呼び出した、まさにその『運命の初日』だった。
「あ、あの……谷口さん、ですか……?」
ふいに頭上から、上擦った細い声が降ってきた。
顔を上げる。そこには、パツパツのピンクのワンピースを着た女が立っていた。
少し小太りで、緊張のあまり顔はテカテカに脂ぎっている。『A子』だ。
あの便所の前で、俺の顔面に濡れたハンカチを叩きつけ、「この変態の底辺男!」と唾を吐き捨てたあのA子が、頬を赤らめて俺を上目遣いで見つめている。
(ヒッ……!!)
喉の奥から、悲鳴が込み上げた。 逃げなきゃ。
こいつに関わったら、またあの地獄の修羅場に一直線だ。
「人違いです」と言って、今すぐこの店を飛び出さなきゃならない!
俺は口を大きく開き、全力で否定の言葉を叫ぼうとした。
「ちが――」
だが、俺の喉は空気を吐き出すだけで、音にならなかった。 いや、違う。
体が、俺の口が、俺の意志を完全に無視して動き始めたのだ。
恐怖で震えているはずの俺の顔の筋肉が、勝手に『エリートパイロットの爽やかな微笑み』を作り上げる。
そして、俺の口が、俺の意志とは全く無関係に、あの日と同じ『セリフ』を勝手に紡ぎ出した。
「初めまして、A子ちゃん……だよね? あ、ごめん。いきなりで悪いんだけど……」
(やめろ! 言うな!! その言葉を言ったら終わりだ!!)
俺は心の中で血の涙を流しながら絶叫した。
だが、声帯は滑らかに、あの呪われたセリフを唱え切った。
「……めちゃくちゃ俺のタイプだな。ごめんね、こんなこと言って…」
A子の顔が、茹でダコのように真っ赤に染まった。
(あ…ッ……言っちまった!)
彼女の潤んだ瞳は俺の顔だけを真っ直ぐに捉え、俺が心の中で上げている断末魔の叫びなど、微塵も気づいていない。
俺の視界の端で、テーブルに置かれたスマホの画面がチカチカと点滅し、一文が浮かび上がった。
あの『黒い目玉』のアイコンが、画面の奥から俺を見下ろしてニチャアッと笑っている。
【 読者に報告:ターゲットの記憶はそのままに、肉体の制御権をシステムが完全掌握しました。 】
【 読者の皆様、これよりターゲットが『全く同じ地獄を永遠に繰り返す』無限ループ編のスタートです。末長くお楽しみください。 】
(ああ、ああああああああっ……!!)
俺の心の中の狂ったような悲鳴と、テーブルの上でメロンソーダの氷がカランと溶ける音だけが、永遠にファミレスの中に響き続けていた。
【主題歌】公式主題歌公開 ➡ https://youtu.be/rSQ0_whMSQA
【TikTok】
https://www.tiktok.com/@kazuki6400/video/7640484254190718225?is_from_webapp=1&sender_device=pc&web_id=7588754456154867221
画面をタップするな、俺が地獄に落ちるだろ!〜足立区のクズ男が、読者である「お前」を道連れにする話〜
ー完ー




